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韓国:サムスン重工業下請労働者はなぜ命を絶ったのか
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サムスン重工業下請労働者はなぜ命を絶ったのか

[寄稿] 「犬のように働いて犬のように追い出された」

イギム・チュンテク(巨済統営固城造船所下請労働者生かす対策委員会) 2016.05.15 21:31

38の前途洋々たる若者だった。 9歳、7歳、5歳の三人の子どもの父であり、しっかりした夫だった。 兵役特例から始めて、20年間造船所だけで働いてきた労働者であった。 そのほとんどを「ビッグ・スリー」造船所の一つである巨済サムスン重工業で働いた。 25歳で最年少の班長になって周辺の話題になった程に、仕事だけは自他が認めるA級技術者であった。 現場管理者の班長の職責を持っていたが会社に言うことは言い、班員たちは最後まで面倒を見て、先後輩の同僚から信望が厚い労働者であった。

彼も他の労働者たちのように仕事の虫であった。 平日にはいつも9時30分になって家に帰った。 土曜日はいつも働き、日曜も働く日が多かった。 連続の徹夜で1か月に400時間以上働いたこともある。 三人の子供たちと一緒に遊べず、いつもすまなく思った。 そのように昼夜なく働いたが、不安感は時間が経つほど大きくなった。 特にサムスン重工業をはじめとする「ビッグ・スリー」造船所が莫大な赤字を出したため、職場の雰囲気は薄氷のようだった。 「常時希望退職」という名で正規職も「常時解雇」される状況で、社内下請労働者の彼が不安を感じるのは当然だった。 ある瞬間から、TVとインターネットでは「構造調整」という言葉があふれはじめた。 構造調整が人員縮小を意味することぐらいは彼も知っていた。 釜山で暮らしている姉からの久しぶりに電話で 「日曜に子供を連れて一度来い」と言われたが、 「最近は造船所の雰囲気が悪く、会社を休んで嫌われたら構造調整対象者になるかも知れないからだめだ」と答えるほかはなかった。

いつからか社内下請会社では「本工」が減り「物量チーム」が増え始めた。 仕事がつらいので求人が難しく、物量は入れなければならないから物量チームの雇用が増えるようになったのだ。 それと共に昨年末から、ときどき会社から彼が働いている取付1班と取付2班を一つの班に統合するという話が流れた。 二つの班を一つにすれば、当然班長1人は必要なくなる計算なので、班長を担当している彼としては気にせざるをえなかった。 もしうわさが現実になれば、自分より年長の取付2班の先輩に統合取付班の班長を譲歩するという気持ちは決めていた。 それでもうわさで終わることを望んでいた。

朴槿恵(パク・クネ)大統領が5月6日を臨時公休日に決め、思ってもいなかった4連休ができた。 大韓商工会議所で臨時公休日指定を要請したというが、経済人団体が公休日指定を要請したのも意外で、大統領がその要請をすぐに受け入れたのも意外だったが、 幸い社内下請企業も有給休日にするというので反対することではなかった。 彼は5月5日の子供の日は特別勤務をして、夜はやっと五人家族が近くの文化観光農園に3泊4日のキャンプに行った。 いつ会社に何かが起きるかわからない不安感のため遠くには行けなかったが、本当に久しぶりの家族外出であった。 そのようにして5月6日、7日、8日、家族と共に蜜のような休みの時間を送った。

だが休みの3日間、気持ちは楽ではなかった。 休息初日の5月6日、朝7時30分から上司の職長が、 現場管理者のグループチャットルームに激しい叱責性のトークを書き込んだからだ。

「いつまで尻拭いしてやらなければいけないのか、 こんなに忙しくて大騒ぎなのに取付班長は一人も出てこず、 人をバカにするものでもなくて責任を取って辞めるから適当に判断しろ。」

それならそれで、会社は一日でもゆっくりした気持ちで休ませてくれるのか、苦々しかった。 責任を取って辞めるという職長の言葉は、一度ぐらい言うだろうと思ったが、 月曜に出勤すればかなり悪口を言われそうだった。

しかし3日休んで月曜に出勤した時、状況は予想外の方向に流れた。 時々うわさだけで聞いていた取付1班と2班の統合が突然、実施された。 何の事前の通報もなかった。 予想していたことだったが、彼は班長の職責を失った。 取付1班の班長から、物量チームを管理する物量チーム助長へと職責も降格され、役職も変わった。 それだけではなかった。 班長は月給制だが、助長になると時給制に変わり、賃金も削減される。

なぜ突然会社がこんな形で動くのかが理解できなかった。 国が決めた臨時公休日に働かずに休んだ程度が大きな間違いなのか、くやしかった。 会社の突然の処置は誰が見ても「不利益を甘んじて働き続けるか、嫌なら出て行くか処理しろ」という話だった。 これまでどれほど一生懸命働いたか、一日でこんな扱いを受けてもいいのか、何より侮蔑感で耐え難かった。 また自分が班長として働いていた取付班と物量チームは、業務上の競争関係にあることになるが、 物量チームの助長になって、これまで一緒に働いた取付班員と刺々しい関係になるのも負担になることだった。 造船所が苦しくなって、発注元のサムスン重工業から下請企業に対し、まず物量チームを追い出せと文書で指針が出されたというが、 物量チームが全員いなくなれば物量チームの助長は使い道のない地位になるという不安感も強かった。

だから会社の不当な処遇は受け入れなかった。 職責も取られ、賃金も削減され、不安定な地位で働くよりは、いっそきれいに会社を辞めるほうがまだ自尊心ぐらいは守れると考えた。 いっそ会社を辞めるという立場を明らかにして退勤した時、辞表を持って家に帰り、妻と相談した。 退職金と今月の月給が出るので五人家族が1〜2か月は暮らせそうだった。 自分の仕事程度なら、すぐサムスン重工業の他の社内下請業者に移すのは容易だが、 造船所の社内下請業者間で互いに談合しており移動する前に業者に「就職同意書」を出さなければ、 業者を辞職してから6か月間は他の社内下請業者に就職することはできない。 明らかな不法だが、大型造船所では不文律として存在する慣行だった。 結局、他の造船所で仕事を見つけるしかなかった。 幸いなことに、近くの大宇造船海洋で働く友人がいて、新しい仕事場を見つけることはできそうだった。 「そうだ、きれいにやめよう」。 彼は決心を固めて辞表を書いた。

翌日、彼は遅く出勤して会社に辞表を提出した。 実際にそうすると、会社はむしろ辞職を引きとどめて捕まえた。 物量チームの管理業務に行くのは変わらないが、班長職はなくさずに維持し、 賃金削減もないことにすると提案された。 その話を聞くと、うれしくはなく、さらに腹が立った。 いや、それならなぜ、そんなに不当で不利益な措置を一方的に通知したのか。 不当な待遇をしても五人家族の生計のために我慢して受け入れるだろうという計算があったのではないのか。 それで実際に辞職するというと、手のひらを返すように新しい提案をする会社への背信感だけが大きくなった。

辞表を出して早く退勤して妻と長い話をした。 よくやったと互いに慰労した。 新しい仕事場を見つて、しばらく休んで、これまで遊べなかった子供たちと一緒の時間を持つ機会にすることにした。 十年ほど前に亡くなった兄の命日にもこの数年間は、忙しいという口実できちんと訪ねられなかったので、 兄の遺骨をまいた釜山のファンリョン山にも子供たちを連れて行かなければならないと考えた。 明日は気分転換もかねて、妻と美容室に行って髪を染めることにした。 だが「犬のように働き、犬のように追い出された」という気持ちを結局ぬぐい去ることはできなかった。

夜には取付班員たちと最後の会食をした。 普段、先輩の前ではなかなか内心を明らかにしない性格で、 会社を辞めて最後の会食の席でも特に話はなかったが、 1次が終わって親しい数人の後輩と残った席では、これまでの苦しかった心を打ち明け、涙ぐんだ。

会食が終わり、午前1時頃に家に戻った。 子供たちを挟んで妻と一緒に横になり、一時間程度話をした。 そして妻は先に眠りついた。 しかし、翌日の朝、彼はアパートの浴室のタオル掛けにかけたタオルで首を吊って死んでいるのが発見された。 なぜだったのだろうか。 やっと子供たちともたくさん遊ぶことにしたのに、これまで行けなかった亡き兄も訪ねることにしたのに。 なぜだったのだろうか。 自尊心を守るために会社に辞表を出したのに、その過程で味わった侮蔑感と背信、喪失感と不安に結局、耐えるのが難しかったのであろうか。

彼の死が知らされると、会社は責任回避に汲々とした。 「組織を変更したが、まだ仕事は十分に残っていて、人員削減をする状況ではなかったし、構造調整の計画も持っていなかった。 O氏など、職員の誰にも辞職を強要しなかったし、O氏は会社にぜひ必要な人だったので辞表も積極的に慰留した」と話した(京郷新聞記事)。 会社の言葉が事実なら、彼はいったいなぜ自ら命を絶ったのだろうか。 彼が感じた侮蔑感と背信、喪失感と不安はいったい何のためだったというのか。

突然の夫の死で三人の子供と共に残された夫人は、こんな会社の責任回避がくやしくて耐えられない。 突然夫を失ったこともつらいのに、会社の責任回避で夫の死が歪曲され、罵倒されるのはさらにつらいことだ。 それで夫人は夫の死に対し、会社が責任を持って本当の謝罪をするまでは葬儀をしないことにする。

彼は今、棺に横たわり、巨済のペク病院の冷凍庫にいる。 彼の家族と親戚、彼を信じてついていった職場の同僚と友人が葬儀場の周辺をそわそわしている。 消息を聞いて駆け付けたサムスン重工業一般労組のキム・ギョンスプ委員長と 「巨済統営固城造船所下請労働者生かす対策委員会」も、 遺族と共に葬儀場を守っている。 38歳、働き盛りの年齢で短い生活を送って亡くなった彼は、愛する家族とどんな姿で最後の別れをするのだろうか。

中国資本の「食い逃げ」と会社の会計操作で、双竜自動車の労働者たちが整理解雇される過程で、28人が命を失った。 先日の総選挙が終わるとすぐ、政府と債権団は毎日毎日「クビ切り構造調整」を声を高めて叫んでおり、 マスコミは巨済、統営古城地域で、これから何人以上の下請労働者が解雇されるだろうという報道を吐き出している。 その過程でまたどれだけ多くの人々が犠牲になるのか、考えるだけでも恐ろしい。 もうこれ以上の悲劇を少しでも止めるために、「クビ切り構造調整」を止めるために、 さらに熱心に戦う方法しかないという当然の事は少しも慰労や希望にはならない現実だが、 とにかく今はその答をつかまえて、その答と取り組むしかない。

付記
この文はチャムセサン、プレシアン、OhmyNewsに共に寄稿されました。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2016-05-20 02:43:34 / Last modified on 2016-05-20 02:43:35 Copyright: Default

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