韓国:「皆のための戦いだから、まだ止められません」 | |
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「皆のための戦いだから、まだ止められません」[インタビュー]イ・メスン光州市庁非正規職分会組合員
イ・ギョンジン現場記者/ 2007年10月08日17時31分
10月4日、光州市から集団で解雇され、200日間路上で原職復帰闘争を展開して いる光州市庁非正規職解雇労働者たちを訪ねた。この日、白い喪服を着た解雇 労働者たちは、『非正規職撤廃、原職復帰争奪』を祈って108拝を、光州市西区 ファジョン洞ヨムジュ体育館前で行った。最初は10月4日から3日間、ソンファ ボンソン路で7歩1拝する計画だったが、光州市から秘書室長をチーム長に、経 済通商局長、自治行政局長、女性福祉局長などの局長級をチーム員とするタス クフォース(TF)チームを構成したという事実を確認したことで、急遽7歩1拝で はなく108拝に計画が変更された。
108拝を終えた組合員とともに光州市シナン洞の労働組合事務室に移動し、 200日以上戦っている彼・彼女たちの生と闘争の話を聞いた。 まず簡略に自己紹介をお願いします。そして光州市庁で働く前にどんな仕事 をしていたのかおっしゃって下さい。
私は公共サービス労組光州全南支部市庁非正規職分会組合員のイ・メスンです。 3月8日に集団解雇され、もう解雇されてから200日を越えました。市庁で清掃美 化業務をする前は専業主婦でした。月給をもらって仕事をしていた職場は市庁 で、働いたのは初めてです。 言い換えれば初の職場、初めての労働組合、初めて集団解雇をされたというこ とです。 市庁舎が初の職場だそうですが、市庁では主にどんな仕事をしていましたか? 市庁舎では主に清掃美化、衛生を担当していました。各部処が2004年3月末まで に庁舎への移転を完了したのですが、その前から雇用されて、最後は環境美化、 清掃をしていました。 その時の出勤時間は7時と決まっていましたが、退勤時間はいい加減だった時期 です。8時に退勤したり、夜11時に退勤したこともあります。平均して、一日に 10時間以上働いていたでしょう。でも賃金は一日8時間分でした。 実際、その時は一日に8時間働くということも知りませんでした。労働組合に加 入してから知りました。ただ言われるままに働きました。8時間以上の勤務は、 移転完了後も続きました。 何も知らずに労働組合に加入して知ったそうですが、労働組合に加入した契機は何ですか? また労働組合で良かったこと悪かったことがあれば。 私たちが何も知らなかった時(労働組合に加入する前)は、ただ言われれば言わ れるままでした。そのうちに月給の多少はともかく、仕事がつらく、8時間だけ 働くよう市庁の清掃担当実務者に建議していました。当然私たちの要求は受け てもらえませんでした。不満はあっても誰一人言い出せない条件でした。 あるとき、担当公務員と用役会社の職員が不当な仕事を指示したのですが、こ れを拒否して正しいことを言った同僚が市庁から追い出されたこともありまし た。担当公務員と管理者ににらまれれば、作業場の配置と指示がもらえず一日 中更衣室(地下室)に座ってなければなりませんでした。我慢できずにその同僚 は怒って仕事を止めました。そんな状況できちんと話ができるでしょうか! また当時は市庁の会計課と総務課の公務員たちが直接作業を指示していました。 言う通りにしなければ「家に帰って子供の世話でもしろ! 君たちの家に公務員 がひとりでもいるのか? 役に立たないおばさんたちを連れてきて...」など、た めらいなく罵声を浴びせました。そのうち誰がということなく自然に労働組合 を作って加入をしたのです。 労働組合を作ると状況が180度変わりました。退勤時間が8時間になって、私た ち組合員への非人格的な待遇も減りました。また会社では最低賃金法に合わせ て賃金が支払われました。 振り返れば、労働組合に加入して、最も良かったことは人間らしく働けるよう になったことです。不当なことがあれば、それは違うと堂々と言えるようになっ たこと... それが幸福だと感じました。 そして前は若い人を見ればただ息子のようだ娘のようだと思っていましたが、 今は民主労総の組合員たち、闘争する場所で会う人々が年齢にかかわらず仲間 だと呼ぶことができて、本当にうれしいです。私もとても若くなったようです。 私には大学生の仲間もいるんです(笑い)。労働組合活動で後悔したことはあり ません。
思い出したくもありませんが、3月8日光州市庁占拠座り込みから追い出された時の心情は? 当時はまともに話もできずに追い出されたことが淋しいだけでした。でも、今 になって振り返ると、「私が一生を生きて、井の中の蛙のように暮していたん だなあ」と思います。権力にへつらうマスコミを見て、ですね。本当に権力の 前では、個人の力は水の泡みたいなものでした。マスコミの報道はとてもひど いものでした。あの寒い3月8日、私たちが力なく市庁から追い出されてもマス コミはただ真実を歪曲して市庁の立場だけを繰り返していました。市民の目と 口の代わりをすべきマスコミは、その場にいても、いないようなものでした。 追い出されたくやしさより、そうしたことのほうがもっとくやしくてたまりま せんでした。その時、世の中とこの社会について、よく分かったように思いま す。『光州市ではパク・クァンテ市長はなんですか! 大統領、いや王です!』 公共サービス労組市庁非正規職組合員たちは解雇された後、苦しい原職復帰闘争の中でも他の闘争事業場を訪問して連帯し、支持をする姿をよく見ました。これほど苦しい中で他の闘争事業場と連帯する理由は何ですか? そして各種の連帯闘争を行って、闘う労働者から見たこの社会の姿は? 振り返れば本当に多くの闘争事業場を訪ねて行って連帯しました。順天のイー ランド-ニューコア労働者たちの闘争、GSカルテックス解雇者の闘争、インファ 学校対策委、私たちと同じような清州大清掃女性労働者の闘争など、本当に よく歩き回ったようです。(笑い) 事実、解雇される前に仕事をしていた時は、連帯闘争しに行くのは嫌いでした。 なぜ行くのか... ところが実際に私が解雇されると、連帯がどれくらい有難く て大切なことかを骨に凍みるほど感じました。 われわれは法も知らず、資本家のようにたくさん金があるわけでもないでしょ う! あるのはからだひとつです。力もありません。労働者たちの連帯の力がど れほど大きいのかを知りました。だから闘っている今、私たちはもっと熱心に 連帯して闘争しています。 いつも私たちに連帯しに来てくれる民主労総組合員の仲間たちにいつも言うの ですが、原職復帰できても私たちを呼んでさえくれたら、私たちはきっと支援 に走って行くでしょう!
非正規法が施行され、イーランド事件が起きたでしょう。前は私たちだけが苦 しいと思っていたのですが、イーランド-ニューコアの若い労働者たちの闘争を 見て、さらに残念に思います。でも私たちは少し長く生きて、子供たちが大き くなり、家族が少ないです。ところがイーランド-ニューコアの若い労働者たち は、一家の家長で、お母さんで、妻と嫁... 1人で3、4人の役割をしなければ ならないのに、生計の責任を負わなければならず... それを見れば、私たちは 幸せな闘争をしていると思います。自分の身も苦しいですが、(家族の)全てが 関わっていて... そしてこれがまさにこの時代を生き抜かなければならない若 者たちの未来だと思うと、さらにつらい思いがします。 今回の事件を見て、私が考えたのはこうです。この社会の資本家はとても多く を持っていくと思います。半分は望みませんが、資本家たちが80〜90% を持っ ていくようです。ですから非正規職労働者たちが暮していけないと路上に飛び 出すのではないでしょうか? 労働者も資本家がいなければ暮せません。同じよ うに、資本家も労働者がいなければ暮せません。資本家が渡すべき物は渡して、 聞き入れることは聞き入れなければなりません。知らない人々はデモをする労 働者が自分の取り分を増やそうとしていると言いますが、問題の発端は資本家 たちが過度に欲張っていることだということをまず知るべきです。 光州市には闘争が長期化しているこの時点でも、事態の根本的な解決に対して積極的にならず、むしろ労働組合と組合員に告訴告発、接近禁止仮処分申請などをして弾圧を続けています。これに対してどう考えますか? 一言で言って、『羊の皮をかぶったオオカミ』です。交渉しようと言って、裏 で数えきれない程の告訴告発をしています。市庁の出入に対する接近禁止仮処 分申請で、組合員の相当数が50万ウォンの罰金です。1か月で70万ウォンの私た ちに、50万ウォンなんてとんでもありません。貧しい人々から50万ウォンを取っ て、何をしようとしているのか分かりません。今は罰金がこわくて、市庁の前 で出勤宣伝戦も出来ずにいる実情です。
8月末から『光州市庁非正規職原職復帰のための1万人宣言運動』を今まで続けているということです。光州市のあちこちで市民と労働者たちに会っているというのですが。反応はどうですか? 私たちは毎日のように闘争をしています。朝には光州市庁庁舎近所で出勤宣伝 戦をして、昼食時は人々がたくさん集まる光州市の拠点地域を訪ねて、宣言署 名を集めています。また毎週木曜日にはあちこちを歩き回ってインファ学校対 策委とともにキャンドル文化祭をしています。一週間は短いです。 宣言運動をしながら光州市民と労働者たちと出会う時の反応は暖かいです。頑 張って、ぜひ市庁でまた働けるようにという言葉を聞くと力がわきます。 でも時には空しい時もあります。あるとき民主労総所属事業場に行って宣言署 名を集めていました。それなのに通り過ぎる組合員が『なぜ、喪服を着て私た ちの会社であんなことをするのか?』と言って聞き苦しい言葉を言いました。理 解はしますが、なぜかそうしてぽつりと吐き出された一言に傷つきました。別 の場所で聞く嫌味より、もっと大きく聞こえました。 よく分かりませんが、恐らく私たちと境遇が同じでひとつの船に乗っていると いう民主労総組合員の言葉だから、もっと大きく聞こえたのでしょう。もちろ ん、そんな人々は一部です。私たちの問題を自分の問題だと感じて共に闘争し ている民主労総の組合員がもっとたくさんいます。 闘争が長びき、本当に多く大変だと思います。個人的に難しいことはないですか? そして苦しい状況の他の組合員たちはどうなのか気になります。 生計維持問題は大変ですが、もっと大きな問題は、多くの組合員の健康が良く ないことが一番心配です。闘争が長くなり疲れれば、かんしゃくもよく起し、 組合員の間でつまらないことで争って歪むことも多いです。心はそうではない のに、互いに表現する方が下手なようです。さらに一層互いを理解して、助け 合って法を学ばなければなりません。 個人的に最も大変だった時は、共に解雇されて、今まで共に闘ってきた組合員 たちが一人二人と離れる時でした。初めはつまらない問題から始まって、どう しようもなくなって離れる時はつらくて途方に暮れました。その時が一番つら かったです。24人で始めたのに、6人の仲間たちが私たちから離れました。 むしろそんなつらいときでも、組合員を支持し支援してくれる組合員の家族に 感謝しています。デモに行きたくても皆家族を説得できないのが事実です。1泊 2日で闘争して戻るこの歳をとったお母さんたちを理解してくれる家族に感謝す るしかありません。 私は解雇された後、闘争をしているので家族全員が集まって食事をするのが難 しいんです。(笑い)
それでも組合員たちを見ると力いっぱいに見えますが、その力の源泉は何ですか? 最初解雇された時は、私一人の問題だと思って戦っていました。ところが非正 規職法の施行以後、続々と雇用から追い出されていく非正規職労働者を見て、 私たちがすべきことが変わってきたのだと思うようになりました。私たちの問 題は単に光州市庁の問題だけではありません。まさに私たちの息子、娘たちの 未来です。後輩たちの現実であることを知りました。子供たちを大学まで、高 い金を注ぎ込んで教えても、1年、2年の契約職として暮していくしかない現実 を変えなければなりません。私たちが勝ち、復職できれば彼らの力になるでしょ う。そして、その力の糸口は光州市庁のような公共機関からつかまなければと 思います。そのために困難な条件でも闘争を続けていけるのだと考えています。 最後に光州市庁や光州市長に言いたい言葉はありませんか? 光州市長や市庁が私たちの話を聞いてくれたことが、二回あります。光州市長 が不正疑惑で拘束されて裁判を受けた時、嘆願書を書いてくれと言って訪ねて きました。そして光州市長選挙に出て、一票を入れてくれと訪ねてきました。 しかし3月8日に私たちが追い出された時、私たちがあれほど話したかった市長 はその場にいませんでした。他人がしない汚い仕事をしているから私たちをつ まらないと思っていたのか知りませんが、それではいけません。私たちが自分 たちの話を聞くばかりでした。話を聞いてくれれば、今まで闘争もすることも なかったでしょう。 われわれは光州市庁で一緒に働いて光州に暮していますが、パク・クァンテ市 長の直下の職員でもありませんし、パク・クァンテ市長が主人だと言うう光州 市民でもありませんでした。ただ、そこにいてもいない影、ただ佗びしい底辺 の非正規職でした。 パク・クァンテ市長! みんな原職復帰させて、お願いですから小さい声にも耳 を傾けて聞く市長になって下さい! そうすれば、あなたは歴史に長く輝く市長 として賞賛されるでしょう。そうでなければその反対です!!
翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2007-10-11 04:54:18 / Last modified on 2007-10-11 04:54:19 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ |