韓国:民主労総大会(4):「自分の主張が通らなければ分裂してもいいのか?」 | |
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「自分の主張が通らなければ分裂してもいいのか?」激突! 民主労総代議員大会は、このように進めろ(4)… 「社会的交渉と闘争にまい進しよう」 民主労総代議員大会が1週間後に迫った。 立場と視点が交錯する点は2か所。 ひとつは社会的交渉への賛成・反対。 もう一つは多数決の認定・不認定。 この2つは次元が全く違うものだが、 各意見グループ間の代議員数分布とからみ、既に2回の混乱をうんだ。 数の差の表面化を防いだものの、路線の差まで見えなくしたというのは過度な解釈だろうか。 連載順序 (1)カンスンギュ民主労総首席副委員長 (2)イムソンギュ前進議長 (3)チョドヌィ全労闘状況室長 (4)イジュホ保健医療労組政策局長 混乱か処理かを占うに先立ち、「差」をはっきりさせることが必要だ。 毎日労働ニュースは3月8日(火)から4日間にかけ、特集で 「激突!-民主労総代議員大会は、このように進めろ」を用意した。 困難な状況、敏感な主題にもかかわらず、原稿を送ってくれた筆者に感謝し、 読者の皆様にも「激突!」に掲載された原稿への反論権があることを記す。 原稿掲載の順序は次の通りだ。 (1)カンスンギュ民主労総首席副委員長 (2)イムソンギュ前進議長 (3)チョドヌィ全労闘状況室長 (4)イジュホ保健医療労組政策局長〈編集者注〉 まずいくつかの点を了解してほしい。 急に原稿を要請されたが、わが労組の代議員大会の準備など、 時間的な制約のために文章が滑らかでない。 そしてこの文は個人の意見であることを前提に話を始める。 議論はするだけした 率直に言って、私は「社会的交渉」をめぐる論争にくちばしを挟むつもりはあまりなかった。 その理由は、まず、これは下手をすれば損をする。 論旨を展開すれば言葉尻を捕えられ、なんとか主義だと罵倒され…。 相互に対立する立場が討論の過程で弁証法的に統一されることなく、 何日も、いや何か月も何年も続く平行線だ。 立場の変化はなく、相互の非難と悪口だけが乱舞する。 *▲イジュホ保健医療労組政策企画局長.* 2つ目の理由は、これまでの流れを見ると、この案件は当然通過すると楽観していた。 なぜなら民主労総はこれまで当為的闘争、場外闘争だけが乱発された過去の路線に対する批判と共に、交渉と闘争の並行を公約に掲げたイスホ候補が当選し、 既に現場の雰囲気も今は社会的交渉に反対する連盟を含み、ほぼあらゆる連盟の現場アンケート調査で組合員は社会的交渉参加の必要性に共感していたためだ。 そして、案件処理の時点でも、昨年下半期に処理しようとしたがさらに充分な現場討論をしようということで同意し、年を越し今回の定期代大で処理することに既に合意されていた。 したがって、今では残されているのは社会的交渉に対する「過度な期待」と「行き過ぎた被害意識」を押さえ、反対する同志たちの憂慮を十分に反映した「参加戦術」に絞ることだと思うからだ。 むしろ私の関心は、社会的交渉参加の後だった。 民主労総代議員大会を通過した「世の中を変える2006ゼネスト闘争」と、 これをどのように有機的に結合させ、われわれ労働者を苦痛に陥れるこのうんざりする新自由主義に決着をつけ、もう一つの世界が可能かを見せるかということだった。 率直になろう ところが、現実は私の判断とは無関係に、度々おかしな方向に流れて行くばかりだ。 無難に通過するはずの案件が一度流会し、暴力事態まで発生しながら二回も流会して、三回目は延期になり…。 次第に悪化の一路を駆け上がっていた。 なにか、知恵を集めて解決の糸口を見つけなければならないという素朴な義務感からこの文を書く。 まず、カンスンギュ、イムソンギュ、チョドヌィ同志の文をよく読んだ。 それぞれ切なる問題意識と民主労総に対する愛情を感じることができた。 今、論点は2つありそうだ。 ひとつは社会的交渉に対する立場で、もう一つは最近意見の差をめぐり発生している一連の事態をどのように眺め、どのように解決していくかの問題だ。 まず社会的交渉から話してみよう。 社会的交渉に反対するイムソンギュ同志の主張は、多少あいまいだ。 すなわち、社会的交渉を今のように別途の案件とみなす必要はなく、 去る1月の民主労総定期代大で確定した 「労政交渉、労使政交渉、産別交渉を含む中層的、総体的交渉を推進する」 で充分であり、もし交渉が必要だと判断されればその性格によって代議員と共に定められた交渉方針を遂行すればいいと表現した。 だが、これが社会的交渉全面反対なのか、さもなくば必要な時は戦術的に参加するという論なのかが明らかでない。 後者なら、今論議されている「戦術的活用論」と大きく違わないと見られる。 では、残っているのは内部意見の差をうまく調整して全体が団結できる方案を探すことだ。 社会的交渉に反対するのなら、代案を出すべき イムソンギュ、チョドヌィ同志の文に対していくつかのことだけを指摘したい。 社会的交渉に反対する論拠として最も多く登場するのは、盧武鉉政府の意図と反労働者的政策だ。 そんな政府とどうして社会的交渉ができるのかということだ。 社会的交渉推進は結局、政府の意図通りに労働者失脚プロジェクトに利用され、 社会的合意主義の陥穽に陥るというような接近だ。条件未成熟論も同様の論理だ。 だがこれは「構造主義決定論」でありもう一つの「敗北主義的」発想だ。 全てが政府の意図通りになるわけではない。 条件は、主体の動きによっていくらでも変わり得る。 私は、充分ではないが、社会的交渉に必要な最低限の条件が作られて-作られているのではなく-いると考える。 このような点で、時期尚早論を語ったり、私達が力がないから、または法案を延期させる戦術として社会的交渉を採択すべきだという主張は、あまりに消極的だ。 私はもっと攻勢的に社会的交渉を活用すべきだと思う。 企業を越える社会的闘争のために、社会的交渉は必要だ。 もちろん、社会的交渉が今、労働運動の行き詰まりのすべてを解決する万能薬のように考えるのは過度だ。 それとは反対に、社会的交渉参加があらゆる悪の根源のように追い詰めるのも過度だ。 社会的交渉は、それ自体として絶対善も絶対悪でもない。 そして、社会的交渉を推進する同志はいないといい嘘をつき続けるなと言って、 君は社会的合意主義ではないかと脅して決めつけ、批判することはなぜか過度な感じだ。 これは実体がない幽霊との闘いだ。 事実政府の労使関係ロードマップの推進、非正規職増加、製造業共同化、医療と教育の市場化問題など、 労働者の生活と労働に影響する議題が増えているにもかかわらず、労働運動は社会的交渉拒否戦術以外に政府政策と法制度改善のための効果的な対応策を出せずにいる。 社会的交渉反対論者の最も致命的な弱点は、参加拒否以後の代案の不在だ。 新自由主義盧武鉉政府に反対して闘争しよう。 全面ストライキを組織しよう。 極めて正しい言葉で、その意味がわからない組合員は誰もいない。 問題は、もうこれ以上、このようなやりかたでは組合員が動かないということだ。 もっと精巧な闘争方針が必要だ。 私の主張が通らなければ分裂? 2つ目の論点は、最近意見の差をめぐって発生している一連の事態をどう眺め、どのように解決していくかの問題だ。 まず、前でも少し言及したが、私は今の過程が正常な手続きを踏んでいると考える。 規約と議決機構の決定事項にともなう指導部の自然の意志決定過程に参加して討論するよりも、 「必ず強行処理するのか」「万事を差し置いてどうしても貫徹させなければならない課題なのか」、「何故そんなに無理を強いるのか」という調子で追い詰めることは、 なにか他意があるというような陰謀論的接近だ。 私は、社会的交渉案件が今この時期「必ず」「万事を差し置いて処理する事案」かというような問題提起に同意する。 かと言って、反対にこの案件を千年万年討論ばかりを続け、みんなが同意するまでゆったりと待つ事案ではないのではないか? これ以上不必要な論議をせず、どの主張が正しいのかという判断ができなければ、 ひとまず私達が定めた規約と手続きによって十分に討論して決定し、 実践して評価して、また立場を建てればいいのではないだろうか? あらゆる理論は灰色で、真理は実践を通じてのみ検証されると言うではないか? ところがこのような過程を恣意的に予断し、無条件に最初からだめだというのは、 自分だけが正しいという行き過ぎた独断だ。 「社会的交渉が通過すれば団結と闘争はない」というような主張も、本当に望ましい態度ではない。 これは条件付きの愛だ。 条件付きの団結論だ。 組織は団結が命だといいながら、あることを前提に団結しようというのは、 結局自分たちの主張が貫徹できなければ一緒にやれないということではないか? 自分たちの主張通りにできなければ分裂だというような接近は、あまりに自己中心的な発想だ。 主張はしても、自身と異なる意見に従って決定されたしても、 その決定を中心に団結することが労働者階級の正しい姿勢ではないか? 社会的交渉と社会的闘争組織にまい進しよう 同志の間で切っ先を向け合うのはこのぐらいにしよう。 無理な行動をして、問題提起されれば、どんなに切羽つまってそんなことをするのかというように、 あらゆる行為がすべて正当化できるのか? どんなにその行為が切切なものかを理解するとはいっても「やっていいこと」があり、「やってはいけないこと」がある。 議事進行を暴力的に妨害するのは、やってはいけないことだ。 多数の代議員と組合員はもちろん、国民を驚かせたそのような暴力と混乱事態をめぐり、 「何か問題があるのか?」「そのようなこともある」「過剰対応ではない」という調子で強弁することは、本当に深刻な「民主主義不感症」だ。 最後に、今回の事態を契機として、誰が正しいのかどうかと甲論乙駁する前に、 われわれ内部の組織文化と制度に対する全面的な検討が必要だ。 意見の差が発生した時の基本ルールはあまりない。 私たちの間でも、力の論理そのままだ。 資本、政府と戦うやりかたでぶつかって、さらに多くの傷と葛藤を呼び起こしている。 私たちの内部の問題は、敵対的矛盾関係ではなく、非敵対的矛盾関係ではないか? 最近、ある組織や代議員大会が長時間の論争と混乱に駆け上がり、 現場の代議員はそんな大会には本当に行きたくないと心情を訴える。 本当に闘争の決意の場として、民主主義の祝祭として、 代議員大会をどうするのか、みんなの知恵が必要だ。 このようにだしぬけに戦うには、私たちにはあまり与えられた時間がない。 政府と資本は刃を研ぎ、新自由主義政策を押し通している。 一日も早く社会的交渉に関する「参加-拒否」という狭い論争構図を越え、 政府の反労働者的な政策基調を変えるために2006年民主労総ゼネストをどう組織するか、 労働運動の代表性の危機をどう克服するか、 企業別賃団交、労働政策中心から産業政策と福祉政策をどう結合させて行くか、 「労働運動発展の総合的な戦略構想と新しい派閥作り」のために、 みんなの力と知恵を集める時だ。 そのような点で、今この論争は1ラウンドを終え、2ラウンドに行かなければならない。 われわれは、戦えば喉が渇く。 私たちに不足している2%、それは社会的交渉と社会的闘争だ。 イジュホ保健医療労組政策局長 2005-03-11 午前9:36:32入力 (C)毎日労働ニュース 翻訳/文責:安田(ゆ) Created byStaff. Created on 2005-03-11 10:31:51 / Last modified on 2005-09-05 05:15:55 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ |