映画〈二つの扉〉、竜山惨事の召喚状
何が「竜山」を召喚したか
ソン・ジフン修習記者 2012.03.21 16:34
▲〈二つの扉〉スチール カット
製作団体-ピンクのスカート
監督-キム・イラン、ホン・ジユ
#サスペンス(Suspense)とスリラー(Thriller)
サスペンスとスリラーの違いは『観客が犯人を知っているかどうか』といえば
簡単だ。主人公が犯人を探し回る過程で緊迫感を感じさせるのがサスペンス、
観客と主人公がどちらも未知の対象に恐怖を感じるジャンルがスリラーといえる。
『ヤマ』(文の仕組み)をしっかり捉えろと言うが、〈二つの文〉を見てレビュー
を書けという話を聞いてすぐ思いついたヤマは『サスペンス』だった。それも
映画館の椅子に座る前に。都心の真中で行われた国家の虐殺劇で観客の公憤を
呼び、犯人は政権だ、主人公は『真実を忘れない皆さん』だと主張するような
サスペンス。〈二つの門〉が竜山惨事を扱ったドキュメンタリーだというより、
観客がみんな怒り、悲しみ、映画の最後で「真実を糾明して政権の責任を問う」
という決意に充ちた決心をさせるようなプロパガンダだと思ったたからだ。
『私たちはみんな犯人を知っている』。映画が始まる前にノートに書いた
このレビューの題名だった。
映画を見ながら、文の方向を修正しなければならないと思った。この映画は
サスペンスではなかった。映画を見るほど『犯人』が分からなくなかった。
映画に登場する法廷は、犯罪を証明するより犯人を探す過程に近かった。暴力と
野蛮の主人だと思った警察特殊部隊は、いっそそれらに体を差し出した宿主に
近いように見えた。彼らも野蛮の現場に投入された。どんな生紐もないまま。
スリラーだ。命を狙う殺人魔の正体は、映画の中の人物も、映画の外の私たちも
知らない。スリラー映画は観客に対し、正体不明の殺人鬼と残酷な遺体だけを
与える。殴打されたのかどうかも、どれだけシンナーがあったのかについての
判断も本質ではない。スリラー映画の本質はただ『誰が』、『なぜ』だ。
#平凡な人
もう少し生きようとして上がった道/今私の名前は消えるが/私はどうせとても平凡な人だったから/泣いている私の友人よ/もう悲しむことはやめてくれ -ルシッド・ポール、平凡な人より
彼は京東市場で仕入れをして、自転車に乗って教会に行き、店を清掃するビヤ
ホール・レアの社長だった。しかし彼は同時に撤去民であり、対策委員会の
顧問であり、今は烈士と呼ばれている。彼は平凡な人だ。誰もがそうであるように
金を借りて店を開き、一つ一つ自分の手で物品を購入し、タイル一枚も直接貼り、
借金があっても、店を微笑ましくながめていた平凡な人だ。
彼も平凡な人だった。彼は八歳の娘を持つ父であり、31歳の青年だった。
恐ろしくても、おびえたような素振りを見せてはいけない警察特殊部隊であり、
櫓への道もわからないまま背を押された公務員だった。
世の中は彼らを対称的に対応させてきたが、実は彼らはある意味では同じ側だ。
野蛮な土地に追いやられ、帰ることができない。彼らに与えられた役割と状況
は違っても、彼らに役割と状況を与えた者は同じだった。そしてその人が多分、
このスリラーの殺人鬼、最後の王。
#何を見ていたか
映画に使われた画面は2つある(映画の中間に挿入されるインタビュー映像は除いて)。
一つはカラーTVなどの進歩メディアの映像であり、もう一つは警察の採証映像だ。
興味深いのは、これまで簡単に見ることができなかった採証映像で見る現場だ。
二つの映像を各々横糸と縦糸だとすれば、二本の糸が編み出す織物は、
粗くも不自然でもない。彼らは同じ空間で同じようなものを見ていたからだ。
警察の採証映像は、とても揺れていて見にくい。彼らは進むべき方向を知らず、
頭の上に落ちる火炎瓶を恐れていたかのように。櫓の中の人々が偉大な革命を
望む闘士でも、社会の転覆を望む暴徒でもなかったように、彼らも残忍な殺人鬼
でも、血も涙もない戦闘機械でもなかった。その瞬間、そこで撤去民と警察の
特殊部隊の双方はどちらも恐ろしい状況を強要された。そこはまるで殺しあう
ことだけを強要されるコロシアム。
アングルが一度も変わらないインタビューと、揺れる採証映像。映画は執拗な
までに繰り返し、観客をその混乱と恐怖、残忍さに引き込む。警察特殊部隊の
そのあくどい残忍さは、あるいは恐怖心の発露だったのだろうか。
#皆さん、お金持ちになってください
コロシアムの剣闘士は、ほとんどが奴隷だった。彼らは戦うことを強要され、
人々は熱狂した。権力はその熱狂を支配の手段に利用した。ではコロシアムで
人が死んだら、殺人者は相手の剣闘士なのか、あるいはコロシアムの競技を
助長した権力なのか。あるいは熱狂を送った観客か。
2000年代の初期、あるクレジットカード広告のコピーだった「お金持ちになっ
てください」は、モデルのキム・ジョンウンを一躍スターダムにあげた。そし
てそのコピーは全国の呪文になった。どこに行っても人々は互いに金持ちにな
れと話した。IMFを経て、クレジットカードをはじめ金融資本の肥大化が韓国
資本主義の最大の目標になった時だ。人生のすべての価値は金に換算され、
人格はただ「金」で推定された。金がすなわち生活の唯一の目標に、宗教に
なってしまった。
ソウルの都心真中で、6人が死んだ時、『責任者』は絶えず自分の責任を転嫁し
無視した。撤去民の死は警察の過剰鎮圧のためで、警察の死は専門デモ屋暴徒
の暴力のためになった。この無視と転嫁の無責任さから、『大衆』と呼ばれる
われわれは自由でありえるだろうか。
ローマの権力者はコロシアムで大衆を統制した。しかしその殺人遊戯に熱狂
したのは大衆だ。熱狂が呼んだ残忍さ。
「お金持ちになってください」という呪文が呼び出したのは何だろうか。
▲(左から)ホン・ジユ、キム・イラン監督[出処:〈二つの扉〉配給委員会]
#二つの扉-選択
映画での『二つの扉』は、いかに性急に警察が投入され、彼らの安全も保障さ
れていなかったかを見せる装置として作用するが、観客には別のメタファーと
して接近する。「あなたはどんな選択をするか?」という質問。
監督たちは企画の意図で「観客の大衆自身がどんな位置でこの事件を経験し、
解釈し、記憶するかを考えること、自ら竜山惨事の真相究明の過程に参加
させること」と話す。
真相究明の過程とは、警察が櫓を攻撃したのか、どれほどシンナーがあったのか、
警察がその事実を知っていたかで分かれるのではない(事件の情況と事実関係を
把握することが重要ではないという意味ではない)。何よりも、竜山で代弁
されるこの風景の呼び出しに、私がどんな役割を果たすのかを振り返ること。
それは価値の転換だ。人間の生活の復元。
スーザン・ソンタグは「必ずしも強くなることだけが私たちがすべきことではない」
と言った。
#召喚状
『スリラー』以外のヤマをまた見つけなければならないと思ったのは、家に戻る
バスの中でだ。〈二つの扉〉は結局、主人公の活躍で殺人鬼を捕まえ、みんなが
安堵の吐息をつく図式的なスリラーではない。これはスクリーンの中だけに
作られた世界ではなく、厳然たる現実だからだ。
この映画はいっそ『召喚状』に近い。観客を陪審員ではなく共犯者、あるいは
主犯として法廷に召喚するようなものだ。それはまるで映画〈マトリックス〉の
錠剤だ。映画は現象を伝える。そして質問する。赤い薬を取り上げた瞬間、
ネオは解放軍になったが、われわれは被告になる。しかし反省の機会は
与えられそうだ。
まだ竜山が終わらない理由は、MB政権が健在だからでも、当時の警察庁長官が
総選挙に立候補したからでもない。まだ私たちがそこまで反省していないからだ。
真相究明はそこからだ。
#重ねて
1. もっと誠実に積極的に反省したいのなら〈二つの扉〉配給委員になる方法
がある。独立ドキュメンタリーの製作環境では、劇場封切りのための最低限の
資金を用意するのも簡単ではない。製作団体『ピンクのスカート』にメール
(ypinks@gmail.com)を送り、後援支援金3万ウォンを送金すればもっと多くの
人と映画を見られる。
2. まだ封切られていない〈二つの扉〉を見る一番いい機会は『インディドキュ・
フェスティバル』だ。3月24日と27日、インディドキュフェスティバル竜山特別展
で上映される。(http://www.sidof.org)
▲竜山惨事遺族のチョン・ジェスク、ユ・ヨンスク氏(左から) [出処:〈二つの扉〉配給委員会]
原文(チャムセサン)
翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可( 仮訳 )に従います。
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Created on 2012-03-22 02:59:37 / Last modified on 2012-03-22 03:00:05 Copyright:
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