韓国:韓進家族対策委のお母さんインタビュー | |
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韓進重、家族対策委のお母さん「チョ会長はやめろ」[インタビュー]娘の学校の前でアルバイトする韓進家族対策委のお母さん
ウ・ヨンヘ記者 2011.10.04 18:40
韓進重工業整理解雇者の家族は今、韓進重工業整理解雇事態に『長期化』とい う修飾語を付けることもはばかられる程、終わりの見えない時間を送っている。 われわれは韓進重整理解雇から1年になったが、まさに韓進重の人々にとって、 整理解雇事態は3年間続いていると指摘する。 『一緒に暮らそう』という、かすかな希望を抱いて生きる人々、だが、彼らが 耐えなければならない時間の精神的、肉体的苦痛は絶筆に尽しがたい。 ![]() ▲85号クレーン. キム・ジンスク民主労総釜山地域本部指導委員 韓進重工業整理解雇事態に関するイベントがある時、絶対欠かせない人々がい る。子供を胸に抱き、手を握るお母さんたちだ。彼女たちがまさに韓進重工業 家族対策委のお母さんたちだ。長い間、お父さんが85号クレーンの前を守るこ とができた力の後には、まさに彼女たちがいた。彼女たちは、お父さんたちに とっては助力者であり、同僚であり、クレーンを共に守り、6月27日の行政代執行 停止で造船所から追い出される苦痛を共にしたパートナーだ。 それで今は生計を一人で立てなければならないお母さんたち、彼女たちの話は、 他でもない韓進重工業整理解雇者などの本当の生活の話で、整理解雇による 苦痛の話だ。 『娘の学校の前でスラッシュを売るお母さんの気持は』青く澄んだ空が姿を見せた秋の午後、金海市にあるウアンム小学校の前で韓進 重工業家族対策委(以下 家対委)のホン・ミエ(38)氏と会った。ミエ氏は、ウンソ (10)、ウンビン(7)二人の娘のお母さんだ。この学校には上の子供ウンソと韓進 家対委の子供たちが通っている。ミエ氏は月曜から金曜の午後1時から4時まで、 学校前の文具店でスラッシュを売るアルバイトをしている。初めて行った文具店は 結構大きかった。文具店と串スナック店があり、子供たちが我を忘れてガヤガヤ 騒いでいた。ミエ氏はいつも行き来する子供たちのおかげで4時間座る間もなく 忙しい。 ![]() ミエ氏はくるくる回るスラッシュの機械を「あのスラッシュ販売コーナー担当 なんです」と、笑ってみせた。こうしたミエ氏の姿を写真に撮り、ふとなぜ ミエ氏は『娘が通う学校の前でスラッシュを売るアルバイトをしているのか?』 という疑問がわいてきた。 「昨年のストライキで、お父さんの退職金(3年6か月分)が2月に整理されて(お 父さんの)職業がなくなりました。退職金が他人のように10年20年あるわけでも なく、数年しかないので借金を返したら、もう暮らせません。その時から働か なければならなくなったのですが、子供たちが小さくて、子供たちをおいて行 くことができませんでした。子供たちの面倒を見ながらできる仕事はないかと 探して、ちょうどこのアルバイトを知りました」 ミエ氏のように家対委で活動するお母さんたちは、ほとんどがアルバイトをし ている。ミエ氏にとって、生計問題も重要だが、子供たちと時間を過ごす問題 もとても重要だった。それで彼女はこのスラッシュを売る仕事を選んだ。 「初めてアルバイトに出てきた時、最初子供1学年の時に同じクラスの友達お母 さんが運営している所でした。『それ本当に、行かなければならないのか』と 考えました。私は平気ですが、そのお母さんがもしかしたら窮屈に思わないか と考えました。『私でもかまいませんか?』と聞くと、すぐ『はいどうぞ』と いいました。とても有難かったんです。本当に良い人です」 ![]() 午後1時には下校する子供たちがどっと出てくる。最も早く終わる1学年から始 まり、午後3時の6年生まで、子供たちは休む暇もなく『おばさん』、『お母さ ん』と呼びまくっていた。ミエ氏の大きな子供のウンソは『お母さん』と呼び ながら、学校から走って出てきた。ウンソはお母さんと学校の前で会うのが楽 しい。家対委の子供たちが『おばさん』といいながら親しげに挨拶をする。子 供たちは目で存在を知らせて家や塾に向かう。学校の前にいる『おばさん』は 子供たちにとって、強固なしんばり棒になっている。 子供たちと会う時間が増えたこと、それがミエ氏が二日を選択した契機だが、 生計問題の解決は難しい。ミエ氏は時給4千500ウォン、一日3時間立ち続けて、 1万4500ウォンを受ける。 「これでもとても助かります。前は子供たちのおやつを買うことができなかっ たのに、今はおかず代と告知書、子供のおやつ程度は買える余裕ができました。 これまで失業給付でがんばってきましたが、10月が最後で、これからさらに苦 しくなるでしょう。家対委もして、職場にも行かなければならず、すると家対 委の活動が難しくなるので心配です。この頃、家対委は晩の集会に行くこと以外、 ほとんどが組をつくって動いています」 ミエ氏は仕事で一番大変な点は何だったのだろうか? 「二日はそれほど難しいことではありません。これよりさらに難しい仕事が多 いのです。これくらいで大変だというと、非難されます。仕事自体が大変なの ではありません。家対委の活動をしながら、家事をしなければならなずアルバ イトもすると、からだが三つあっても足りません。前にシン・ドンスン組合員 が40日断食した時、影島に行って同調断食しようとして、本当に目が回るほど 忙しかったです」 ミエ氏は朝、子供たちを学校に送り、午前はすぐ影島に向かう。また金海の アルバイトに行き、帰ると子供たちのご飯を用意してすぐまた影島に行く。 「皿洗いもできず、洗濯物も乾せず、本当に大変でした。影島に行くと疲れて、 子供たちをお風呂に入れてやることもできず、すぐに寝て、いろんな仕事を きちんとしようとすると、それが一番大変です」。 ミエ氏のこうした生活に対する外部に色眼鏡の視線はないのだろうか? ミエ氏はこうした問題に対してむしろりりしい。「周囲から色眼鏡で見られても 誤って受け取ります。私はちょっと鈍いんです」といいながら笑う。 「実際、他人の視線は気にせず、すぐ忘れます。他人が色眼鏡で見ても、私は 悪いことはしていないのですから気にしません。だから他人からなぜそんなこ とをするのかと言われたら、堂々と返事することもできます。そして私がする 仕事に不満があるのなら、直接話せといいます。だから気にしません」 『祝賀歌に合わせて手を叩かない子供たち』ミエ氏は子供たちの話を始めると、深い憂いに浸った。 「この前、満1歳の誕生日パーティに行ったのですが、歌う時、普通手をたたく でしょう。でも子供たちは(闘争の歌を歌うように)手を振るんです。それを見 て胸が潰れそうでした。とても胸が痛かったんです。そんな姿は普段は見せな いのに…そんな姿を見せる現実が...」 ![]() ▲韓進家対委の子供たち 彼女は整理解雇事態が長びき、子供たちの変化がはっきり激しくなったと言う。 「子供たちの変化が唯一、胸を痛くします。小学生の子供たちが『整理解雇』、 『連帯』などの単語を気軽に使うのを見て、『本当に子供たちにはもう見せな いようにしよう』という気になります。子供たちに警察と警備は『私たちの 邪魔をする人』。だから『悪い人』という認識ができてしまいました」 李小仙オモニの遺影が85号クレーンにきた時、正門に移動しようとすると上の 娘のウンソが『入れないのに、なぜ行く?』と聞いたと言って、ミエ氏は子供 たちが今の状況を感じて分かっているようだと付け加えた。 「子供たちは工場で遊んだ子供でした。造船所から追い出される前に生活館に いました。当時は中に浴場があって、子供たちが中でプールのように水遊びし て遊んだりもしました。また、今85号クレーン中層にいるパク・ソンホおじさ んが風物も教えてくれて。子供たちにとって、お父さんの会社は遊び場でした。 でも追い出されて、用役が正門を守り、もう入れなくなりました」 ミエ氏は昔を思いだしながら、子供たちが戦闘警察の盾で押されそうな危険な 状況もあったという。いくら子供たちに隠そうとしても、見せなければならな い現実が彼女の胸をさらに痛くする。 家対委は8月の国会環境労働委聴聞会に傍聴と記者会見のためにソウルに行った。 お母さんたちは子供たちを連れてソウルに行った。だが、ソウルの金属労組の 事務室から国会で出発した家対委の車両を警察が追ってきた。 ![]() 「初日に金属労組で寝て出てくると、その時から車が追尾してきます。運転手 のおじさんが『あ、警察の車がついてくる』いうので、『エイ、まさか。彼ら も行くんでしょう』と言ったのですが、青瓦台の近付くと、何度も第1車線から 第3車線に車で押すのです。私は前にいたのですが、『押せ、押せ』と言うのが みんな聞こえました。そうして押されながら、結局、国会前の国民銀行に到着 しました。ところが警察の車は青瓦台に行くと思ったのでしょうか。瞬間的に 映画のように車の前に急停車して防ぎました。本当に事故になると思いました。 おりると家対委がきたと言ってさっと取り囲み、トイレに行く時も追ってきて、 また子供たち食べるものを買おうとコンビニに行ってもついてくる。国民銀行 前まで追ってきました。記者会見も行かさず、お父さんたちにも行かさず。そ れを子供たちはみんな見ていました。それでとても腹が立ちました。警察とそ んな駆け引きはこれまでしたこともなかったのに、その日は初めてそんなこと をしました。その日、子供たちが泣いて大騷ぎになりました。私が出てこいと 言っても、出てこないというのです。恐いと言って…」 家対委は結局聴聞会を見ず、報道で聴聞会の知らせを聞くしかなかった。そし て彼らに伝えられた知らせは『趙南鎬(チョ・ナモ)会長がカンニング ペーパー で時間稼ぎをして、とぼけ続けた』という知らせだった。 『6月27日の悪夢が繰り返されるかと恐ろしい』インタビューの間、りりしかったミエ氏が6月27日を回想しながら、目に涙を なみなみとためた。 6月27日、チェ・ギリョン金属労組韓進重工業支会長は、ストライキをした組合 員の反対にもかかわらず、会社側と合意書を作成した。この合意書で、支会は ストライキを撤回し、法院の行政代執行の条件を提供した。結局ストライキを していた韓進重組合員は造船所の外に追われ、85号クレーン反対側のシンド・ ブレニュ・アパートの前で野宿座り込みに突入する。 ミエ氏は当時が最も苦しかったとし、これから新しく選ばれる執行部が、 もし全く同じことを繰り返すのではないかと恐れた。 ![]() ▲1次希望バスの時、影島造船所にプラカードを持つ韓進家対委 「不意に6月27日を思い出して、270日経ってもクレーンが心配です。そして、 私たちが忘れられて行くのでないか。新しい執行部になっても、94人より1400 人のほうが重要だと言って合意して、われわれは『関心ないね』と言われるの ではないか。新しい執行部になって『いくらの金で合意しました』と言われたら、 われわれはどうなるのか。今まで私がしてきたことが水の泡になるのに、そんな ことを考えるとぞっとします。恐くもなるし...」 目じりに溜まるミエ氏の涙は結局、チェ・ギリョン支会長の背信に対する怒り に変わった。 「6.27のことを考えるだけで本当に胸が痛いですね。その時が一番苦しかった ようです。10時にストライキを終えるという記者会見をするというので、それ はとにかく防がなければならないと思って、10時に合わせて行きました。『ま さか行政代執行をするだろうか?』と考えましたね。『まさか世論があるのに、 やるだろうか』と思い、チェ・ギリョン支会長を阻止しようと思って行きまし た。記者会見さえ防いで家に帰ろうと思って行ったんですけれど。すると、本 当に行政代執行になりました。チェ・ギリョンは記者会見文をファックスで飛 ばし、規定事実化してしまって。その時が一番大変でした。おじさんたちが追 い出されて、行くところがなくて、シンドブレニュ前で悪口を言われながら 路上でご飯を食べて野宿をして。その時は本当に大変でした」。 韓進重組合員がシンド・プレニュ・アパートの前で野宿を始めると、アパート の住民会は、初め、組合員たちを追い出そうとしたという。「雨がひどく降る 日でしたが、行ってひざをついてお願いしました。おじさんたちは、ここでな ければ行くところがない、少しだけ我慢してくれ、と」。その日のつらい記憶 に、彼女は言葉をとぎらせた。 ミエ氏はチェ支会長に、8月の聴聞会で初めて会ったという。「聴聞会が終わり、 報告大会するのを見るために行くと、きました。おじさんたちは、どんなに怒っ ていても言えないでしょう、自分たちが話せば喧嘩になりそうで、『お母さん たちが行ってチェ・ギリョンがくるから頭つかまないで引っ張れ』と言うので す。お母さんたちはみんなとても優しいのでできないので、一言言いました。 『一人で暮らして嬉しいか』と、何が嬉しくて歩いてくるのかと言うと、その まますっと行きました」。 感動と憂いの連続『希望のバス』、5次希望バスで終われば韓進重家族が一番苦しかった時、手を差しのべてくれたのが希望バスだった。 ミエ氏は希望バスを『うれしいけれど、悲しかった』瞬間と記憶していた。 「うれしくて、悲しかったのが希望バスだったようです。ストライキしながら、 本当に大変だった時、希望バスが来ました。その時、本当に韓進重工業の記事 が一つもない時でした。『私たちは、もうこれ以上何ができるか』と感じてい たからです。これではジンスク姉さんは何もできずに飢え死にするのではない だろうかと思う時でした」 1次希望バスの前、韓進重整理解雇事態はすでに長期化に入り込んだ。会社側が 職場閉鎖をして、組合員はストライキをしていたが、職場閉鎖期間のストライキ は会社に打撃を与えられない。結局、造船所には用役警備が投入され、組合員 との摩擦は避けられなかった。 ミエ氏は1次希望のバスが到着した日を『血がにじむ時間と感動』と記憶してい た。希望バスを待つ『血がにじむ時間』は、まさに会社側が雇用した用役警備 のためだった。 ![]() ▲1次希望バス、85号クレーンの前 「一番最初、その時(1次希望バス)は本当に感動でした。おじさんたちがその前 の日に用役が入ってきて、午前7時から正門を防ぎました。その時から正門の前 で待っていました。本当にその一日は血がにじむ瞬間でした。お母さんたち8人 が造船所の正門に行って『お父さんと会う。どけ』と言っていました。人々を 待つところです。午前の時間はとてもはらはらするものでした」 当時、造船所の中にいた組合員は生活館に閉じ込められていた。行動が制約され、 外の状況は電話で話すしかなかった。 「もしかして、用役のやつらがその気になって父さんたちを殴るのではないか。 そうしても中で何が起きても誰も分かりません。お父さんたちが怪我をして、 ご飯も食べられない状況でしたが、午前はすっかり動転していました。午後2時 過ぎて、200人ほど集まっていましたが、不安なのです。200人が中の人を助け 出さなければいけないのに、人がとても少ないから。警察がきても、中に押し 込まない状況でした。警察も入れないその状況で、殴り殺されないかと不安だ から。本当に恐かった。希望バスが10時にくるといったのに来ないし、工場の 中からは、希望バスはきたかと電話がなり続け…そのうち、1時頃にみんながき ました。その時を忘れません。やっと来たんだ。本当にその時はとても感動的 で、とても有難かったです。みんながきたということだけでも安心して、特に はしごで越えて行ったでしょう。お父さんが解放されて。みんながとても有難 いとしか言えません。用役が外に出てきます。電話すると中は祭りだと言われ ました」。 だが、1次希望のバス当日、家族対策委は造船所の中にはついに入れなかった。 家対委と家族は造船所の塀を挟んで、釜山地域の人々と共に道路で夜を明かした。 ミエ氏は希望バスについて、キム・ジンスク指導委員がそこにいられなかった のは、残念だという。そして、影島に行けずに帰る参加者の無念さが大きかっ ただろうと心配する。 ![]() ▲釜山駅に集まった2次希望バスの参加者[出処:2次希望バス合同取材チーム] 「2次の時は、どしゃ降りの雨でした。それでまさか1次の時より多くくるかと 思っていましたが、釜山駅広場を埋め尽くしました。ところがこの光景を中に いる組合員やジンスク姉さんが見られないのが、とても残念でした。だから、 残念さは大きかったですね。希望バスが突破して入ると思えませんでした。 阻止されてめった打ちにされるだろうと考えて、2次の時に初めて催涙液を見 ました。当惑して、警察が一方的に防いだことに怒りました。そしてクレーン の前にいる人の心配も大きく、中では外を心配していました。1、2次の時は いつも心配でした」 そうして韓進重家族らは希望バスを見送り、さびしくて1週間後遺症に苦しんだ。 今、5次希望バスが釜山影島にくる。ミエ氏は最後の遠足旅行になることを望む。 そして皆が日常に戻れるように願っている。 「5次ですか? 本当に終わればいいですね。今回が『秋の遠足』でしょう。もう 冬まで続かなければいいのですが。そして今回の5次希望のバスをその契機にし なければなりません。私は皆が押して上がって、連れておりてきたらと思いま す。これ以上耐えろというのは、人にはできそうもありませんし、これ以上、 そんな人がいてはいけませんし。できればみんなで工場に入って連れて出てき たらいいですね。そして、皆が日常に戻る瞬間を夢見ています」 趙南鎬会長は会長職をやめて、みんなが日常生活にミエ氏は最後にこんな話をした。 ![]() ▲趙南鎬会長の対国民要請文発表記者会見 「趙南鎬(チョ・ナモ)会長に『会長職をやめろ』と言いたいです。韓進重工業 は趙南鎬一家がいる以上は整理解雇の戦いが止まらないと思います。前にある おじさんが、自分が入社した時、『趙南鎬のお父さんに切られて、彼の息子の 趙南鎬にまた切られた』といいました。これが繰り返される以上は韓進重工業 は血を呼び続けるでしょうし、労働搾取されるだけです。趙南鎬一家を韓進重 工業からなくしてほしいです。そうしなければ、私たちのような事が起きます。 だから整理解雇をはやく撤回して、お父さんたちが家に戻れれば嬉しいし、ジ ンスク姉さんも病院に行けばと思います」。 一日もはやく日常の生活に戻りたいというミエ氏の期待が、彼女の素朴な希望 が、5次希望バスと国政調査で実現するのだろうか? ミエ氏と家族の人生は資本 主義の社会で労働者として生きていく皆の生活の標本だから、われわれは最後 まで注目しなければならない。(記事提携=メディア忠清) 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2011-10-05 03:18:08 / Last modified on 2011-10-05 03:18:26 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ |