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「娼婦ではなく性労働者です」

[インタビュー]『性労働者』、なぜ彼女たちは自分を労働者と呼ぶのか

ソン・ジフン記者 2012.09.03 17:52

文頭であらかじめ明らかにしたい。この文は筆者の 確固たる考えと主張をするコラムではない。それでも現実を明澄に表わすルポ でもない。この文で扱う主題について書いた人の立場は、相変らず紛らわしく、 多分に不明確だ。だからこの文は、むしろ『質問』だ。この文を読んだ読者が また考えてほしいと思って投げる質問だ。男により、存在の意味が強制された、 その強要された存在というものが『一番かわいそうだ』ったり、『最も浅薄』 という極端な選択だけしかない、その存在に対する質問だ。この文は、読者に 投げる質問だが、それでも読者が中途半可な解答を出してほしくない。紛らわ しく、不明確な中でも、記者が理解した唯一のことは「これまで当然のことだ と思って信じていたことも、ただの一断面でしかないかもしれない」というこ とだ。よく見て、聞いて、悩むべき『生』は、もっと多様ではないだろうか。

『彼女たち』に初めて接したのは中学校1学年の時だった。引越しの直後、まだ なじまない町内をさ迷って入った路地、緩い(?)服装の彼女たちが三々五々集まっ て座り、営業の準備していて、無関心に私を見ていた姿が『彼女たち』に対す る初めての印象だ。入ってはいけない所に入ったという思いしかしなかった。 あわてて路地の外に出る道を探しながら、目は彼女たちをちらちらと見た。

思春期をすぎて『彼女たち』に言及することが増えた。旺盛な性的好奇心のた めでもあったが、それより相手を卑下する目的で彼女たちの職業を使用した。 思春期の男の子たちが思いつく職業群で、相手に一番侮辱感を与えられる職業 はそうだった。『娼女』、最高の侮辱。

大したことではなかったがちょっと頭でっかちで、同年代より少しませた子供 は彼女たちを『同情の対象』と認識した。苦しい家庭環境とうまく解決しない 人生が投げた数奇な生活の女性たち。後になって大学で色々な本を読んで、 『階級構造』や『家父長制』といった言葉に表現が変わったが、その観点は あまり変わらない。かわいそうな彼女たち、救済の対象。

娼女、性売買被害女性、性労働者

近代以前、性的サービスを担当した女性の名前は、妓女、娼女、遊女、解語花、 売女などがあった。こうした名前はこれらの女性に『娼』女という名前を付け ることで閨房の女性たちと反対の地点にいることを強調した。『話をする花』 という意味の解語花の場合も、彼女たちを男性が鑑賞する花に比喩することで 受動的な存在と認識している。

近代以後も彼女たちを示す言葉は、彼女たちを受動的な存在と断定している。 性売買特別法では「性売買を強要されたり、麻薬などに中毒したり、青少年や、 事物を判断する能力がないか、あるいは微弱な者、障害者、人身売買された者」 も含んで『性売買被害女性』と見ている。性特法の観点の通りなら、性売買は 『すること』ではなく『することになったこと』で、性売買女性はつまり性売買 被害女性だ。

しかし自分を『性労働者』と呼ぶ人々がいる。『性売買被害女性』という名は 性サービスを取り引きする女性を積極的な経済活動主体、働く労働者と考えな いということだ。

どう呼ぶのか、どう呼ばれるのか、誰が呼ぶかという問題は重要で敏感な問題 だ。その名前そのもので存在が表面化したり、隠蔽されたり、対象化、他者化 されたりもする。今、彼女たちをどう呼ぶべきかは明らかではない。ある者は 明らかに人身売買や、莫大な借金で望まない願わない性販売(『性売買』という 言語は明らかに間違いだ。女性は性を売買しない。ただ販売する。性売買とい う言葉は、この関係に存在する明白な男性権力を隠す。この文では、『意味の 伝達を明らかに妨害しない限り』性売買の代わりに性販売という単語を使う)を 強要されただろう。しかし同時にある者は性販売を生計維持の自発的な手段と して『選択』したのかも知れない。あるいは自発と強制の二分法パラダイムの 外側に存在する人もいるかもしれない。性急な一般化は問題を過度に単純化す る。あるいは問題ではないものを問題にしたりもする。

映画『レッド マリア』を演出したギョンスン監督は『レッド マリア』上映後 の監督との対話での逸話に言及して、一方的に彼女たちを規定する言語の実例 を上げた。当時、『レッド マリア』を団体で観覧したある女性団体の活動家は、 監督との対話に討論者として参加した性労働者を『性労働者』と呼ぶことを拒 否した。活動家たちは彼女たちを『性労働者と自ら称する人』と呼んだ。ギョ ンスン監督は「当事者が性労働者だというのに、そう呼ぶのが礼儀」と話した が、活動家たちはどうしても彼女たちを『性労働者』とは呼ばなかった。ギョ ンスン監督は「根絶論と廃止主義に立脚する立場では、性労働者を労働者と認 められない」と説明した。性販売、あるいは性サービスが労働かどうかは論議 の的でもあり、またそれぞれ異なる解釈があるだろうが、他人のアイデンティ ティを勝手に否定して認めない態度をただ正しいと言うのは難しいようだ。

(『レッド マリア』は性労働者をはじめ女性の『からだ』と『労働』に関する 映画だ。映画には、韓国とフィリピンの性労働者が主な登場人物として登場す る。映画は性労働者と非正規職女性労働者、賃労働関係を否定する女性ホーム レス等を通じ、労働が何か、特に女性の労働と、そこに占めるからだの役割、 女性のからだと労働がどんな社会的な地位を持つかを絶えず問いかける。)

『娼女』という言葉が持つ淫らさと、『禁止』にくすくすと笑った思春期の男 の子たちと、『被害女性』という言葉で同情と救済対策を語る人々。また、 『淪落』(淪落は堕落させる行為を意味する)という言葉で彼女たちのモラル・ ハザードを強調する言葉まで。これらすべての言葉で、彼女たちは対象として 存在する。他の議論は少し置いておくとしても、自分たちの存在を主体的に 規定する本人の言語で彼女たちを指し示すのは、ギョンスン監督の言うように ただ『礼儀』水準のことなのかもしれない。

▲映画「レッドマリア」の一場面[出処:シネマ・ダル]

私に同情しないでください、被害者ではありません

取材の過程で会った性労働者が口をそろえて話すことの一つは、被害者ではな いのだから、同情の目で見るなということだ。

性労働者権利の会、GGの活動家で、性労働者のヘリ氏は「性労働は記者が記事 を書きタイプして金を稼ぐのと同じように、働いて金を稼ぐ労働」と話した。 彼女は「特に推奨できる職業ではないが、それでも特に罪の意識を持つほどの 悪いことでもない」と言う。彼女たちにとって性販売とは、自分の労働力を売 り、金を稼ぐ経済行為、ただ金儲けだ。性労働者のヨヌィ氏も性労働という 『職業』を特に哀れに思うなと強調した。彼女はむしろアルバイトしていた バーで社長から受けた事や、登録金を稼ぐためのコンビニのアルバイトの方が 『搾取』に近いといった。

「バーで時給5千ウォンのバーテンのアルバイトをしていたが、ある日は社長が ガラスのコップを私の顔に投げつけました。お客さんの話が間違っていたので 指摘したら、お客さんが怒りました」。ヨヌィ氏は働いていたバーで賃金を受 け取れなかった。無理に客と酒を飲んで売り上げを上げろという社長の強要に、 嘔吐と飲酒を繰り返しながら、健康も害した後だった。

人身売買のような暴力で強制される性販売が一部であるように、一部の事例だ が、ヘリ氏とヨヌィ氏は性販売店の『事業主』は他の業種の事業主よりむしろ 『人間的』だと言う。つらくてもう酒を飲めないという従業員に、酒を飲んで 顔にコップを投げ、むしろ客に謝罪を強要する社長と違い、食事の時間を用意 して、金も取らずに仕事が終わればすぐ片付けるおばさんはもっと親切で家族 のようだったと。

繰り返し強調するが、すべての性販売業者の事業主がおばさんのように親切 ではないだろう。ただ、暴力団のような抱主が監視する部屋に監禁され、 性販売を強要される女性という定形化されたイメージしかないわけではないのだ。

ヘリ氏が性労働を生計の手段に選んだのは、生活苦のためだった。シングル・ マザーのヘリ氏は、「食堂や色々な時給アルバイトをしてみたが、子供たちと の生活を維持するのはとても不足だった」と言う。しかし性労働を始めた後は 「豊かではななくても子供たちと生活を維持できる程度」の収入を得られるよ うになったという。『虚栄心で楽に金を稼ごうとして始め、だんだん借金だけ が増える性売買被害者』という烙印に正面から対抗する言葉だ。

道徳的烙印-セックスの意味に対して

性労働者を示す言葉の中には『カルボ』という表現がある。その語源について はさまざまな推察があるが、概ね2種類に圧縮される。一つは『サソリのように 血を吸う存在』という意味だ。そしてもう一つは『相手を取り替えて性交をす る人を卑下する言葉』。結局、どちらも性行為の卑下にその根幹をおいている。 そのように『性』自体を陰湿で不潔なもの、表わすべきではないものと片付ける。

性販売、売春行為が「自ら堕落してからだを捨てる」『淪落』という名で定義 されたのはそのためだ。性労働者はこれを『結婚制度と男性中心的な性権力の 作動』と指摘する。これまでの家父長的な関係では、人間の生産を前提とする 性行為、つまり夫婦関係での性行為だけが認められ、快楽生産のための性行為 は徹底的に統制され、ダブー視されたのだ。そうして妊娠、出産などが神聖視 され、結婚制度の外で不特定の人との性行為は不潔なものと扱われた。

ヘリ氏は「セックスがそんなに神聖で特別なことだとは思わない」と話した。 「人々は自慰をしても、それを神聖だと思わない」のだ。彼女は「セックスも ただ欲望を解消する日常的な行為で、特別な意味を付与する必要はない」と言う。

ヨヌィ氏は「性的関係とは、全的に当事者間の合意で形成される個人的なこと だが、その行為が正しいかどうかについて第3者が是非を言う必要はない」と言う。

彼女たちは口をそろえて「恋人関係での性関係と、お客さんとのセックスは、 厳格に違う」と言う。セックスとは感情と愛に基づいて行われる事でもあり、 同時にただ欲望を解消したり『働く』水準で行われることも可能だということ だ。ヨヌィ氏は時々「セックスがしたくなって、早くお客さんが来ないかと思っ たりもする」と話した。

ヘリ氏は二人の子供を育てる『お母さん』だ。同時にお母さんと一緒に暮らす 『娘』だ。出産と育児の最前線で暮らしていて、両方向の『母性』を体験して いる女性。彼女は妊娠と出産の神秘を経験し、同時に金儲けの手段、快楽生産 のセックスをすべて体験し、肯定する。

「私にミシンのことを話すな、私に労働者の権利につい話せ」

元売春者のマーゴ・セント・ジェームズは「一時間のサービスに対して金を受 け取ることと、一時間のタイピングで金を受け取ること、舞台で一時間芝居を することによって金を受け取ることを区分するのは、存在しない区分」だと言っ た。何による労働であれ、重要なことは『何』ではなく『労働』という意味だ。

『レッド マリア』のギョンスン監督は「単に性労働だけでなく、女性のからだ と労働に対する統制」を語る。「家父長制社会では、女性たちは自分のからだ に対する統制権をすでに失っているので、性労働をはじめとするすべての労働 でまともに権利を得られない」ということだ。

ギョンスン監督の映画『レッド マリア』には既存の賃労働関係を拒否した女性 たちの『労働』が登場する。映画を通じ、ギョンスン監督は既存の生産/再生産 の談論を抜け出して、出産、育児、療養、セックスまでのすべての活動を 『労働』と規定する。

ギョンスン監督は「性労働を単に性販売、売春だけでなく女性のからだと労働 全般に対する観点から理解する必要がある」と主張する。『レッド マリア』に キリュン電子の女性非正規職労働者と、フィリピンの性労働者、日本の『(賃) 労働拒否者』が同時に登場し、同時に労働者とされるのは同じ文脈だ。

『性売買根絶主義』には男性中心家父長主義社会で必然的に発生する性販売、 売春の搾取/被搾取の構造と抑圧構造の憂慮もある。しかしGGのミルサ氏は、 「他の分野の労働でも抑圧と搾取構造が発生しているが、しかし、その労働と 産業が悪いとは言われない」と話す。「性労働だけを特に変わったものとして 取り扱っている」というのだ。彼女は「それぞれの労働がそれぞれの特性を持っ ているように、性労働にも反対すべき特性と、認めるべき特性がある」とし、 性労働を特別なものと考えてはいけないと主張した。

結局、性労働もその他の労働と同じように、からだを使って働いて金を稼ぐ 『労働』だという。また同時に『性労働』を含む女性の労働に対するより幅広 い認識の転換が必要だという指摘だ。

▲メーデーデモ行進に参加した性労働者たち[出処:チャムセサン資料写真]

被害者でなければ法律違反者、その二分法を『越える』どこか

性労働者たちは、現存の『性売買防止特別法』を越え、性労働の『非犯罪化』 を主張する。韓国女性研究院の定義によれば「性売買行為自体を処罰する規定 はないが、規制も合法的と認められてもいない」と非犯罪化を規定している。 フィンランドやオーストラリア、ニュージーランドなどの国家が採択している 非犯罪化は、性販売行為を国家が不法化しないことに焦点をおく。これらの国 には売春関連法がなく、同時に処罰条項もない。

GGのミルサとヨニは、ニュージーランドなどの事例に言及して、「四大保険や 医療保険もあるケースもある」とし、国内でも『性販売非犯罪化』が急がれる と主張した。しかし韓国の性特法は、『性売買禁止主義』を法の根幹としてい るのであらゆる形態の性売買が不法で、それに対する処罰条項が明示されてい る。すなわち、性販売者は再教育するか処罰すべき犯罪者、あるいは逸脱者と 認識する。

性労働者を法律違反者、逸脱者と認識しなくても『保護と救済の対象』と認識 するケースもある。代表的な例が、「売春は強姦と同じだ」という米国の女性 主義者キャサリン・ベリーのような立場だ。国内の代表的なフェミニズムの 研究者、チョン・ヒジン氏も「性売買は強姦する権利を買うようなもの」と 主張する。

こうした立場についても性労働者たちは「性労働と強姦は完全に違う次元の話」 だと主張する。金品や財産上の利益など、いかなる約束も前提にされないのが 強姦だとすれば、性販売には約束が前提にあるという。性労働者は金銭を代価 に成人に許された行為をすることは事実上、人間の『命』に関する殺害、傷害 などではない以上、問題にすることはできないと主張する。彼らは金銭を代価 として受け取ることを約束して性サービスを販売する販売者で、被害者ではな いということだ。

性労働者は「非犯罪化は、単なる立法措置の変化を言うのではなく、社会が性 販売、売春を見る視点の根本的な転換を目標にしている」と話す。性労働者に 一方的に法律違反者という倫理的な烙印を押すこと、被害者という同情主義的 な視線を送ることを『越えた』視角を要求しているのだ。

女性のからだと労働-ギョンスン監督との対話

「下手に正解を出さないでください」

『レッド マリア』の最後の場面は、映画に出演した女性全員が自分の『腹』を 示す場面だ。これまで隠蔽されてきた女性のからだと労働を示す象徴のような場面。

ギョンスン監督は「レッド マリアが性労働者だけのための映画であるかのよう に思われているが、実は性労働者を含むすべての女性のからだと労働について 話したかった」と伝える。実際にレッド マリアで一番多くの分量を占める人物 は、性労働者より日本の『(賃)労働拒否者』で、ホームレスの市村氏だ。世の 中が規定する労働行為を拒否して暮らしているが、明確に労働している市村氏 の話を通じ、労働の規定と、その規定から女性たちが排除されている過程を調 べたかったという。

「出産、育児、感情、情緒、セックスまで、すべてが労働になるというのです」

ギョンスン監督はこのような構造は、長い間続いてきた『家族主義』に起因す ると定義した。

「まだ突破できない家族主義のくびきが一方的に労働の意味を規定し、そこで 一番被害を受けるのは女性、そして女性のからだ」だという。彼女は「女性の からだを統制するものは何かという話をしたかった」と言う。映画『レッド マ リア』の性労働者だけでなく、性労働を含む女性の労働を規制する家族主義、 家父長制への本質的な質問だった。

彼女は規定された事実だけを強調し、納得させて、同時に納得する教育と態度 が本質的な問題だと指摘する。「正解を想定し、正解だけを教えることが全て を破壊する」という。「家族主義と性談論、労働の規定など、全てに対し正解 を想定し、それだけを踏襲しているから固定された規定がなくならない」と強 調する。性労働、性販売、性売買も「すべて本人が規定した状態から見るので、 認識の転換も納得もできない態度が発生」するという。

「老人たちは死ぬ前に、結局正解はなかったと話します。下手に正解を規定して はいけません」

ギョンスン監督は「答をまだ知らないことも、まだ接することができなかった こともあるということを認められないので、議論が進展しない」とし、疑い、 また、悩む態度を要求する。彼女の要求は結局、他人に対する、規定された正解 に対する謙虚で真摯な態度だ。

性労働者を取材してインタビューをすることになった契機は、取材にでかけた 闘争事業場に連帯に来たヘリ氏と会ってからだ。彼女は『労働者』として闘争 する労働者に連帯している。ヘリ氏の紹介で会った性労働者権利の会の後援パー ティーでは踊って歌いながら、自分の人生を示す女たちと会うことができた。 パーティー会場には『店舗』全景と彼女たちが働く姿をスケッチした写真展が 開かれていた。自分の人生を恥じない態度。

取材で見つけた労働の概念と女性主義的観点、さまざまな主張に対する立場を すっきり整理することはできなかったが、多様な生活の層が存在しているとい う点、そして『彼女たち』が自分の人生を主体的に構成するために努力してい る点は明らかだった。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2012-09-03 22:59:28 / Last modified on 2012-09-03 22:59:29 Copyright: Default

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