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韓国:[寄稿]竜山惨事3周忌、そして四回目の正月
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竜山惨事3年、会いたいお父さん、なつかしい私の夫

[寄稿]竜山惨事3周忌、そして四回目の正月

チョン・ヨンシン(竜山惨事遺族) 2012.01.05 14:14

1月になれば、皆幸せな新年を迎える準備をするが、あの日から私にとって1月 はつらい記憶として近付いてくる。

2009年1月20日、世の中を揺るがした竜山惨事。再開発という巨大な怪物が、 漢江路2街ではなく龍山4区域だと言って金をかき集め、結局そこで暮らしていた 住民を崖っぷちに追いやり、生きるためにのぼった櫓から、五人は冷たい遺体と なって、七人は冷たい監獄に閉じ込められた。

その後、私にとって年末年始や新年ではなく、竜山惨事2周忌、竜山惨事3周忌 を迎え、またあの日の記憶を想い出す。

とても寒かったあの日、青い櫓を見ながら、そんなことが発生するとは夢にも 思わなかった。以前のように家族みんなが集まって、幸せな未来を夢見るだろ うと信じていたのに、全ては水の泡のように消えてしまった。

2006年12月、30年以上カルビ屋を経営した義父と義母の店を夫と共に「レア」 というビヤホールに改修した後に門を開いた。お客さんでいっぱいの店を見て、 とても幸せだった。

義父は遅い帰宅で息子と嫁が苦しまないか、毎朝、お祈りに行ってきた後、店 で清掃をした。30年以上カルビ屋の社長として生きてきた義母はつらい厨房の 仕事をしながらも、笑いを絶やさなかった。夫は店の中外のすべてを引き受け、 誰よりも強固な息子であり、夫であった。

毎日が幸せだった。3年間だけ懸命に暮らせば、店の改修の時の借金も返して、 小さな家でも借り、屋上に引越した両親もゆったり暮らせると信じていた。 だが、その幸福は長く続かなかった。

1年もたたないうちに、事業施行とやらが出て、それからは地獄そのものだった。 もちろん再開発という言葉がなかったわけではない。数年前から竜山が開発さ れるという声は聞こえてきたが、それほど早く進むとは思わなかった。他の所 を見れば、最低でも4年〜5年はかかり、長ければ10年以上かかるというのが 開発だと聞いたのに、龍山4区域は違った。

寝て起きれば変わるのが竜山だった。図体が大きい男たちが町内をのし歩き、 移住を勧めて悪口と暴力に苦しみ、結局引っ越す人が増えた。引越した空き家 には、死んだ獣の死体、汚物が捨てられ、恐怖と悪臭に商売も出来なかった。

結局、義父と夫は闘争というものを始めた。初めは義父と夫が一人で荷物を担 ごうと、互いに止めさせた。夫は年を取った父が用役にやられるのではないか、 父は息子が若いこいつらに殴られるのはとても見ていられないとし、互いに 心配しあった。そんな義父と夫を義母と私は見ていなければならなかった。

その日も義母と私は見てばかりいた。義父と夫が遠く青い櫓から手を振る時も、 警官と用役が放水銃を撃ち、撤去民を威嚇をする時も、特殊部隊のコンテナが 空高い櫓に上がる時も、櫓が火炎に包まれた時も、そうして見ているほかはな かった。一言も言えないまま、そうして義父を送らなければならず夫を送らな ければならなかった。

葬儀も行えずに過ごした355日は、もうひとつの戦場だった。建設会社や用役と の戦いとは次元が違っていた。すべての集会現場や記者会見、1人デモ、追慕祭 も警官が遮った。

遺族の同意もなく、強制的に解剖検査をして、火災の原因をすべて撤去民だけ にあるとし、警察一人の死をめぐって一方的な裁判が始まった。結局、撤去民 だけに4年〜5年の重刑が宣告された。一度も撤去民五人の死については尋ねる こともなかった。警察の責任者は法廷にも立たかった。

結局われわれは通りに出てくやしい死を知らせなければならず、その前は常に 公権力が遮った。

▲竜山惨事1周忌、竜山撤去民烈士墓地に作られた銅像[出処:チャムセサン資料写真]

そのようにして3年が流れた。

義父は生前、わらでも捕む気持ちで竜山区庁に「龍山4区域には入居者の問題が 解決していない。困難が多いので管理処分認可を延期してくれ」と哀願もした が、返事はやはり何の問題もないということだった。その区庁の文書を胸に抱 いて、愛する息子と共に櫓に上がり、それから25時間後にひとりは冷たい遺体 になって、ひとりは冷たい監獄に行ってしまった。

ところが2010年11月「龍山4区域管理処分認可は手続き上、深刻な問題がある」 という『無効判決』があってから、今まで空地で、レアがあった場所も、櫓が あった場所も、クレーンではない草が生い茂っている。

数日前、朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長も都市再開発について「竜山で 起きた大変な惨事は、今までの都市再開発の現住所であった」とし「自分が根 を下ろして暮らしていた家を追い出されたのに、じっとしていられる住民がい るだろうか」と話したという。

このように時間は流れたが、何も変わっていない。無理な開発によって竜山は 止まってしまったし、葬儀は行っても真実は糾明されず、惨事生存者の撤去民 は警察官を殺したという汚名を被ってまだ冷たい監獄にいる。

ところが法廷に立つべき惨事の責任者であるキム・ソッキは華麗な復活を夢見 て、厚かましくも総選挙への立候補を宣言し、まだ開発の現場では無理な強制 撤去が強行され、用役の暴力はあちこちで起きている。

ただ変わったことがあるとすれば、私の人生だろう。あの日以後、竜山惨事の 遺族として、拘束者の妻として暮らした。一度も警察署に行ったことなかった 私が、毎日地下鉄に乗って法廷から拘置所へと向かった。亡くなった義父と、 負傷したまま拘束された夫のために、やらなかったことはない。海の向うの 済州まで行って竜山のくやしさを訴えたりもした。

▲2010年1月9日に行われた竜山惨事汎国民葬[出処:チャムセサン資料写真]

しかし結局、真実は埋もれたまま葬儀が行われ、夫はまだ監獄にいる。怒りが 込み上げて耐えられなかった。このまま埋もれさせてしまえば、私だけでなく、 さらに多くの人々が竜山惨事のような事件を味わい、多くの開発現場からのく やしい声が上がり続けることを思い、勇気を出して活動家として生きることを 決心した。

だから今回の3周忌は、追慕だけではなく、現在行なわれている無分別な開発事 業と竜山惨事再発防止のための『強制退去禁止法』制定と『拘束撤去民の釈放』 を要求し、毎日光化門広場で代表者の1人デモをしている。これ以上烈士の方と 拘束された撤去民のために涙を流すだけではない。

もうこれ以上はだめだ。竜山が止まったように、彼らも止めなければならない。 開発で街頭に追いやられる人が出てはならず、崖っぷちに追いやられて殺され てもいけない。

今からでも惨事の責任者は華麗な復活ではなく、法廷に立って、無実の市民の 命を奪った責任を取るべきであって、惨事生存者の拘束撤去民を監獄ではなく、 家族の元に送りかえさなければならない。2009年のあの日から四回目の今回の 正月は、家族と共に迎えられるようにしなければならない。頼むから...

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2012-01-05 23:34:44 / Last modified on 2012-01-05 23:34:47 Copyright: Default

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