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互いに異なる概念を融合することはできない

[ヤン・ギュホン コラム]社会的合意の意図は労働者階級の譲歩

ヤン・ギュホン(労働者歴史ハンネ代表) 2018.03.20 18:03

哲学は物質と意識の関係において相反する二つの方向に分かれるが、 それが唯物論と観念論だ。 唯物論は「まず物質が存在し、意識と思考は物質から発生した産物だ」という。 唯物論者は世界が人間の意識から独立して存在し、 世界の多様な現象の間には、人間の意識によっては決定されない客観的な関連性が存在するということだ。 こうした主張に対する観念論は、精神的なものをすべての世界の根源と見なす。 精神が自然に先立って、あるいは自然から独立して、それ自体として存在し、 物質や自然はこうした精神的なものから発生した産物であると規定して、 物質の永遠性を否定し、永遠の精神的な実体を仮定する。 本質が明確に相異なる唯物論、観念論について、ある人たちは鶏が先かタマゴが先かといった論理だとし、 唯物論と観念論が結合できるかのように糊塗したりもする。

[出処:チャムセサン資料写真]

和音と不協和音が衝突すれば不協和音になる

人間が生きていくにあたり、 日常的に接する音楽に比喩しても同じ現象が現れる。

音楽を構成する和音の中にも弁証法の兆候を発見できる。 音楽は自然から出発した。 音楽の原理は自然科学の原理と密接に関連している。 音の高低は弦の長さだが、響きは胴体の大きさまたは長さと関係がある。 こうした原理を基礎に音の高さと共鳴が規定される。

音の周波数の割合が調和する時に和音といい、そうではない時に不協和音という。 楽器と楽器の間で和音が合わなければ、不協和音による不愉快を経験する。 その不愉快の程度は人により違う。 音感がある人は、少し周波数が違うだけでもそのストレスに耐えられず神経質な反応を見せる。 これは音楽が存在論的に自然性に基づいて機能することによる必然的な現象として理解するほかはない。

音楽には多様なジャンルがあり、一人一人の個性により好む音楽がある。 好きな音楽が違っても、不協和音を高尚な音楽として理解する人はいないだろう。 音楽は創意性に基づいて多様に作られ(作曲)、変化(編曲)されるが、 和音という基本の範疇からは抜け出せないという意だ。 たとえば歌手が舞台で歌った時、歌はもちろんバンドが調和がとれた和音を出せずに不協和音を出した時の観客の反応は火を見るより明らかだ。

これは前述の周波数の比例配分という自然法則を考える時、必然的な帰結だ。 つまり、5音階音楽が人間にとって最も自然で安らかに聞こえ、 音を作ったり(作曲)、歌うことも簡単に構成されるのは大衆の反応を念頭に置いているためだ。

したがって、不協和音自体を聞くことがかまわないという仮定はまったくおかしいものであり、 和音と不協和音が結合すれば和音と不協和音が存在するのではなく、 和音は不協和音に吸い込まれていく。

異なるものは異なるもので、一つに結合させても同じではない

調和という名分で試みられる多様な流れは、哲学と音楽だけでなく、 私たちの周辺生活でも日常的に現れている。 同じ経済学でも現代経済学と政治経済学の差異が存在する。 その差異は階級概念の有無にあり、政治経済学は賃金労働者と資本家に対する生産関係と所得の分割、 その過程で行われる階級対立を説明する。 しかし現代経済学はこうした階級関係を家計という同一の主体に統合させた後、 数え切れない個別の単位に分けてしまった。 彼らが描写する経済構造の中にはもはや対立はなく、調和だけが残るようになったのだ。 このように、本質的な要素が異なる2種類を一つにすることを試みて努力し、研究することはできるが、 それでも本質は変わりはしない。 むしろ脚気の根本的意味が喪失になりながらプリョプが高まって、結局強い側で傾いて行くことによって政治経済学のアイデンティティを喪失する危険が高い。

社会的合意を追求する実際意図は労働者階級の譲歩

私たちが接している労働運動でも、容易に同じ現象と流れを見ることができる。 民主労組運動が活性化していなかった時、協力的労資関係が大勢だった時期があり、 主に協力的労資関係を主張する労組は御用労組と指摘された。 協力的労資関係の核心は、会社がたくさん儲けることで労働者が豊かになるという絶対的な論理が作動する。 したがって労働組合は会社の発展のために存在する集団に転落し、 労働者の権利はいつも後回しにされた。 こうした時期を経た労働運動は、労働者大闘争を経て対立的労資関係に落ち着き、 それ自体を民主労組運動と規定したが、 その理由は、労働組合は組織の性格自体が闘争組織だからだ。 資本主義社会で協力的労資関係において、労働者の基本権はブラックホールのように資本に吸い込まれていくほかはないというのがこれまでの経験だ。

文在寅(ムン・ジェイン)政府発足以後、 労働運動陣営で多様な変化が試みられている。 労政対話、労使政対話がまさにそれだ。 労働運動の中心組織である民主労総が政府と労働政策を討論し、資本家と交渉をするのは自然に見えるかもしれない。 労働組合の機能は経済的機能と福祉的機能、そして政治的機能に要約されるが、 これら三つの機能を生かすには交渉をするほかはないためだ。 しかし労働組合の交渉能力は、手続きや論理として発現するのではなく、 大衆闘争動力で決まるという事実に注目しなければならない。

協力的労資関係の核心は、幸せな雇用創出のために労使協力は必然的だと主張して、 対立的労資関係と協力的労資関係は並存すべきだと強調する。 つまり勤労条件の向上は対立的な労使関係により形成され、 勤労者の生産性向上の分配という部分は協力的労使関係で具現されると主張する。 明確に相反する概念を適当にごまかす格好で、 ここで認められる対立的労資関係の実体は、 協力を基本とする対立を意味する。 さらに、対立的労使関係を過激な運動路線と非難するのではなく、 資本主義社会において社会的弱者にならざるをえない労働者たちの「基本権争奪」という視点から見なければならない。

労働組合の性格は闘争組織だ

社会的対話(労使政合意路線)は多様な名分を打ち出して正当性を確保する努力が見られる。 こういう現象は、これまでの経験上、民主労総内部の亀裂現象として現れている。 社会的対話や労使政合意とは「合意」に先立って議題そのものが労働者と資本家間の階級的理解が鋭く対立する問題なので、 この対話には階級的対立が必然的にならざるをえない。

社会的合意機構の政治的背景は別として、対話を通じて資本家と労働者階級はそれぞれの要求を貫徹することを目的としている。 では労働者階級が自分の要求を貫徹する方案や可能性は、ただ闘争だ。 闘争力によって交渉力を拡張して、その力量で労働者階級の要求を争点化させることができる。 労働組合の諸般の活動と連帯闘争、 そして労働者階級の直接政治である路上闘争をしてきたことも、 交渉力の拡張と関係がある。

民主労組運動の精神はもちろん、路線さえ不明な時期に、 社会的交渉機構による労働者階級の要求争奪は見かけだけでしかない。 政府が参加する労使政委員会で労働者階級が主導権を行使できるのは、 労働者政党が権力をにぎった時に可能だと考える。 したがって、昨今の労使政(社会的)合意機構が労働運動の路線であるかのように主張するのは、民主労組運動の路線に対する問題だ。 これは労働者大衆の日常活動と闘争を組織するのではなく、階級的な力が失なわれた交渉で懸案を解決するという発想だ。 闘争動力が欠如した上層部の交渉で労働者階級の要求を争奪するというのは、 私たちが暮らす世の中が資本主義ではないということだ。 階級間の対立の構図を努めて無視して、 協力的労資関係の転換は新しい方向への発展ではなく、 過去に戻るという憂慮をせざるをえない。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-04-26 11:01:07 / Last modified on 2018-04-26 11:01:12 Copyright: Default

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