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民族解放運動論(NL)の拡散と分化[韓国社会とNL-2]変化の提案を政治的不穏として拒否した教条性
By イ・チャンオン/延世大研究教授/ 2012年6月12日、9:20 AM
主体思想派の登場:反帝と救学連1980年代初めに労働運動に身を投じた運動家の一部は「統一革命党声放送」を 聴いたりもしたが、あくまでも個人的な好奇心であって、集団の関心では なかった。もちろん、運動圏全体にも影響を与えなかった。革命理論の定立で 最も基礎になる社会の矛盾構造の把握、つまり社会の性格についての探求で、 1980年代前半の学生運動が見せた姿は反独裁民主化の水準だった。 しかし1985年下半期に提起された反帝(AI)の登場と共に、各大学内の理論闘争の 二つの対立は、MC-MTでMT-NLに転換し、1986年のNLの台頭を予告する。彼らは まず、品性に基づく思想運動を標榜し、ソウル大学生運動の基本的な枠組み である理念サークル体系の即刻解体、分派主義の清算、学番制撤廃および 運動組織の封建的残滓の解消を主張し、代案として統一的な学生運動組織の 建設を提示した。 救学連(救国学生聯盟)と自民闘の登場で、その後の学生運動の主な行為者と グループは、理念的に民族解放運動を指向する形で変化体系化したといえる。 初期のNLには、ソウル大の救国学生連盟(救学連)のように全国的な学生組織の 建設を指向する組織もあったが、1986年の一年間、継続的に連帯の枠組みを 模索して思想的な統合に努め、86年10月、愛学闘の結成に至るまで、各大学に 独自の勢力として分散して存在している状態だった。政治路線では1986年の 学生運動の限界として指摘される点は、NLPDR理論の傾向性水準だったと言える。 これは、1987年を経て、さらに洗練された形で現れるNLPDRと較べると、無理な 評価ではないだろう。 ところが、韓国の学生運動と主体思想の関係を分析すると、1986年は韓国の 民族民主運動において主体思想の第一段階を確立した時期と考えられる。結局、 1986年の学生運動の特徴は、反帝の傾向の台頭と、運動自体が全大学に拡散 (民衆運動圏)したという点を上げられる。 初期の反帝急進主義がすぐ大衆路線につながったわけではなかった。大衆路線は 建国大事件の後、革命的群衆路線を通じ、正しい大衆意識化、組織化を実践 すべきだという反省が積極的に台頭し、定着したと見られる。 NLの大衆路線の堅持は、1987年6月抗争で大衆動員に成功する要因として作用する。 NLの直接選挙制改憲論は、それまで「改憲局面」と把握していた状況認識を批判、 『帝国主義の朝鮮半島権力再編期』と局面を定義して、改憲闘争の性格を 「反米自主化闘争」という観点から再解釈する。 NLは、87年4月下旬から軍事独裁政権を効果的に粉砕する学間連帯組織の必要性を 痛感し、ソウル地域大学生代表者協議会(ソ大協)、全国大学生代表者協議会 (全大協)などの新しい大衆組織を作ることになる。NLは大衆路線を拡散させる 過程で、サークル主義と分派主義の克服、大衆路線の正しい理解という内部的な 課題を、学生会の強化を通じて解決することができ、この過程で主体思想を拡散 することができた。 ![]() 初歩的な関心から体系的な受容へ1987年を経て主体思想の受容単位もさらに広がる。1986年まで、NLの理論は 政府刊行物を批判的につぎはぎした水準だった。 鋼鉄キム・ヨンファンも後日、放送文書と極東問題研究所が発行した 『共産主義大系』を熱心に読んで文書を作成したと話す。1987年下半期から 1988年の初めになると『主体思想に対し』に始まり、金日成の抗日パルチザン 闘争から北朝鮮建設に至るまでの革命史がパンフレットで配布され、革命の 戦略戦術、革命の対象と動力、統一戦線の意味と範囲など、体系的な主体思想の 枠組みが提示され、革命的首領観も受容するようになる。 特にNL系列は1988年の統一運動で国民的な関心を引き、学生運動内の統一した 力量で推進するために、88年8月、ソウル地域総学生会連合(ソ総連)がソ建推 (ソウル地域大学生総連合建設推進委員会)を吸収する統合力を発揮した。 学生運動は全大協を中心として大きくNL系列に整理され、多数の群小グループが 乱立する時期を経て、89年下半期になると急速にNL-PDという両系列に結集、分化 する。全国大会協は学生大衆組織である総学生会代表者の協議体だが、路線と 人的資源においてはNLの影響の下にあったといえる。 全大協は、1987年の公正選挙監視団活動、1988年の6・10、8・15南北青年学生会談 成功闘争、11月の光州・第5共和国清算闘争、1989年の林秀卿の平壌祝典参加、 1990年の8・15汎民族大会推進、光州民衆抗争10周年継承闘争を主導する。 中心的な幹部の拘束・手配などの政権の弾圧にもかかわらず、毎年1回挙行される 全大協の発足式は毎年規模が大きくなり、1992年には6万人の大学生が参加した。 しかし全大協は焼身政局とパク・ホン総長の暴露、遺書変造事件、学生の焼身を 批判する金芝河の文、外大事件(チョン・ウォンシク総理小麦粉投擲)など、 学生運動が社会的に孤立する様相を迎える。その後、文民政府の改革政策により 政権の性格が曖昧になり、次第に闘争の説得力が弱まっていった。会員数100万、 幹部4万、核心幹部1万、総予算年間50億ウォン、常時戦闘力2個師団、参加学校 全国約180大学など、政権が二回交替する間、全大協の活発だった6年間の活動は 幕を下ろす。 全大協は7期になると、1993年3月に慶煕大で代議員総会を開いて全大協を解体し、 『韓国大学総学生会連合建設準備委員会』を発足させることを決議、1993年5月 『韓国大学総学生会連合』(韓総連)として再度発足した。87年の6月抗争以後、 多様な部門大衆組織が成長し、部門別運動にNLの影響力も強まった。 NL勢力の分化の過程自主派が民族解放路線内で独自の道を標榜したのは、1992年の汎民族大会から だった。1992年の汎民族大会は、大学街の北朝鮮訪問交流が連続して失敗した後、 ファクシミリによる北朝鮮の大学生との手紙交流が急速に拡散し、全大協の 国家保安法破壊運動としていくつかの大学で人共旗掲揚などの統一運動で問題が 極端な形態で現れた。 この時、進歩学生連合の前身といえる生大連(生活進歩大衆政治大学生連合)は、 学生運動の北朝鮮追従的、自主的交流中心の誤った傾向を批判した。生大連の 問題提起は民族解放派内の非主流だった自主派が北朝鮮社会と北朝鮮追従路線に 対する批判的な態度をはっきり表明し、PD系列グループと共に新しい学生運動 組織を出現させた一つの事件といえる。 これは、進歩陣営の全般的な危機を迎え、過去の理論体系と世界観に基づく NL・PDの対立の構図がその意味を失っていく状況で、新しい進歩の流れを形成 しようとする動きといえる。これはまた、1986年以来、韓国の運動圏をひきつけて いた北朝鮮の影響力がはっきりと退潮することを示し、社会主義の危機を迎えて 北朝鮮も受けている危機的な兆候への南韓進歩陣営の反応といえる。 1989年の公安政局から沈滞期を抜け出せない学生運動は、金泳三政権の登場と 改革の嵐の中で、さらに大きな混乱のドロ沼に陥っていた。1980年代と共に 極めて包括的な民主主義に対する大衆的な同意基盤と、学生会を通じた共同 実践の亀裂は、1990年序盤から始まった。1991年5月の闘争の敗北と、現実の 社会主義圏の没落で、運動隊伍から離脱する活動家と学生が増え、大学社会 に全体的な政治的無気力・無関心が現れ始めた。 91年6月、外国語大の『鄭元植鶏卵事件』を契機として、学生運動の道徳性に 対する権力とマスコミの集中砲火に続き、1993年の文民政権の発足は、さらに 広範囲な大衆的離反と脱政治化をあおった。 軍部勢力執権の終息と文民政府執権初期の改革ドライブが、強力な大衆 イデオロギーに転化した結果だ。これに加え、ポストモダニズムの登場と 新世代論争、消費文化の拡散、新自由主義への編入と大学の市場論理強化、 学部制の導入といった現実の変化により生まれ始めた亀裂がさらに大きくなり、 学生運動の危機は急速に拡散・加速した。 時代的な変化に対する能動的・主体的な変化を受け入れずに拒否しかし、1990年代の学生運動を含み、民族民主運動の危機は権威主義政権下で 展開した運動の内在的な危機、つまり権威主義の時期の運動の一周期を終え、 民主化以後に現れる新しい課題を解決する社会運動の周期に能動的に対応 できないことで深刻になった危機だといえる。 1987年以後、政治的・社会的な行為と対立を規定する一定の相互作用の枠組みは 変わった。新しい体制形成は、その体制を維持し管理する新しい権力の形成を 意味するものだった(チョン・ジョンフン、2007:180)。1990年代は87年の民主化抗争 の後、これまで国家権力が貫徹される最下部の単位として被動的にのみ存在 していた市民社会が自律的な領域を拡大し、社会の中心に浮上した時期であった。 NL運動は、1980年代が追求してきた制度的・構造的な戦略に加え、1990年代式の 文化的戦略を結合し、運動の革新と変化を追求しなければならなかった。換言 すれば、法的・制度的・手続的な民主化を通じ、疎通空間の拡張という側面を 最大限活用する一方、大衆の政治的な抵抗を市民社会という体制内部の特定の 空間に捕獲しようとする権力の作動に能動的に対応していかなければならなかった。 一部の学生運動グループでは、現実の可能性、持続性を離れ、新しい試みもあった。 新しい社会運動の観点から運動の革新を提起した『経実連大学生会』の 問題提起(戦略的スローガンの乱発ではなく懸案を中心として変化した対立構造に 照応する『運動戦線の多角化』と『代案提示』、『大衆参加型運動』のために 手続きの正当性に基づく合法平和運動を展開し、多様なプログラム開発など)は、 急進的な学生運動からの批判にも省察について悩む一部の学生運動家に刺激を与えた。 この他にも『21世紀進歩学生連合』の『主体実践型運動(一つの主題に対して 具体的な成果をあげるまで集中、NL・PDの古い枠組みからの脱皮と運動の再構成、 生活像の民主化と多様な問題の結合、ネットワークの調節者としての進歩政党の 役割再考および参加など) 』、マルクス主義の転化を試みた一部の『民衆民主系列の 大長征学生連合など(マルクス主義に内在し、マルクス主義が克服できない近代的 思考の境界を越えること。性の問題を政治的-社会的問題に台頭させよう-共同体 学生連帯、主流秩序の転覆、近代民族国家を越え、反近代政治に向かい-大長征)』、 北朝鮮観の変化と新しい時代理念の定立を要求する民族解放派の一部グループの 革新の努力がそのような例といえる。 当時、サラム・サラン系列は情勢と状況の変化に対する再認識、古く慣性的な 闘争からの脱皮、暴力闘争の再検討、大衆団体の本性に合った学生会の大衆化、 韓総連の非民主性の克服、新しい時代の要求と課題を把握して時代理念の再確立、 学生運動政治組織の建設と独自の政党の建設を提起した。 しかし主体思想派が主流だった学生運動(韓総連主流)は、1980年代の運動方式を 根本的に革新、または修正するには力不足だった。したがって学生運動の指導部と 学生大衆の意識、指向、方法の乖離と亀裂に対する主観的な解釈と慣性的な実践の 中で、危機は深刻になった。以下の引用は、当時の『主思NL系列』の認識の断面を 見せる。 首領を中心に団結しない労働階級の小ブルジョア的な公明主義と分派主義が まだ隊伍に残っている。(中略) ……の中で一部の論者は支配者たちと声を揃えて 『偶像化』、『個人崇拝』と言ったり『盲目的忠実性』と『真の忠実性』を区分し、 民衆の指導者に対する無限の尊敬と愛を嫌ったり誤りとする傾向まで現れている。 (中略)忠実性を養うためには指導者の恩恵を深く把握して熱く感じることだ。 このように、民族解放派の一部自主派の北朝鮮観の変化を含む運動の現代化への 提言は、主体思想派には全く説得力を持たなかった。 なぜなら主体思想派は、自分たちが主体思想派になるまで持っていた数しれぬ悩み、 問題意識、そして現在持っている情緒や談話構造に全く合わない批判が、ひとまず 異様に感じ、根深い『敵と我』の両極端的な認識と運動内部の政派が両立する 状況での政治的意図の不純性に執着したためだ。 主体思想を教条的に受け入れた状態で、思想の宗主国である北朝鮮が変化しない 限り、主体思想派も変化は難しかった。北朝鮮内部の批判勢力の不在で自浄能力や 創造的な代案を作れないのと同じ理由で、その談話体系に影響された南の 主体思想派も問題を全面に表わし、解決を模索することはなかった。 統一運動をめぐる対立と分化統一運動をめぐる民族解放派内部の意見対立は、1995年の8.15民族共同イベント 前後に明確に現れた。当時、民主主義民族統一全国連合(全国連合)は1990年から 続いてきた汎民族大会が、統一運動の必要を先導的に提起するという成果を上げたが 国民大衆から無視されたと評価し、大衆的な統一運動のために多様な民衆・ 市民団体を包括し、当局との合意で合法的な空間で大会を行うべきだという 見解があった。 しかし文益煥牧師が1992年8月の汎民族大会前後に、祖国統一汎民族連合(汎民連) の解消と新しい統一運動体(新統体)を提案し、対立は増幅し始めた。 新統体の首唱者たちは、汎民族大会が出発した当時はとても話題になったが、 ある程度の時間が過ぎると慣性的な流れに換わり、南韓の運動圏に負担として 作用したと主張する。汎民連は結成当時、3者の運動水準と力量を考慮せず、 トップダウンで常設連合体を作るという問題を表わしたという。 また、作られた情勢を越える政治スローガンを提示することで、南韓の統一運動を 一つにまとめる努力に対し、難しい状況になったということだ。さらに開かれた 空間(金泳三政権の二重政策)と市民運動の人間の帯運動など、新しい形の統一運動が 展開され、その立場はますます狭まり、そのため運動圏の自足的な例年行事程度で 終わるようになったということだ。 統一運動の反省的評価を通じ、新しい変化を試みる動きは1993年から本格化した。 汎民連の発展的解消と新しい統一運動体の建設の努力は『自主平和統一民族会議 (以下 民族会議)』の創立につながり、統一運動陣営では民族会議と汎民連、 大衆的統一イベントと汎民族大会に大きく分れる認識と実践の偏差が組織的に 形成され始める。 民族解放派内部の対立は、汎民連南側本部が8.15共同イベントと別の汎民族大会を 開き、最高潮に達する。 相対的に主体思想派の影響が強かった韓総連は汎民連を支持する態度を見せ、 汎青学連祝典の成功のために、南韓の学生代表を北朝鮮に派遣した。韓総連の 内部は革新系列(サラム・サラン)が韓総連自主系列(主思)のこうした方針に異議を 提起し、韓総連自主系列(主体思想派)と汎民連は、汎民族大会に消極的な民主主義 民族統一全国連合に異議を提起するなどの対立の構造は深まるのみだった。 当時、全国連合の内部は地域別(地域連合)に政派が形成されていたが、全国連合 所属部門大衆組織の調整と一定の政治的な妥協がなされながらも二つの大会が それぞれ開かれることわ防ぐことができなかった。 当時の統一運動をめぐる民族解放派内部の対立は、統一運動の政治方針、 統一方案、3者連帯、統一運動陣営の団結問題をめぐる差を反映していた。 新しい統一運動体の首唱者たちは、統一主体勢力を形成するために、統一の 概念と意味についての再調整と、社会的な合意の拡散を強調する。ここでの 対北朝鮮観の変化は、大衆的統一運動の前提として提示される。 祖国の統一が民族の単なる団結の実現を越え、相互の変化による恒久的な共栄を 企てるものだという時、共存を威嚇するのであれば、どんな体制でも批判するべきだ ということだった。統一運動で大衆化を阻害し、両極端(統一/反統一)の思考を 深めた原因の一つが北朝鮮を代案体制と認識してきた運動陣営の偏向的な思考を 彼らは問題にしていた。 ![]() 彼らは、まだ親北朝鮮的なイメージが残る連邦制を大衆的なスローガンに 提起するのではなく、大衆が統一問題を深く認識する多様な契機を作り、 この空間で共存、共栄、吸収統合の反対の原理を共有し、連邦制として 概念化することを主張する。 また、南・北・海外の実情に合う3者連帯で、南韓の統一力量を保存し、 統一運動への大衆的な拒否感を解決していくことを主張する。北・南・海外の 3者連帯に対する過度な執着は、南韓統一運動の準備の程度と南韓の政治の現実 (法的・制度的制約)を考慮して計画的に進め、大衆の統一意識の成長に 進まなければならないということだ。3者連帯は、連帯の対象の異なる力量と、 客観的に存在する3者の異なる状況の理解が前提になるべきで、状況の変化と 必要によっては多様な方式で弾力的に推進されなければならないということだ。 『新統体(新しい統一運動体)』の首唱者たちは、駐韓米軍撤収を目標とするが、 米軍基地返還運動と韓米行政協定改正運動などのように大衆的な反米運動の 必要を主張した。 汎民連-韓総連主流に代表される主体思想派が強硬な態度を取る理由は、 北-米・南-北の関係が極端に向かっているという危機意識と共に、北に配慮する 意図もあった。1994年6月13日の北朝鮮のIAEA公式脱退、6月15日のビル・ クリントン米行政府の北朝鮮核施設爆撃まで含む対北朝鮮制裁決議案草案の発表で 緊張は極に達した。 幸い、6月15日から18日まで、ジミー・カーター前米国大統領の仲裁に力づけられ、 10月に北・米はジュネーブ合意を締結し、戦争危機は脱した。しかし金泳三政府は 「核を持った北朝鮮とは交渉できない」と北との対話を拒否し、金日成主席の 死亡以後の弔問波動で、南北関係は急激に冷却した。 北朝鮮は通米封南政策を通じ、南韓排除戦略を使った。1994年以後、北朝鮮は 地球的な巨大な転換(東欧の社会主義没落、世界化)と南韓の民主化の進展、 変化した運動の摸索と実践を認めたくなかったものと見られる。北朝鮮は、 東欧社会主義の没落、93から94年までの北核危機の状況で、南韓の積極的な 反米・反政府運動を要求し、この過程で『汎民連』への支持の立場を標榜した。 北朝鮮が金泳三政権に対する強力な見解を明らかにした中で、韓総連は8.15 汎民族大会に対する武力弾圧、金泳三政権の北朝鮮敵対政策、1996年12月の 労働法・安全企画部法の強行通過、韓宝不正とキム・ヒョンチョル不正事件で 表面化した大統領選挙戦資金問題に言及し、『全国民抗争路線』に転換する。 全国民抗争路線はすでに文民政府登場以後、政権の性格をめぐる内部的な 論争(主体思想派と明け方グループ)が表れた1993年から提起されていたが、 内部論争が尖鋭化し、全国民抗争路線を公式に表面化することができなかった。 汎民連と韓総連は弔問と主体思想派波動(1994)、二つの統一イベント(1995)、 延世大事態(1996)等を経て、保守・進歩の両者から提起される批判にも闘争の 疾走を止めなかった。韓総連は1996年の延世大事態があって急速に全国民 抗争路線で整理され始める。1997年の韓総連代議員大会などの各種の会議を経て、 全国民抗争路線は民族解放派学生運動の基本方向になった。金泳三政権を打倒する 第2の6月抗争を実現するということだ。このような方針により、 準備期、高揚期、噴出期など多段階・階段式の闘争を推進した。 以下は『当面の情勢と韓総連代議員大会に対するソ総連の立場』という 文書で現れたNL主流の視点だ。 上半期の韓総連闘争は米-キム一党の政権再創出の陰謀を破綻させ、決定的な 勝利を目前に引いてきた勝利の毎日でした。それはつまり民衆の自主性を 擁護し、高揚してきた過程でした。われわれ民衆は今年、民主基本権と生存権も 踏みにじる金泳三ファッショ政権を打倒して、清潔な民主政権の樹立を切実に 要求してきました。(中略)民衆の要求が金泳三早期退陣闘争に集まっていることに 基づいて、金泳三打倒闘争をさらに強く展開し、自主、統一闘争を総体的に 行わなければなりません。(中略)今年、わが民族の前に差し出された課題を 実現するためには、汎民族統一戦線体、民族大団結の実体である汎民連わもっと 強化しなければなりません。 主体思想派のこうした認識は非常に原則的だったが、全国民抗争を明確な 代案なく、単に闘争方式の暴力性に焦点を合わせた問題提起だったという点で 批判の原因を提供する。 汎民連と韓総連闘争の結果は、金泳三政権を大統領選挙戦の資金窮地から 脱出させ、学生運動は反対に孤立無援状態になった。汎民連の統一路線に 反対する全国連合の内部のNL系列と、学生運動内部のサラム・サラン系列は、 韓総連が金泳三政権への非現実的・主観的視点に基づき、1996-97年を 大激突期と規定した点、怒りと敵対感だけを刺激する暴力闘争一辺倒の 慣性的な運動方式を固守した点、大衆との交感の不在と権威主義的かつ 非民主的に学生会と韓総連を運営した点などを批判する。 現実から思想が確立せず、思想が現実を規定する硬直性政治闘争中心の事業内容と幹部中心の運営方式から脱し、大衆団体としての 韓総連の本性を見つけ出そうという革新系列の批判に対し、汎民連と韓総連の 主流は「敗北主義と改良主義を助長する声」、「主観主義的な見解を押し出して、 それを時代精神とかなんとか言って変革の中心を逸脱させる混乱と対立」と 規定し、運動路線の変化をきっぱりと拒否する。 韓総連主流は「民族自主に進む世界史の発展から見ても、自主化の旗じるしの下に 自主・民主・統一を実現することを目標とする変革運動の性格を見るか、 民主化運動の時代を越え、自主化闘争と統一闘争を全面化・大衆化する 民族運動の時代に進む現段階の変革運動の発展水準から見ても、『自主時代の 民族主義』が正しい学生運動の思想」(ハン・ホミョン、1996)だと強弁する。 「韓国が相変らず米国に隷属する植民地であり、その形態が多少緩和しただけで 本質は変わらず、したがって民主対反民主の戦線は相変らず有効」であり、 1997年の大統領選挙で独自候補戦術ではなく反新韓国党路線を堅持するようになる。 韓総連革新を主張してきたサラム・サラン系列は、自分たちの問題提起が 韓総連の内部で貫徹されなかったため、各級大学と韓総連は競選体制に突入する 一方、結局は学内総投票や意見陳述運動などの手続きで韓総連を大々的に脱退する。 過去、NL隊伍の分化が加速する過程で、サラム・サラン、明け方などの分岐が 表面化したが、サラム・サランも地域別に分化した。サラム・サラングループの うち全北総連と明け方グループ、21世紀進歩学生連合は『韓総連』を脱退する。 1997年の大統領選挙方針をめぐる対立は、統一運動論争に続き学生運動を含む 民族解放派全体に政治組織をめぐる対立と分化を促進する。1997年12月の 大統領選挙以後、民族解放派は次のような分化を経験する。全国連合の 大統領選挙/政治方針に反対して国民勝利21に残留することを選択した一部の 自主派は全国連合から離脱し、国民勝利21を政治組織に転換する運動を展開する。 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2012-06-13 03:02:35 / Last modified on 2012-06-13 03:02:41 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ |