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韓国:[インタビュー]釈放された竜山惨事撤去民
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4年前の叫び「ここに人がいる」

[インタビュー]釈放された竜山惨事撤去民、キム・ジェホ、キム・テウォン氏

チョン・ジェウン記者 2013.01.16 17:04

2009年の竜山惨事の時に占拠座り込みを行い、収監された撤去民キム・ジェホ 氏(57)、キム・テウォン氏(43)が連日、開発ブームで荒野になった跡地を訪れた。 竜山惨事4周年を控え『竜山惨事4周年汎国民追慕委員会』が計画した強制退去 現場巡回団のバスに乗った彼らは、ソウル市中区巡和洞、高陽市トギ、金浦市 シンゴク地区を見た後、「絶望的だ」と話した。

「以前、連帯のために行った場所、ご飯を食べた場所を思い出しました。万感 が交錯しました。そして私たちのように、残っている入居者は本当に大変だろ うと思います」。

ここの住民も、竜山再開発が進められたのとほぼ同じ時期に強制撤去で荒れた。 撤去民が生き残るために連帯して騒いだ撤去村は、いつまた再開発工事が始ま るかわからない約束のない所に変わった。4年前の強制鎮圧で6人の命が奪われ たナミルダンの竜山惨事現場もフェンスに囲まれた駐車場が残っただけだ。

空地と共に、心も荒涼としたのか。苦々しさを隠せないキム・ジェホ、キム・ テウォン氏だが、「それでもわれわれは生き残った」と話す。拘束者が赦免さ れ、撤去民が『テロリスト』という烙印ではなく、平凡な商売人として記憶さ れれば、世の中にそれ以上は望まないという彼らと1月15日の午後に、ソウル市 鍾路区大漢門近くに設置された座り込み村で会った。

▲ソウル市鍾路区大漢門の近くに設置された座り込み村で15日午後、キム・ジェホ、キム・テウォン氏と会った。開発ブームで荒野になった跡地を見てきたキム・テウォン氏は「絶望的だ」と話した。

とても長い時間...「それでも私たちは生き残った」

満期3か月前の昨年10月26日『キャンパスの日』特別赦免者で仮釈放された彼ら は、実はもっと早く監獄から出てくることができた。警察を殺したという容疑 で懲役4年になった二人だが、監獄でつきあっていた人からはテロリストとは見 えなかったようだ。

不合理な裁判が、あらゆるメディアを通じて知らされ、遺族や市民社会団体の 悲鳴が伝えられるたびに、監獄では「今度は出て行けそうだ」と言った。朴元 淳(パク・ウォンスン)ソウル市長が竜山惨事拘束者赦免を要請した時も同じだ。

「じっとしていても、同僚がもう出て行くのか... 雰囲気が良いと、ずっとそう 言っていました」。

▲満期3か月前の昨年10月26日『キャンパスの日』特別赦免者で仮釈放されたキム・ジェホ氏。遺族のチョン・ジェスク氏が涙を流しながらキム氏と向き合っている。[資料写真]

だが3年9か月閉じ込められ、共に闘った同僚はまだ監獄にいる。閉じ込められ ているのもくやしいが、ジェホ氏は特に裁判を受ける時が大変だったという。 真実を解明する裁判は、むしろ汚名をかぶる裁判に変わっていった。

「ああ、裁判のたびに出たくなくて。縛られて車に乗せられて行くことがどれ ほど嫌いだったか。出たり入ったりするたびに手錠をかけられ、ロープで縛ら れて... 裁判が終われば出て行かなくてすむので、本当に気が楽でした。調査 される時『違う』と言っても、厳しく追及して巧妙に心理戦に追い立てて、 話にもなりません。私たちのような平凡な商売人が検警の調査を受けたことが ありますか? 唇がからからかわいて腹が立ちました」。

くやしかった。生きるために櫓から飛び降りたのに、人を殺したことになって しまった。キム・ジェホ氏は「監獄に閉じこめられて、どうすることもできな かった。弱者は何も方法はないようだ」とつらい気持ちを一人でなだめたと言 う。テウォン氏も同じだった。それでも家族と外で戦っている遺族、同僚のた めに、長い時間を粘ることができた。

「われわれは生き残ったではありませんか。それが遺族にとても申し訳なく て... いつもそう思いました。外では竜山惨事が解決するまで、主張して戦う けれど。そう思うと、むしろ私たちは何でもありません。厳しい中で苦労して いるのを中で新聞、TVで見て、とても申し訳なかったんです。ですからとても つらかったです」。

2009年1月20日明け方、「走れ!」

自然に2009年1月20日の明け方を思い出した。櫓に上がって一日後にナミルダン・ ビルの上から警察のコンテナが降りてきた。用役業者職員の脅迫、暴力に疲れ、 3か月程頑張れば何とか解決するだろうと思い、ソウル市龍山4区域で特に高かっ た5階建のビルに上がった。しかし雰囲気は尋常ではなかった。

「職場生活の経験もなく、商売のほかしたこともない私たちが、一瞬で追い出 され、選択できる方法はビルに上がることしかありませんでした。率直に用役 チンピラはとても強くて、私たちは何度も殴られ、我慢できませんでした。い じめられることなく、早く対話で解決しようと上がったのです。ところがどう いうことか、すぐ警察が投入されるといって、さまざまなメディアが私たちを テロリスト、専門デモ屋と言いました。そうだったので、すぐに強制鎮圧でき たようです」。

テウォン氏がその時を回想して「ソウルの警察兵力が全部きたようだった」と 言うと、遺族のチョン・ジェスク氏が「全国の警官がみんな集まった」と相槌 を打つ。夜が明けて、果てしなく取り巻く警察兵力だけが見えた。

「警察がマイクを取って降りてこいと大声を張り上げ、深刻な雰囲気を作って、 『おい... 嫌な感じだ』と言いました。われわれは前日の夜も眠れなず、寒い 冬に用役チンピラが水をかけまくるので疲れて休んでいました。夜明けに押し かけて、私たちは突然やられました。気が気ではありませんでした。そばに誰 がいるのかもわからないし。大声を出して」。

▲[資料写真]

ソウル地方警察庁のキム・ソッキ長官が警察庁長の官になった翌日、ナミルダン に対話はなく、強制鎮圧だけあった。

「強制鎮圧が先だったようです。交渉を斡旋するべきなのに、私たちが厳しく 対応する手本だったようです。キム・ソッキ警察庁長官も過剰忠誠しようとし ていたのでしょう、多分」。

櫓の4階にいたテウォン氏は「警察のコンテナが降りてきた時に、すでに警察が 屋上の櫓の周辺を完全に占拠した状態だった」と言う。彼らは皆、誰かが「走 れ!」と言う声を聞いて櫓から抜け出し、屋上から飛び降りた。ジェホ氏はビル を取り巻く警官に「ここに人がいる」と大声を張り上げた。

「火は明らかに4階から出たのに、3階にいた私たちのためだと言って、人殺し にしました。ところで本当に火がそこから出たのなら、われわれは飛び降りる こともできなかったでしょう、多分。催涙ガスのおかげで、外で息をついて、 外を見ていたら、『走れ!』それで走りました。その時は火事が起こる直前です。 もし火事が起きたのを見て走っていたら皆死んだでしょう。火を見ずに飛び降 りたから助かったんです。すべて、何も前後が合いません」。

『娘バカ』のジェホ氏、老母の面倒を見る氏の告白

『娘バカ』のジェホ氏は今、9歳で別れ、13歳になった娘と長い時間を送ること が最優先だ。43歳の遅い年齢で結婚して、やっとできた大事な一人娘は、父の 不在と生計のために家をずっと空けていた母との間で憂鬱症を体験し始めた。 赤ん坊の時からジェホ氏が牛乳を飲ませ、おむつを取り替えて育てた父娘の間 だった。

「拘束されて7か月経って、妻は子供がどうも変だといいました。家で何かを投 げて、壊して。病院にに行くと、すぐ治療を受けなければならないといわれた そうです。子供が一人で暗い部屋に座って泣いているのを動画で撮影して、お 母さんに送ったりもしたそうです。だからお母さんは頭がおかしくなりますよ。 妻はそんな苦痛が何度もあったといいました」。

ジェホ氏は子供と漫画の手紙で対話を始めた。小さい時から絵の素質があった が、宝石店を運営し、趣味生活でたびたび肖像画だけ描いた。漫画で父の心境 を伝え、母の仕事の手伝いをしてくれと頼み、自分の部屋の整理はどうするか を描いた。一人娘に父親の漫画手紙400余通は『花が咲く竜山、娘に送る手紙』 という題名の本で発刊される。

「大事な娘です。いつも一緒に自転車に乗り、漢江から遠く自転車でに乗って 行った時は、私の自転車とロープで縛って一緒に乗って。お父さんとの関係が 切れてしまって子供が衝撃を受けたのでしょう。出所して私が送った漫画手紙 を整理して、部屋で子供に読んでやったのですが、その時は本当に泣きました。 父の心情を子供が知っていたかどうかわかりませんが...」

▲キム・ジェホ氏は拘束後、娘に漫画で描き、自分の話を娘に伝えてきた。[出処:文化連帯]

父の愛を知っていたのだろうか。ジェホ氏は子供が徐々に回復しているとし、 喜びを隠せない。子供にラーメンを煮る方法も教え、3年9か月の空白を埋めて いる。

「まだ散漫です。整理整頓もできない。これまで別れていたことだけでも子供 にとても悪かった。ラーメンを自分で初めて煮て、写真を送ってくれました。 お父さんと一緒にする時間が好きです」。

老母を見守って暮らすテウォン氏も、出所した時に喜んだ母の姿を忘れられな い。まだ結婚せず心配しているが、とにかく出所したことだけで安心だ。闘争 している時、常に「身の安全」といっていた母だった。

「監獄にいた時、母が一人なのがいつも気になっていました。そのほかは心配 はありませんでした。全州刑務所まで面会にきて、10分会って行くのですが、 その後ろ姿が悲しかったです。とにかく、母のことを考えると、生きて行って はいけない所に行ったでしょう。とにかく刑務所に行かないほうが良いのです。 子供の道理が尽くせないようで心が痛みます」。

「竜山惨事が解決しなければ楽に過ごせません」

ジェホ氏は妻がカラオケを運営して生計をたてているのが気にかかると言う。 出所しても気は楽ではない。一人で生計のために孤軍奮闘した妻だ。これ以上 商売のようなことはしたくもないが、監獄の彼としては、強く止めることがで きなかった。大した額ではない補償金では生計は苦しいが、直ちにすべきこと がある。

「竜山惨事が解決しなければ楽に暮らせません。個人的な生活も大変でしょう。 はるかに遠いですが、開発中断に努力します」。

テウォン氏にも希望がある。『テロリスト』ではなく『平凡な商売人』という 名称を取り戻すことだ。ジェホ氏は25年近く、龍山4区域で『進歩堂』宝石店を 運営し、テウォン氏は16年間、中華料理店『コンファチュン』を運営し、商売 しか知らない。竜山惨事拘束者のうち一番先に出所した彼らが今、政府に望む ことは何だろうか。

「拘束者の釈放を一番望んでいます。赦免され、くやしい汚名も濯がれるから です。信任はできませんが、政府は今すぐ拘束者を釈放しなければなりません」。

「同じです。少し考えただけでも簡単に解決する問題なのに、まったく耳を閉 ざしているのが問題です。大統領になれば自分が言った言葉もひっくり返して しまいます。市場に行ってトッポッキを買って食べ、ポーズを取っても、その 時だけだといったことは皆知っています。だから私たちがきちんと叫ばなけれ ばならないのです」。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2013-01-17 13:00:02 / Last modified on 2013-01-17 13:00:03 Copyright: Default

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