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43日耐え忍んだ20代〜50代の労働者たち、「ホソク、愛してる」

[インタビュー]サムスン電子サービス組合員インタビュー(2)

ユン・ジヨン記者 2014.07.01 12:04

サムスン電子サービスの労働者たちがヨム・ホソク烈士の遺言により正東津に到着するまでに何と43日という時間がかかった。 結局、烈士の遺骨は取り戻せなかったが、労組結成から1年で締結した賃金団体協議の成果が故人の遺影の前に置かれた。 「私一人による支会の勝利を祈る」と言ったヨム・ホソク烈士は、そうして44日目に目をとじた。

ヨム・ホソク烈士が自ら命を絶った後、千人のサムスン電子サービス労働者たちは涙を飲み込みながら、 瑞草洞のサムスン本社前に集まった。 労働者たちは息がつまるほど巨大な本社ビルの下で毎日食事をして眠った。 ただ粘るだけの約束のない戦いだった。

だからサムスン労働者たちは恐れと悲しみはしばらく押し退けることにした。 長い座り込みを守るためには楽しさと余裕が必要だった。 悲しみの涙は正東津に行って吐き出そうと決心した。 そうして20代の若い労働者と中年の労働者、 そして踊って歌う労働者たちは、43日間の奇跡のような時間を作り出した。[編集者注]

[出処:チャムセサン資料写真]

サムスン電子サービス支会最年長者パク・チャンギ氏
「若い労働者たちに良い環境作ってからやめる」

ストライキ5週間目に入った時、瑞草洞の座込場は相変らず組合員たちで込み合っていた。 青年から中年まで、多様な年齢層の労働者たちがひとつの空間に留まっていた。

サムスン電子サービス支会で一番高齢者のパク・チャンギ(53)組合員は、 労働組合を作ってから若い労働者たちが多くなったと言って明るく笑った。 彼は93年にサムスン電子サービス協力社に入社した後、 現在まで働いてきたベテランサービス技師だった。 他の企業でサービス技師として働いた経歴も入れれば、年数として35年目だった。

「一生サービス技師生活をしてきました。 93年に入社した当時は、それなりに収入も安定していました。 しかしIMFを経て、店舗が構造調整され、賃金体系も変わり始めました。 会社はいつも私たちを『技術者』とか『高級人材』と話してきましたが、 賃金は最低賃金から上がりません。 賃金も低く、仕事もつらいので、ますます若者たちが仕事に適応できなくなりました。

毎年少なくても7〜8人、多ければ10人程度の若い新入労働者がサムスンというタイトルを見て入社します。 しかし3か月も頑張れないことも多いです。 適応ができないのです。 しかし不思議なことに、労働組合ができてからは、新入労働者の変動がありません。 収入が前よりそんなに上がっていないのに、労組ができた後に入ってきた新入労働者たちは、 今まで一人もやめていません。 使用者側から金銭的、物理的な圧迫を受けても、 前のように極端に過度な業務は強要できなくなった面があるようです。」

[出処:チャムセサン資料写真]

しかし相変らずサービス労働者たちの賃金は「命の値段」だ。 危険なバルコニーやはしごにしがみついて働けば、いくらベテランでも足がフラフラする。 パク・チャンギ氏も同僚を失った経験がある。 いつ自分に起きるかもしれないことだった。

「古参エンジニアなので、中で修理をすることが多いです。 はしごで作業したりバルコニーで作業することも一度や二度ではありません。 私も直接仕事をしているが、『本当に人ができることか』という気がしたりします。 一日一日の作業が死とのバーターになるかも知れないのです。 実際にずいぶん落ちて死にました。 2001年から2008年まで、瑞草洞で働いていた友人がいたのですが、 仕事の途中で転落して死にました。 しかし言論は関心も寄せません。サムスンは自分たちとは関係ないといいます。

サムスンで労組を作ることは容易ではありませんでした。 それでも少なくとも人間らしく生きなければと考え、 労組を結成するなら甘受すべきこともあると判断しました。 交渉は紛糾が続いているそうですが、あまり焦っていません。 地面で宿泊していると、全身がむずむずしますが、これは少しの間の苦痛でしょう。 一番年齢が上なのに、労働組合を放棄できない理由は、私の息子のような若い人々になんとか良い環境を作ってやってからやめたいからです」

「同志」という呼称が恥ずかしい23の青年の野宿座り込み日記

まだ20代始めの若い労働者も、古参労働者と似た気持ちを持っていた。 労組で一番年齢が若いペク・ヒョンソク(23)組合員は 「私はまだ若いので機会が多いのは事実」としつつ 「しかし家族の責任がある労働者が戦っているのを見て、一緒にやりたいと思った。 ここを離れない」と慎ましく笑った。

ペク・ヒョンソク氏はサムスン電子サービスセンターが事実上、初の職場だ。 前に芸能界でマネジャーの仕事をしたが、生活が苦しくて1か月で仕事をやめた。 ソウルに来て月給40万ウォンを受け取っていたが、30万ウォンは家賃に払った。 それから本格的に始めたのがサムスン電子サービス技師だ。 初めての出勤日、彼は「出世した」と思った。

[出処:ジョンウン現場記者]

「ネクタイを締めて靴を履いて出勤するので、出世した気がしました。 周囲からも会社の名前に『サムスン』が入るから出世したと言われました。 気分が良かったです。 だが働いているうちに『これは違う』という気になりました。 本来、土曜は午後1時までが勤務時間なのに、一方的に時間が6時までに変わることもありました。 問題が多いということを知って労働組合に加入したのです。 前は問題があれば、ただ心の底で『これはだめだよ』とやり過ごしていましたが、 労働組合で直接表現ができるようになってうれしい」

いくら若くても、40日を越える野宿座り込みは容易ではない。 だがペク・ヒョンソク氏は「座り込みで一番大変な点は何か」と何度も質問しても 「全くつらくない」とぎこちなく笑った。 その上、彼は3月末に廃業した牙山センターの所属で、四か月間、野宿座り込みをしていた。 質問を変えて、労組活動で一番大変だった点をあげてくれと言うと 「ガールフレンドと別れたこと」だと答える。 続いてどうしても自分が「野宿座り込み体質」のようだと言ってまた笑う。

「牙山センターの廃業後、すぐ野宿座り込みに突入しました。 他の人たちはやせたのですが、私一人、野宿座り込みをして10キロ太りました。 座り込みで、特に大変なことはありません。 それでもあげれば、バスに長い間乗って移動するという程度? どうやら座り込み体質のようです。 私は人に会うのがとても好きです。 それで座込場にいると、全国の人々と会えます。 話を交わしながら親しくなるのですが、そんな経験が斬新で楽しいようです」

ペク・ヒョンソク組合員はまだ「同志」という呼称が馴染まないという。 大型の烈士闘争とセンター廃業闘争を進めてきた労働者だが、まだ23の慎ましさ多い青年でもあった。 これから一番やりたい闘争を聞くと、新鮮な回答が流れ出た。

「いくら私たちが戦っても、放送局はほとんど取材しないでしょう。 だから私たちが放送局に直接行って撮影したらどうかと考えました。 例えば視聴者が直接参加する1対100等の番組に申込書を送り続けるんです。 それで自ら放送に出演して、私たちの存在を知らせるのです」

44日目に行ったヨム・ホソク烈士、「ホソク、愛してる」

6月30日、自決から44日目にヨム・ホソク労働烈士の全国民主労働者葬が行われた。 サムスン電子サービス支会の労働者たちは、故人の遺言によって正東津近海で路祭を行った。 喪主の梁山センターのヨム・テウォン代議員は、正東津海に向かって烈士の名前を呼びながら、彼を送った。 今、40余日間、胸にしまってきた悲しみと怒り、烈士への懐かしさが出てきた。

[出処:ジョンウン現場記者]

ヨム・テウォン代議員は、これまでの座り込み期間の間、自由に笑うことも、泣くこともできなかった。 笑いの後には胸にしみる悲しみがあり、悲しみの涙は無理に耐えなければならなかった。 ふと溢れる涙をこらえようと歯をくいしばった。 葬儀までは絶対に泣かないという約束を守りたかった。

「楽しく闘争するというが、正直言って梁山分会はそうすることはできませんでした。 喪主として心の片隅に常に傷を抱いているからです。 表面では笑っても、腹の中では毎日泣いていました。 座り込みの途中、分会組合員の誕生日がある時も『梁山は我慢しよう』と、準備もできませんでした。 初めは皆同じように楽しんでいる闘争にも溶け込めず、じいんとする気持ちだけを握りしめていました」

烈士の遺体と遺骨まで奪われた梁山分会の組合員たちは、地獄のような苦しみに苦しんだ。 まったく涙がかわくことがなかった。 ヨム・テウォン代議員は遺骨を取り戻せないまま、梁山を離れた日に「今は泣かない」と約束して最後の涙を流した。 インタビュー中、目じりに固まった涙をこらえるために、彼は時々言葉を途切らせた。

「最後に梁山で集会をして戻ってくる時、『今はホソクの葬儀まで泣かない』と約束しました。 その時、最後に泣きました。 それでもとても悲しい思いになります。 ふとホソクの遺影と目が会った時、悲しい闘争の歌が出てくる時、涙をこらえます。

一番つらかった記憶もしばしば思い出します。 初めて冷凍室でホソクの遺体を見た時、その時が一番悲しかったです。 そして入棺する時、私が喪主として最後に故人の目を覆ってやりました。 棺を覆う時は、もう最後だな、という気がして、とても悲しかったです。 まだその時の感じがふと湧き上がります」

ヨム・テウォン代議員と梁山分会の組合員たちは、43日の座り込み集会とデモ行進の間、ずっと喪服を着ていた。 最後に喪服を脱ぐ前、彼らは正東津でヨム・ホソク烈士に何を話したのだろうか。 「ホソクが私に最後に送った携帯メッセージがあります。 もうさっさと振り払ってしまえと言いたいです。 そして私たちが賃金団体協議を締結したという知らせも伝えたい。 何よりも『ホソク愛してる』この言葉はぜひ伝えなければ」

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2014-07-02 02:19:31 / Last modified on 2014-07-02 02:19:32 Copyright: Default

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