立憲デモクラシーの会共同代表の長谷部恭男氏(早稲田大学教授・憲法学)が、「自衛隊9条明記は不要」と題した寄稿(22日付京都新聞=共同)で、「自衛隊合憲」論を展開しています(写真はことし4月の立憲デモクラシーの会記者会見。左から2人目が長谷部氏)。きわめて問題の多い論稿で、黙過できません(以下、抜粋)。
「自衛隊は9条2項で保持を禁じられている「戦力」に当たるので違憲だとする議論があるが、この議論は誤りである」
「いわゆる個別的自衛権の行使も、そのための組織(自衛隊)の保持も、憲法9条は禁止していない。このことを正々堂々と主張すればよいのであって、自衛隊違憲論を気にする必要はない」
長谷部氏の「自衛隊合憲」論は、結局、「個別的自衛権の行使」を行う自衛隊は「戦力」ではない、というものです。こうした「自衛隊合憲」論は、憲法学会においてけっして多数意見ではありません。戦後の憲法学をリードした3人の学者の著書から抜粋します。
「憲法第九条第二項には「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定しているのであって、自衛のためであると否とを問わず、一般的に他国と交戦すべからざることが要請されている。…外国の軍隊が不法にわが国土内に侵入し、攻撃を行った場合は如何というに、一切の戦力を保持せぬこととなっている以上、戦力によって抵抗することは不可能と解すべきであろう」(恒藤恭著『憲法問題』講談社学術文庫2020年、初出は「世界」1949年5・6月号)
「自衛隊法は、制定後すでに二〇年余になるが、いまだに違憲・合憲の確定しない問題の法律である。私たち憲法学者の大多数はそれを憲法違反の法律とみている」
「六〇年代をつうじての日本の再軍備、自衛隊の増強が、憲法論としては、第九条だけでなく、そもそも戦争や軍隊の存在を予想していない日本国憲法全体に大きなマイナスの影響を与え、社会的には、国民生活のさまざまな分野に、平和主義と民主主義を否定する具体的な影響を与えている」(長谷川正安著『憲法現代史<下>安保と憲法』日本評論社1981年)
「自衛隊が武力を行使するのは当たり前である。これが、憲法第九条の武力行使に反するものであることは、あらためて論じるまでもない。「戦力」とは、狭く解すれば軍隊のことであるから、軍隊の禁止と武力行使の禁止とは表裏一体のものである。武力を行使しない軍隊というものは、この世の中にない」(渡辺洋三著『憲法と国連憲章』岩波書店1993年)
自衛隊が軍隊であることは明白で、長谷部氏もそれは否定していません。自衛隊が軍隊である以上、それがたとえ「個別的自衛権の行使」であっても、憲法九条に反するというのが、「あらためて論じるまでもない」「憲法学者の大多数」の見解なのです。
長谷部氏がこの時期に「自衛隊合憲」論を寄稿したことは、一学者の暴論と片付けることはできません。自公政権が「戦争(安保)法制」「安保3文書」によって自衛隊の大軍拡を推し進めようとしているとき、とりわけ沖縄で自衛隊のミサイル基地化が強行されようとしているとき、いわゆる「リベラル」とみられることが多い長谷部氏の「自衛隊合憲」論がもつ否定的役割は過小評価できません。
さらに見過ごせないのは、長谷部氏が「立憲デモクラシーの会」の共同代表であることです。同会にはいわゆる「リベラル」とされている学者が多数加わっています(4月23日のブログ参照)。こうした学者たちは、長谷部氏の「自衛隊合憲」論を拱手傍観するのでしょうか。
国家が戦争に突入するとき、学者・文化人が国家権力になびくのは歴史の教訓です。学者(とりわけ憲法学、平和学)・文化人・識者の真価が問われています。