韓国:生き別れ4年、夫の釈放を前にして『竜山レア』と会った | |
[MenuOn] Home | ニュース | イベント | ビデオ | キャンペーン | 韓国 | コラム | About | Help [login ] | |
生き別れ4年、夫の釈放を前にして『竜山レア』と会った[インタビュー]竜山惨事犠牲者家族チョン・ヨンシン氏
チョン・ジェウン記者 2013.01.29 18:00
竜山惨事拘束者赦免? 結果が発表されるまで、胸が燃え上がった。マスコミで 赦免の可能性が報道され、電話が鳴り響くので、複雑な気持ちになる。拘束者 の赦免、期待していなかったと言えば嘘だ。今度は青瓦台から竜山惨事拘束者 の赦免不可の方針などは出てこなかった。周囲でも、『常識水準で処理するで しょう』と言う。常識が崩れ、曖昧な話でも、夫釈放の可能性に気持ちが傾く のは当然の事だ。 内心で『政権末期に人間になったのか?』と思いながらも、大統領側近の赦免の ために政治的に竜山惨事を利用すると思うと腹が立つ。さらに、MB政権の下で 発生した竜山『虐殺』ではないか。 赦免? だから期待はしていなかった。期待が大きければ失望も大きいものだ。 すでに経験したではないか。1年前、竜山惨事3周年の時にチョン・ヨンシン氏 の夫、竜山4商工撤去民対策委のイ・チュンヨン委員長をはじめ、獄中生活をし ている仲間たちは釈放されなかった。朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長が 拘束者赦免を要求し、今度は監獄から出て行けるとして『打ち上げパーティ』 まで開いてやるという人もいる。結果が発表される前日、竜山惨事で収監され ているキム・ソンファン、キム・ジュファン氏と面会して来たチョン・ヨンシン氏だ。 「二人は『MBが私たちを出すのか。期待しない』と話した。冷たい監獄でどれ ほど気持ちを引き締めているのかが感じられて痛ましかった。私なら当然、私 たちをまず赦免しろと言うだろうが、外で闘っている人を心配して、気持ちを 隠し、話すことができない彼ら。4年も獄中生活をしたのにもう1年残っている と考えているようだった。それで私は『近い将来、出てきて焼酎一杯飲もう』 と話した。夫も自分の赦免ではなく、特に負傷者が赦免されなければならない と話した。私もそうだと思う。そうでなければ私も夫も暮らせない」 オール・オア・ナッシング。赦免するなら全員釈放しろ。竜山惨事の拘束者6人 の一部しか出られなければ、ヨンシン氏はいっそ夫が赦免されないことを望む。 連帯した仲間でなく、撤去民対策委の委員長である夫が赦免されれば胸が痛く 苦しいという。残忍なことだ。 ところが拘束者5人が1月31日に赦免されるという。MB政権が『それでも私達を 人だと思っているのか』と考えた。夫の釈放を控えてとても嬉しく、何も言え ないと明るく笑うヨンシン氏の姿に周辺が明るくなる。355日間の葬儀闘争で、 ふだん着よりも喪服の方が似あって見えた彼女にも良いことが起こった。竜山 惨事の後、挫折ばかりだったのに、初めてうれしいことが起こった。6年の恋愛、 8か月の結婚生活、4年の離別... いよいよ終止符を打つ。 #. 毎日あなたと夫のイ・チュンヨン氏が釈放されれば真っ先にしたいことを聞くと、ないと言 いながらきゃっきゃと笑いながらぞろぞろと出てくる。「ただ一緒にいたい」。 単純ながらも、真心から出てくる言葉だ。 「毎日一緒だったように、共に手を握って歩いて、映画を見て。わかりません。 全部いきたいです。市場に行きたい。夫そうなってから私は大型スーパーに行っ たことはありません。一人でいて買い物の用事がなかったのですから。雑貨屋 で焼酎、ビールでも買えば(笑)。小さな日常を一緒にしたいです。そう、ウド ンも食べに行きます。夫はグルメなんですよ。旬の食べ物、おいしい食べ物が 好きです。今も監獄の中で『義父さん、あれが好きだけど今が一番おいしいか ら買って上げて』と言います」。 初めはそうだった。愛する人々がすることはみんなした。だがやさしいヨンシ ン氏が一番気になっていることは別にある。夫チュンヨン氏を一人で牡丹公園 に行かせることだ。一人でチュンヨン氏のお父さんや、竜山惨事の烈士と会わ せたい。監獄の中で何も出来なかった夫だった。生きるために櫓に上がって お父さんを殺した息子、『テロリスト』と烙印された夫だった。ヨンシン氏が 牡丹公園に行くと言うと、お父さんも烈士の方々も酒が好きだから、いっぱい 酒を買って行き、注いで上げろと頼んだ夫だった。 ▲[資料写真] 「誰もついて行かずに。一人で牡丹公園に行かせて、これまで泣けなかったこ とを思い切り泣いて、みんなとお父さんに言えなかったことを全部話せるよう にしてあげたい。多分そうすればあの人は世の中に出てくる時、もう少し自信 がつくでしょう。単に責任だけを感じるのではなくて自信です。胸に抱いてい れば、夫はすぐ疲れてしまいます。竜山惨事に連帯する人々は後でゆっくりと 会えばいいのです。どうせ私たちの戦い、竜山惨事真相究明と責任者処罰の戦 いは長いでしょう」 あの多くのアメはどこに行ったのだろうか? ヨンシン氏とチュンヨン氏は裁判 の時、法廷でアメとビタミン剤をやりとりして切ない気持ちを伝えた。知って いる人は皆知っているエピソードだ。恥ずかしいほどよく笑う彼女は、今回も あの多くのアメとビタミン剤をみんな食べたと笑う。ふと顔も赤くさせたいと いう茶めっけが発動する。6年恋愛をしたというけれど、二人はどのようにして 出会ったのだろうか。 「夫はとても怖がりです。真っ暗で、おばけが出るようなことを怖がります。 夫と私の友人が、食事の後、夜風に当たろうと長興に行きました。その時は、 夫が私のことをずっと追いかけていた時で、スーパーマンでした。どこに行っ ても現れました。暗くなって、夫が運転して帰ったのですが、わざとかどうか、 曲がりくねった田舎道に入ったのです。夫が怖がって、運転が不安だが手を握っ てくれないかといいました。男なのにこんなことが恐ろしいかと思いましたが、 私も不安で手を握ってあげました。そうして長興から3時間以上かかって帰りま した。後で聞くと、少しでも長く手を取っていたくて、回り道をしてソウルに 帰ったといいました。あの時、手を握るべきでなかったのに(笑い)」 チュンヨン氏はヨンシン氏に『可愛いおくさん』という。神様よりさらに高い 人なんだ。『細やかで愛想が良い人』と夫を自慢するヨンシン氏の頬が赤くな る。状況が心苦しかったのか、一言付け加えるヨンシン氏だ。「そんな人を テロリストと言うのですから...」 #. 愛した後に『竜山遺族』と呼ばれたヨンシン氏が、『活動家チョン・ヨンシン』になった。 竜山惨事真相究明および再開発制度改善委員会の活動を始めたのだ。これを夫 に知らせた時、最初の一言は「申し訳ない」だった。そして面会に行くたびに 苦労する妻のために、出所すれば「お前の仕事は全部ぼくがやるよ」と話す 頼もしい夫だった。 「私はもともと社会的な問題に関心はなかったのですから。夫を失って息子も 監獄に送った姑も大変で、少なくとも私の夫、拘束者、拘束者の家族、遺族、 韓国社会の無慈悲な開発問題に対して誰かが責任を持って動かなければいけな いと考えました。そしてただ一つ。私が何かをすれば、拘束者が釈放されると 信じていました」 夫は面会に来たヨンシン氏に良くない話もした。外の状況が気に入らなければ 助言をした。時々聞く小言だが、ヨンシン氏はそれも分かった。夫だけでなく 拘束者の家族の言葉も彼女は分かった。竜山惨事が彼女をそうした。私もこん なにくやしいのに、監獄にいる夫はどれほどくやしいか。考えるほどに彼らが 痛ましかった。 「1審判決を受けて拘束者の家族が出てきて夫に願望混じりの話をしたりもしま した。私はあの方たちがうらやましかったです。私は怒りをぶつける対象がな かったのです。恨むより、どこに行ってもいつも『申し訳ありません』といわ なければならなかったんですよ。でも私が恨む対象は別にありました。あの人 たちがとても元気に暮らしているというのが問題です。だから私はさらにくや しいのですが、閉じ込められている夫はさぞかし大変でしょう」 ▲2009年10月21日午後2時、ソウル中央地法311号法廷。検事は事務的な声で竜山惨事被告人の撤去民に対する求刑を提示した。求刑を聞いたイ・チュンヨン氏の夫人チョン・ヨンシン氏と母のチョン・ジェスク氏は涙を流し続けた。[資料写真] 死んで生き返った夫は、監獄で鎮痛剤を服用した。櫓から飛び降りて、水溜り に落ちて助かったチュンヨン氏だ。集中治療室で生死の境をさまよって、一般 病室に移された時、お父さんイ・サンニム氏の死を知った。信じられなかった。 チュンヨン氏より体力が強いお父さんが死んだというのだから。飛び降りさえ すれば助かったという。「私のためにもお父さんは助かっただろう」と話した。 何よりも生きるために櫓に上がったのに、遺体になって戻ってきたお父さんだ なんて。信じられなかった。 ヨンシン氏が見るに、チュンヨン氏はお父さんを守れなかったという罪悪感と 爆発してしまいそうな鬱憤を一人でしずめているようだ。素振りに出すまいと する姿が一番残念だった。『お父さん』という単語を簡単に口に出すことがで きなかった。気持ちが弱くなるかと思って、ヨンシン氏に手紙も書かなかった 夫だった。1審の裁判が終わって安否を尋ねる手紙を何度か書き、最高裁判決が あってから手紙を書いた。あらゆる荷を下ろしたように見えた。 そんなに責任感が強く、強靭に見えた夫もわんわん泣く日があった。義父、義 母が面会にきた時だ。 「他の人はともかく、実家の家族が面会に来るととても苦しみました。特に、 実家のお母さんは周囲の顔さえ見れば泣きました。明るくてりりしい夫もその 時は泣きながら帰りました。多分私に対する申し訳ない思い、義父、義母への 申し訳ない思いのためでしょう」 初め二人の結婚に反対したが、『義父を救った婿』で、さらに切なかったのか も知らない。ヨンシン氏に能力あれば嫁入りせず一人で暮らそうとしたお母さ んだった。暮らしてきた環境が違い、初めは結婚に反対していた両親だった。 だが希少病を病んでいたお父さんのために献身するチュンヨン氏を見て、ヨン シン氏と家族は気持ちを変えた。まだヨンシン氏のお母さんは「お婿さんがお 父さん生かした」と言う。 「お父さんが何度も喉がかわいたといって、全身が真っ黒に変わり始め、有名 な病院にいっても病名がわからないといいました。夫が事実を知ってうわさを たよりに捜し、病院を予約しました。エジソン病でした。その時、家族のため には本当にできないことはない人だなと思いました。信頼できました」 #. 心配しません、あなた本当につらい時間だった。355日後に葬儀を行い、最高裁の判決を待つ時間が、 一番苦痛だった。夫と6年間恋愛して、8か月結婚生活をしたのに、互いに離れ たことはなかった。恋愛の時、露天商をしても隣で一緒にした。仕事が終われ ばビールでも飲んで別れた。 竜山惨事の後、考える間もなく1年が流れ、葬儀を行うと行くところがなかった。 家も、店も、夫もなかった。実家からも出てきた。姑がいる竜山に部屋を一つ 得た。そして睡眠剤を飲んだ。 「とても生きていけない。その時が一番大変でした。その時は本当に目を開け ば面会に行きました。予約すればすぐ面会できるのに、予約もしないで行きま した。ただそこの拘置所に座って、手紙も書いて。苦しくて、精神科の治療を 受けたのですが、不眠症で苦しむので睡眠剤をくれました。一度は本当に死ぬ つもりで飲みました。3日後に目覚めました。連絡がないので両親がきたのです。 目が覚めて、実家のお母さんと会って、はっと気が付きました。私は、とても 無責任だったようです」 ▲[資料写真] その時からヨンシン氏はとにかく外に出た。撤去民、労働者と会った。なぜ行 くのかわからないほど、とにかく希望バスに乗った。そして耐えた。耐えた。 深さが分からない苦痛から抜け出した彼女が、夫への懐かしさをなだめる方法 は、ただ会えるということだった。夫もそうだった。そして淡々と「終わった わけではない」、「それでも私たちは会える」と言う夫のためだった。そうだ。 まだ終わっていない。何が終わったのか。 「それでも重刑ではないよといったが、1審が終わって夫と私は互いに何の話も せず泣きました。この人も罪人、あの人も罪人... 万人に平等な法なら裁判で 少なくとも真実が明らかになると思ったのに、重刑を宣告されたので、さっと 崩れました。こうして6年暮らさなければならないのか... その日、また警察と 激しく戦って、狂いそうになるほど苦しかった。夫が『終わったわけではない』 と言うのでとても慰められました。もっと強くなって、もっと戦わなければと 考えました」 ヨンシン氏とチュンヨン氏は、面会の時、できるだけ楽しい話をよくしたとい う。赦免の結果が発表されるまで「私たちの恋愛する時、冬にはこんなところ に行ったのに」といいながら笑った。4年前、1月20日が近付くほどそうだった。 近い将来、彼らが再会する。『竜山レア』、『竜山の嫁』... 多くの名前を持 つ彼女に『イ・チュンヨンとチョン・ヨンシン』という名称がまた元に戻った。 『舅が火に焼かれて死に、夫が監房にいるのに、何が嬉しくて笑うのか』とい う言葉が聞こえるようで、思う存分笑えなかったというヨンシン氏。これから は彼女がゆっくり笑えるようになることを期待したい。 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2013-01-31 09:01:58 / Last modified on 2013-01-31 09:02:01 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ |