毎木曜掲載・第356回（2024/8/1）

「安倍銃撃事件」単独犯行説に疑義

『暗殺』(柴田哲孝著、幻冬舎、1800円）評者：大西赤人

　辞書の定式的説明に則ると、「暗殺」とは「主に政治上の立場や思想の相違などから、ひそかに要人をねらって殺すこと」（『大辞泉』）、「ひそかにねらって人を殺すこと。多く、政治的に対立している要人を殺すこと」（『広辞苑』）である。ここでいささか不穏当な物言いになる惧《おそ》れを承知で書くならば、「暗殺」という言葉には一種独特な魅力が感じられる。その理由は、〝ひそかに〟という修飾語に象徴されているように思う。表に出ない・練りに練られた・不可解な・隠された・陰謀――それらの集約としての要人殺害こそが本来の「暗殺」という表現に相応しい。おかしな言い方だが、対象者を爆撃したり、爆破したり、実行犯が見え見えの形で狙撃したりでは単純な暴力の発露に過ぎず、「暗殺」には合致しないとさえ感じられる。当然ながら、綿密な計画に基づく「暗殺」には様々な謎の要素が絡まりやすく、エンタテインメントの題材としても極めて好適である。

　密かにであろうが堂々とであろうが、とりわけ政治的に対立する相手を殺害するなどという行為は全く容認しがたいけれども、先日のトランプ元・米国大統領に対する狙撃（未遂）、あるいは直近のハニヤ・イスラム組織ハマス最高幹部に対するミサイル攻撃（死亡）など、「暗殺」は常に繰り返されてしまう。そして、2022年７月８日に起きた安倍晋三・元首相銃撃事件もまた、犯人が現場で即座に逮捕されたにもかかわらず、未だに多くの謎が残る不可解な出来事としてしばしば話題に上る。当時、大西自身もネット上に流れる多くの映像を眺め、非常に奇妙さを感じた。最初の発射音を聞いた安倍氏は――左回りにユックリと半身《はんみ》で――後方＝犯人側を振り返ったのに、第二弾は被害者の右頸部に命中して心臓まで達したこと……。高さ50センチほどの小さな台上で演説していた安倍氏は、致命傷を受けても転げ落ちるでもなく、一歩、二歩、台から地上へと確実にステップを踏んで降り、徐《おもむ》ろに前かがみにうずくまったこと……。

　最近評判の本書は、巻末に――

「本作には実在の人物・団体・文章等が一部登場しますが、あくまで創作の材とするものであり、実際の事件・社会問題等とは関係ありません」

――との注記が付されており、「序文」は――

「二〇二二年七月八日――。
　時刻は午前一一時三一分と記録されている。
　日本の、元内閣総理大臣が近鉄大和西大寺駅前で演説中に凶弾に倒れ、死亡した。享年六七だった」

――と始まる。『暗殺』一冊の中に「安倍」という文字は一度も登場しない。元首相は田布施博之、後継首相は原芳正、現首相は木田邦男、与党は自由憲民党、田布施と近しいとされる宗教組織は合同教会、狙撃犯は上沼卓也というように仮構化されている。しかし、中曽根首相や竹下首相、トランプやバイデンはそのまま登場するし、1987年の「赤報隊事件」などもひとまず史実のままに引かれる。即ち、総ては創造（想像）の産物であるという大前提に載りつつ、しかし同時に一定程度は現実の枠組みに依拠するから、実際、大西も読んでいて、特に事件発生までの約半分――第二部までは、登場人物と実在人物との脳内変換に追われていた。

　言うまでもなく、本の帯にも「本当に〝彼〟が、元総理を撃ったのか？〟」と赤字で謳われている通り、この作品は小説の結構を採りつつも、ノンフィクション・ノベルに近い形で、今後公判を迎える犯人・Ｘの単独犯行に疑義を呈している。小説における犯人・上村はＸと共通する半生を送ってきた人物だが、田布施を狙う〝真犯人〟側は、上村をケネディ暗殺事件におけるオズワルド＝ダミー役としてしか扱っておらず、真の実行犯は〝シャドウ〟と呼ばれるプロフェッショナルという仕掛けになっている。このあたりの関係性は比較的早めに提示されるし、既に述べた通り、実際の安倍・元首相銃撃に関しても疑問点は多々あったから、本書の提示する――小説上の――「真相」「真犯人」に関して、さほどの意外性はない。

　冒頭、「自分の前にいつの日か【以前所属していた〝組織〟から】〝使者〟が現れることは覚悟していた」という上村は、自分が「ダミー役」であることを自覚していたのか？　2019年の接触から2022年の実行まで約三年間、当初は勝手に口座に金が振り込まれて「無職になっても生活には困らなかった」のに、途中から「〝組織〟の方から行動費の名目である程度の金は支給されている」が、「〝組織〟からの収入だけで生活していくのは厳しい」ので派遣会社に登録して働き出すとはどうしてか？　上村は凶器の二連銃を手作りするが、〝組織〟は、そんな物に〝シャドウ〟による銃撃との連動・連携を信頼し得るのか？　後半に入ると全く登場しなくなる上村に関しては、実際のＸとの関係性を追求しにくいためか、物足りない部分が多い。

　物語は、後半に入って週刊誌の契約記者・一ノ瀬正隆が登場し、彼及び同僚の高村美恵が事件を追いはじめる。安倍氏の体内からも見つからなかったとされる消えた弾丸の問題など面白みも出てくるのだが、高村の無防備な行動、〝シャドウ〟と一ノ瀬との接点あたりには、あくまでもフィクション＝エンタテイメントの範囲に逃げた弱みも感じる。未読ながら、柴田はノンフィクションとして『下山事件　最後の証言』を書き、後に「ノンフィクションでは、書けなかった」と銘打って『下山事件暗殺者たちの夏』を著している。あるいは、本件に関しては、何年か後にノンフィクション『安倍晋三銃撃事件』を送り出す日が来るのだろうか？