韓国:『街角の政治』は誰を困惑させるのか | |
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『街角の政治』は誰を困惑させるのか[記者の目]BSE牛肉交渉反対大衆行動を見て
ユ・ヨンジュ記者
www.yyjoo.net / 2008年05月28日11時53分
大衆の行動が主流を変える。万古不変の真理だ。BSE(狂牛病)牛肉交渉と、その 後の政府の対応に反発する大衆行動も、これを立証している。李明博政権は、 未熟さと不可避さがごちゃ混ぜになったままで対応しているが、墜落をどうし ようもない。ソン・ハッキュ代表は顔色をうかがいながら、いつも言い換えに 汲々としている。議会で進歩政治により世の中を変えるという進歩政治の姿も とても小さい。一回の街頭政治が数年間固定した制度政治の秩序を揺り動かし ている。街頭の政治は運動圏だからといって好意を示すわけではない。ワング ン氏の表現のとおり、集会の片隅にうずくまって座っている『職業デモ人』な ら、それでも最善を尽くす様子だ。 この10年、主流の秩序は新自由主義に対する理解と態度をめぐって作られた。 新自由主義とどんな利害関係にあるのかにより、支配と被支配が分れ、彼らの 間に再生産のシステムが作られ、制度的なものから文化的なものまで、日常の 人生を支配するルールが作動した。この強力なシステムとルールを拒否する力 はなかなか発見できなかった。むしろ、不信と諦念の反復の中で、すばやい現 実順応が生活の知恵と認められるに至った。こうして主流は作られ、決して一 日で作られたわけではなかった。 BSE牛肉交渉と政府対処に反発する大衆行動は、このように固定した主流を一気 に困惑させ、そわそわとさせ、身動き出来なくしてしまった。このように主流 に本格的に逆らう大衆の行動は簡単で明快だ。躍動的だ。 右翼が5万、10万の大衆を動員し、太極旗を張りまくって繰り広げるデモの躍動 性とはニュアンスが違う。民主労総が規模の経済のように動員する惰性的な組 合員の集会とも明確にニュアンスが違う。右翼が反共冷戦に根をおき、半世紀 にわたり享受してきた利益を取り戻すために、盲目的な愛国のために騒ぐ声に は真の意味の躍動性は見つけ難い。騒々しい騒音に過ぎない。組合員の自発的 な参加のモチーフなしで産別労組の規模を示そうといったような組合員動員で は、主流を変えるのに何の助けにもならない。だが、その右翼の子供、労働者 の子供が自ら立ち上がり、大韓民国の生で感じる『くやしさ』を表し、空間を 作り、街頭の政治を繰り広げ始めるとすぐ、主流は急転する。 キャンドルと共に登場した大衆行動と街頭政治の最初は、米装甲車殺害に対応 した闘争。デモの参加者たちは、二人の中学生の死とその後の米国と韓国政府 の態度を見て、怒りの凝集と拡散を繰り返した。この闘争はやがて民主化勢力 純度100%の参与政府を誕生させる土台になった。2004年、盧武鉉大統領弾劾に 反対する十数万本のキャンドルの火、このキャンドルは大韓民国の民主主義の 希求と熱望として記録された。その年の総選挙で民主党は議会権力掌握という 快挙を味わった。このようにして、韓国でのキャンドルの火は政治そのもので あり、固定した主流政治秩序をその時時に揺さぶるアイコンとして位置付けら れた。 BSE牛肉交渉に反発して行動に立ち上がった大衆に向かって『公権力』と『背後 探し』に没頭する保守政権の態度は、十分理解してあまりある。ピークのたび にキャンドルで火傷をして、トラウマに苦しむ保守勢力、目の前に似た場面が また広がると、逃げたくて、終わらせたくて、復讐したい気持が先んじるのは 当たり前だろう。残念だが、彼らはまだ背後を見つけることができないようだ。 ところが誤解されるかもしれない。米装甲車殺害事件と弾劾の時、キャンドル を持ったその大衆が、また清渓広場に集まることではない。二人の中学生の死 と、米国と、韓国政府の対応に怒ったキャンドルと議会民主主義の暴挙の前に 怒ったキャンドルは、行政権力と議会権力掌握の政治的な成果に収斂したが、 そして今も似た姿を帯びているが、あのキャンドルにまた火がついたわけでは ない。 派兵の時がそうだった。盧武鉉大統領は大統領になるとすぐ派兵を決めた。二 人の女子中学生の死の前にキャンドルを持った大衆は、背信に驚いた。キム・ ソニル氏などの引き続いた死の知らせに、大衆は虚脱感を捨ててキャンドルを 持った。しかし、国益と国際社会との約束、非戦闘兵派兵と戦後再建の賛同を 強調する政府の宣伝とイデオロギーの前に、もうキャンドルの火は燃え上がら なかった。 参与政府は執権中盤を過ぎると、韓米FTAを推進した。駐韓米軍の機動軍化を要 点とする戦略的柔軟性に合意した。韓米FTAへの賛否の議論が全社会的な問題に なった。平沢駐韓米軍移転推進により、大秋里、トドゥ里住民の生活の根拠地は 廃墟になった。執権序盤の先進労使関係ロードマップは、執権の後半になると 大きな反発なく完成した。もちろん大衆の抵抗は続いた。 韓米FTA反対、平沢米国基地移転反対、非正規法改悪反対... 反対、反対の声を 続けていった。しかし、大衆行動は散発的だった。韓米FTA汎国本、平沢対策委、 民主労総と非正規職闘争単位など、組織された抵抗は大衆行動の躍動性を抱き、 育てて拡張するには浮沈が多かった。韓米FTAは参与政府から李明博政権へと 水が流れるように引き継がれた。 議会で民主労働党は壇上を占拠して抵抗したが、手に余った。その時時に国民 投票で決めようという議会的水準の政治攻勢をかけるだけで終わった。左派.. 大衆闘争のプランナーであり、促進者としての左派は、厳密に言えば現実政治 に登場できなかった。大衆行動を待ちこがれる進歩政治は、孤立無援に陥った。 その結果と状態は、大統領選挙、総選挙で確認され、今、BSE牛肉交渉反対に 立ち上がった大衆行動の中でも簡単に確認される。 最近注目すべき事件が発生するが、まさに黄禹錫症候群だ。黄金バットとして よく知られる参与政府のインナーサークルが稼動した。彼らは黄禹錫神話を花 を咲かせる前衛勢力であり、大衆は歓呼した。黄禹錫に歓呼した大衆は2004年 の盧武鉉大統領弾劾に怒ったあの大衆だったし、2002年に二人の女子中学生の 死を哀悼したあの大衆であり、ワールドカップ4強のサッカー神話に熱狂した その大衆だった。 民主主義への熱望、それが形成された後、大衆の胸に火を点けた熱望の終わり は、『神話』に向かった。世界で最も速い、最も優れた、最も賢い、最も創造 的な、最も競争力ある民族、国家にならなければならないというイデオロギー が、雨でぬれるように入り込んだ。黄禹錫の真実を告発したディレクター手帳 は、大衆の脅迫と広告断絶に苦しみ、Xファイルを暴露したイ・サンホ記者は、 事実上局外者の身分になった。ティウォは、弱小国の韓国が強大国の米国で成 功した韓国人の表象だった。サムスンが提供する韓国経済のスペクタクルと成 長イデオロギーが持つ揮発性は強大だった。内部告発者のキム・ヨンチョル弁 護士の運命を予感するのは難しくなかった。 ところが大衆は落ち込んだ。どこからか限りなく墜落するような、何か不吉に 近寄ってくる感じをぬぐえない。黄禹錫神話の没落は不吉さを増幅した。強大 三星、李健煕一家の法廷勝利の知らせは安堵と共に不快を一気に注ぎ込んだ。 米装甲車殺害事件の時、弾劾の時にキャンドルを持った大衆、やがて神話を熱 望した大衆、その大衆は大統領選挙総選挙で沈黙した。13種類もの李明博候補 の嘘と不正疑惑にカンウンデBBK動画を見ても彼らは微動もしなかった。投票し ない若者への怨念の声が混じった哀訴が、いわゆる政治評論家の口と文を通し て反復され、民主化以後の先進化イデオロギーと競争力による経済再生の扇動 は、大統領選挙と総選挙を貫いて威力を発揮した。大衆はニュータウンと株式 投資があたえる幻覚の中で、疲れた日常を耐え抜く、言わば不安定な現実と不 透明な未来の境界の上で、李明博のビジネスフレンドリーを盲目的に見上げる ばかりの姿を隠さなかった。 ホルムアルデヒド、いくらかか時間が過ぎた後に、ホルムアルデヒドは漢江の 『怪物』になって戻った。新自由主義、初めはそれは『効率と競争』『生産性 と利益』といったなじみのうすい、抽象的な、難しい話であった。外国為替危 機の時に、資本の危機への最も強烈な資本主義的処方としての新自由主義導入 が行われ、当時、新自由主義処方はホルムアルデヒドが後でどんな怪物になっ て現実に登場するのか、誰も予測ができなかった。 支配者が受け入れた新自由主義に、大衆は黙黙と従うほかはなかった。金を集 めた。構造調整を受け入れた。ベルトをきつくしめた。その一方では、民主主 義を求めて戦った。苦難の10年を送ってきた。しかし、時間が過ぎても現実は 困窮し、ヘジン・イェスルさんのような悲報の9時のニュースを裸の精神で視聴 するのはそれほど耐え難いことでない。 韓米FTA交渉過程で嘘を繰り返す参与政府を見て、大衆は癇癪を起こした。平沢 米軍基地で、大秋里、トドゥ里の住民が軍人に追い出される姿も努めて無視し た。非正規職職場に出勤し、非正規法改悪を見上げるばかりだった。この渦中 で、参与政府は資本と同盟を結び、米国を受け入れた。韓米FTAを推進して戦略 的柔軟性を承認し、労働柔軟化を終えた。盧武鉉大統領はそうして大韓民国に 新自由主義の法制度を完成して席をはたいて立ち上がった。 李明博政権発足から100日にもならないうちに、大衆は生きた新自由主義に会っ た。金大中大統領と盧武鉉大統領が注ぎ込んだホルムアルデヒドの結実だ。彼 らはキャンドル集会で語る。構造調整で職場から追い出され-安いコリコムタン を食べて狂牛病にかかり-医療保険民営化で保険が適用されず-死んだら火葬し て大運河にばら撒いてくれと。 999人の情熱が1人の偶像を作り、その1人が999人を食わせなければならないと いう信念、李明博大統領のビジネス100日はスペクタクルだ。0時間目、24時間 予備校、一斉試験、アリンジ騒動は単なるハプニングではなかった。1人になれ ない、これからこの土地で最も長く生きなければならない999人の学生の胸には、 反乱の芽が作られていた。彼らを学校に行かせる386既成世代の心境にも変化が おきた。若者たちは、君たちがなぜ自身の人生を疲れさせるかと、干渉するか と問い詰め始め、その若者たちを擁護する父兄はもっと気楽に暮らしたいが、 もっと幸せになりたいが、満たされない現実を見て不満を表出し始めた。健康 に生きたくてもBSE牛肉を持ってくるというので悲しみが込み上げてきたし、交 渉後の政府の姿は、まったく話が通じないから血の汗を流して積み上げた民主 主義も崩れそうな気分だ。生活の権利、幸せに暮らす権利が侵害される。つい に27日の夜、デモに参加した人々は『私を捕まえろ』とカマボコ車に乗る場面 を演出するに至る。 ここに運動圏がいなかったという話が出てくる。路線と旗じるしを重視する運 動圏の立場がないことは、他の見方をすれば当然かもしれない。組織された運 動、厳密に言えば労働運動と左派運動の『大衆行動』ないし『街頭の政治』は、 2003年烈士政局を経て、2005年韓米FTA阻止の戦いを経て、視野から消えた。 新自由主義導入以後、構造調整反対闘争は発電3社闘争と大宇自動車売却反対闘 争を経て事実上消耗した。参与政府が新自由主義労働政策を追い詰めて2003年 の秋、労働者の連続する焼身自殺と死を呼び、この時に労働者は工場を越えて 街にあふれた。しかしそれ以後、今まで労働者の街頭の政治はとても間歇的な 事例を除けば命脈を絶った。非正規職闘争は非正規職労働者当事者の闘争で現 実を貫いているが、労働者と市民が道路で一体となる街頭の政治とはニュアン スが異なる。選挙の時だけ大衆の票を期待する進歩政治は、街頭の政治として の大衆行動とは掛け離れている。 2005年から06年まで、8回にわたり、韓米FTA交渉が行われていた間、大衆行動 の可能性がまた確認された。明らかにそうだった。韓米FTAは韓米両国の資本に は有利かも知れないが、協定発効後、この国で暮さなければならない大衆自身 には、まちがいなく不利に感じられた。嘘をつく国策研究所と国政ブリーフィ ング、そして盧武鉉大統領の意気揚揚とした姿に真っ青になり、何よりも貧困 の深化があたえる現実の疲れを解決する方案とは感じられなかった。反対世論 が強く、汎国本という組織された動員運動は、そうした大衆と街頭で出会うこ とができた。金属労働者たちが韓米FTAに反対する全面ストライキを展開したり もした。人権、社会運動も韓米FTAと平沢闘争で大衆闘争を拡張するために頑張っ た。しかしこの戦いは、資本と国家の間の巨大な交渉であることに加え、あま りにも未来の社会の運命を扱うものなので、焦点を合わせることが容易ではな く、汎国本は長期的な連帯と闘争を耐えがたい境遇に追い込まれてしまった。 『思いがけない街頭の政治』が正しい。予想できない、事後的にだけ予想され たとごり押しをするようになる、そんな場面が広まっている。 その日の夜、つまり24日の夜に初めての連行知らせが伝えられた後、25日の夜 明けにアフリカTVとインターネットニュースを見たネチズン100人あまりが始発 に乗って光化門に出てきた。25日の朝、光化門にいた人々は、光化門が解放空 間だったと言う。その解放の道路で休むことなく形成された政治討論の結論は、 『独裁打倒』だった。「大統領府進撃派」と「清渓集会派」は、すべてキャン ドル派であり、自主派と平等派が見せる政治的な争いなどは初めから見られな かった。この渦中で再協議を要求してテントを張っていた民主労総の境遇は、 いかにわびしかっただろうか。参与政府5年と李明博政権100日をむかえる私た ちの社会階級闘争の風物だ。 翻訳/文責:安田(ゆ)
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