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サムスン電子サービス43日の闘争...「夢」を実現した人々

[インタビュー]サムスン電子サービス支会組合員(1)

ユン・ジヨン記者 2014.07.01 11:56

サムスン電子サービスの労働者たちがヨム・ホソク烈士の遺言により正東津に到着するまでに何と43日という時間がかかった。 結局、烈士の遺骨は取り戻せなかったが、労組結成から1年で締結した賃金団体協議の成果が故人の遺影の前に置かれた。 「私一人による支会の勝利を祈る」と言ったヨム・ホソク烈士は、そうして44日目に目をとじた。

ヨム・ホソク烈士が自ら命を絶った後、千人のサムスン電子サービス労働者たちは涙を飲み込みながら、 瑞草洞のサムスン本社前に集まった。 労働者たちは息がつまるほど巨大な本社ビルの下で毎日食事をして眠った。 ただ粘るだけの約束のない戦いだった。

だからサムスン労働者たちは恐れと悲しみはしばらく押し退けることにした。 長い座り込みを守るためには楽しさと余裕が必要だった。 悲しみの涙は正東津に行って吐き出そうと決心した。 そうして20代の若い労働者と中年の労働者、 そして踊って歌う労働者たちは、43日間の奇跡のような時間を作り出した。[編集者注]

[出処:チャムセサン資料写真]

20年のロッカー人生からサムスン電子サービス技師に
労組結成でまた「抵抗精神」を見つける...「歌グループは大きな楽しみ」

誰よりも座り込み闘争に活気を吹き込むために、汗を流した労働者たちがいた。 まさにサムスン電子サービス支会の「歌グループ」と「律動グループ」に所属する組合員たちだ。 座り込み期間中に結成されたチームにしては相当な実力だ。 毎日練習を繰り返しているおかげだ。 単独公演だけでなく、その他の間接雇用事業場労働者たちとの「合同公演」をすることもある。

歌グループ「バッテリー」を率いる平沢分会のアン・ギョンジュ組合員は、元ロッカーだ。 学生時代から35歳まで何と20年間、 アンダーグラウンドでロック・ミュージックをやってきた。 以前いたロック・グループの名前を教えてくれと言うと「あまり有名なチームではなかった」と手で遮る。 やっと教えてもらったグループの名前はライジングフォースだった。 有名なギタリストのイングヴェイ・マルムスティーンの曲名だ。 ロックについてほとんど知らないので、ロッカーなら「抵抗精神」ではないかと聞くと、うれしそうに相槌を打つ。 20年間、抵抗精神とロッカーの自尊心で生きてきた彼であった。

「ロック音楽をやって、35歳頃に大川海水浴場でロックカフェを開きました。 しかしそこが田舎だということをきちんと認識していなかったんです。 それでつぶれました。 まわりの人たちは、ロックカフェではなく7080ライブカフェ(訳注:70年代から80年代の歌謡曲を聞かせるライブハウス)に変えれば儲かると助言をしたりもしました。 しかしロック音楽をしていた人に7080はできません。 自尊心があるでしょう。 それで1年半で借金だけ背負って平沢にきました。 当時の友人がサムスン電子サービスでサービス技師として働いていて、技術でも学べと言われれました。 それで仕事を始めました。」

友人の勧誘で仕事を始めたが、現場では理解できない不当な処遇が続いた。 「抵抗精神」で生きてきた彼には耐えられない現実だった。

「顧客にも違うものは違うと言いたいのですが、われわれは反論もできませんでした。 サムスン電子サービスにはCMIという顧客満足評価制度があるじゃないですか。 評価項目には『不満』もあって、『非常に不満』もあります。 普通、技師は『非常に不満』が1年に一度もないことが多いのです。 だが私は一日に『非常に不満』が二回もありました。 クビになるところでした。 結局反省文を書いて、夜には自己批判をしました。 放り出したくなりましたが、出て行ってみても音楽ができる最低の金もない状況でした。 社長ともずいぶん衝突しました。

それでも頑張ったのは「暮らさなければならない」という理由一つでした。 時間が経ち、抵抗精神もみんななくなりました。 抵抗は胸の中に閉じ込められて、毎日を我慢して耐えました。 そのうちにセンターでA級技師になっていました。 会社は仕事があればまずA級技師に仕事をさせるんです。 盛需期には午前1〜2時まで働き、遊ぶ日もありませんでした」

他の技師と比べて、手数料も高かった彼だったが、幸せな生活ではなかった。 そのうちに牙山地域から一本の連絡を受けた。 労組を作るという知らせだった。 アン・ギョンジュ組合員は跳び上がるように喜んだ。 すぐ続いて平沢センターにも労組が設立され、彼は最初に労組に加入した。 組合員も集め始めた。 これまで胸の中だけに積もっていた抵抗の声が持ち上がった。

「労組が結成された後、想像もできなかったことが起きました。 前に平沢センターは『民主主義』というものが存在しない所でした。 しかし労組ができた後、確かに変わりました。 労組をして、すばらしい自負心を感じています。 みんなサムスン電子サービス支会が金属労組と民主労総の歴史を書いていると言いますが、私もそう思います。 大企業サムスンに対して不当なことを批判し、労働者の考えを表出する契機になりました」

[出処:チャムセサン資料写真]

サムスン本館前での座り込みに突入し、アン・ギョンジュ組合員はまた胸がドキドキするようなことが起こった。 これまで地域集会で歌の実力を認められ、彼は自然に歌グループの大将になった。 ロックバンド以後、第2の音楽人生を開いた形だった。 彼が20年間守ってきたロックではなかったが、民衆歌謡という新しいジャンルもなかなか魅力的だった。 初めはなじまなかった歌詞も少しずつ耳に入ってき始め、自ら編曲にも挑戦した。

「初めて民衆歌謡を聞いて、これは違う、と思いました。 ポンチャックのような歌もあって、卑語が入った歌詞もありました。 私はののしりながら歌うのは嫌いです。 しかし聞いて見ると、ますます民衆歌謡がロックと似ているという感じがしてきました。 歌詞には明らかに抵抗精神があり、心に響き始めました。 特に『タンポポのように』という曲はとても好きです。 私は元から叙情的なロックバラードがとても好きです。 タンポポのようになどの民衆歌謡は編曲もしました。

今、とてもおもしろくてうれしいです。 歌グループ活動をしていることの自負心もあります。 他の労働者が闘争に歩きまわっている時、われわれは必死に歌の練習をしているのです。 いつも言っています。 われわれは彼らが闘争してまわっている時、楽な場所で練習しているではないか、 それだけ労働者たちが私たちの歌を聞いて充電できるように、がんばらなければいけないって。 それで歌グループの名前も『バッテリー』です。 本当にがんばって練習しています。 私がこうして音楽をすることになったのは夢のようです。 いつかは寝床で『こんなことのために私が音楽を学んだんだ』と考えたりしました」

座り込みで一番大変だった点を尋ねると、大変だった点よりは「くやしかった」記憶があると吐露した。 雨を避けて漢南大橋の下で野宿をした時、組合員たちの前でイム・ジェボムの歌を素朴に歌った直後だった。 カラオケファイルではなく、原曲ファイルに合わせて歌を歌ったため、クチパクの論議がおきた。 彼はインタビュー中「歌の後で組合員の半分は『イム・ジェボムの声と全く同じだ』と言い、もう半分は『クチパクだった』と言いました。 しかし絶対、クチパクではありませんでした」と声を高めた。 あまりにもくやしくて、口数が少ないとうわさが立つほどだった彼は、 ついに集会発言に出て「クチパクではなかった」と釈明した。 いつのまにか、彼にとって音楽はまた「自尊心」になった。

アイドルグループ志望だった青年
サムスン電子サービスの律動グループで第2の「ダンサー」人生

律動グループでまた自分の夢をかなえた人もいる。 以前、有名なプロダクションの練習生で、90年代人の気アイドルグループ「ジェクスキス」のバックダンサーとして活動してきた城南センターのイ・ウシク組合員だ。 彼は「ジェクスキスのメンバーのうち誰が一番性格が悪いか」という質問にも苦しみながら答える誠実マンだった。

「高校2年の時、ジェクスキスのバックダンサーをしていて、 3年の時にSMの練習生に入りました。 練習生の時にはかなり苦しかったです。 毎日みずぼらしいくたくたな服を着て練習をしなければいけませんでした。 しかし一緒に練習していたメンバーに、金持ちの子がいました。 練習の後に出て行って、ショッピングをして帰ってきて、 何十万ウォンの服を見せて『先輩もこれを着てみてよ』といいました。 我慢できずに出てきました」

練習生生活をやめて軍隊に入隊した。 転役して、未来についての悩みが深まった。 「また芸能界に挑戦しようかと考えたりもして、 コンピュータ技師のようなエンジニアになりたいという夢もありました」。 結局、彼はこれまで夢見てきたエンジニアを選択した。 2005年にサムスン電子サービスのセンターに入社し、もう年数にすれば9年目のエンジニアだ。

[出処:チャムセサン資料写真]

「仕事はそれなりにおもしろかったです。 振り返れば不当なことも多かったですが、 その時はこれが正常なのか非正常なのか区別できませんでした。 CMIで一つでも不満が飛んでくれば罪人のようでした。 こうしたシステムが間違っているとは知らず、 ただ言われる通り誠実に働いていました。 労組についても全く知らなかったんです」

そのようなある日、センターで同年齢の親しい友人が労組を作ろうと言った。 彼はイ・ウシク組合員に「私が先に立ってやるから信じて付いてきてくれ」と話した。 イ・ウシク組合員はその一言だけを信じて労組に加入した。 その親しい同年齢の友人は今、城南センター分会長になっている。 イ・ウシク組合員は労組加入後、一回も後悔したことがない。 それまで知らなかった不当さを知り、これを変える労働者の決意にどんな力があるのかも知った。 何よりも30余日間の座り込み期間中に結成された律動グループは、彼にとってとても大きな幸福だった。

「踊りへの未練を捨てて暮らしていたのですが、 労組のおかげでまた踊れるようになりました。 初めて労組に加入した後、文宣する人たちを見て『なんであんな風にダンスをするの?』と思いました。 そのうち、闘争中に『宣言』のパク・ヒョヌク同志と会いました。 その時、パク・ヒョヌク同志が『ダンスチームは闘争の先鋒に立って、 体で戦うように扇動すること』だと話しました。 その時の言葉が心に感動として残りました。

実際にやってみると、ダンスと文宣は大いに違いました。 文宣はまるで武術のように角が重要です。 これまで踊る時、ビートに依存して踊っていたとすれば、 文宣は歌詞を体で表現するのです。 今では文宣もずいぶん馴染みました。 律動グループの構成員すべてが初めて文宣をしました。 現在まで『非正規職撤廃連帯歌』と『団結闘争歌』、『本当の社長が出てこい』の3曲を学びました。 現在は『世の中を止めろ』を学んでいます。 今まで学んだものの中には『非正規職撤廃連帯歌』が一番好きです。 私たちが非正規職だから、非正規職を撤廃しようという歌が一番良いじゃありませんか?」

43日の野宿座り込みにもかかわらず、労組が闘争の動力を維持できたのは、 他でもない『楽しく』闘争しようという気持ちが集まったからだ。 大学路などの場所で行ったサムスン電子サービス支会のバスキング(街頭公演)も楽しくて新鮮なストライキのプログラムだった。 イ・ウシク組合員もバスカーとして公演に参加した。 10年前の振りつけも披露して、歌手「ピ」の「ラ・ソング」を公演することもした。

「最も楽しかった闘争もあります。 6月6日の韓国殉国烈士の日、サムスン本館前で警察と衝突がありました。 その時、突然『ダンスチームは先鋒に立て』というパク・ヒョヌク同志の言葉を思い出しました。 それで律動グループのひとりに『一度先鋒に立たないか』と暗に言ったのですが、 まだ準備できたといいませんでした。 しかし何か一度やってみたかったんです。 それで城南分会長にラ・ソングをかけてくれと言いました。 分会長が快く歌を鳴らしました。 対峙している警察の前で嘲弄をするようにラ・ソングに合わせて踊りました。 楽しくて痛快な経験でした」

彼は30日ほどの間の座り込み中、困ったことをはっきり思い出せないと強調した。 城南分会はどのセンターよりも決意が高いと自慢げに話したりもした。 妻もいつも彼を応援する援軍だ。 17か月の子供にとても会いたくはあるが、必ず勝利して帰りたい。 彼は「座り込みがいくら難しくなっても労組は必ず守る」とし 「労組を守る理由は、労働者も人間らしく暮らし、働いただけの代価を受け取れなければならないから」と明るく笑った。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2014-07-02 02:18:38 / Last modified on 2014-07-02 02:18:40 Copyright: Default

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