日本被団協のノーベル平和賞受賞が決まった(11日)。被爆者のこれまでの訴え、活動が評価されたことはもちろん大きな意義がある。これを機に核廃絶の機運が高まればいいとも思う。だが、この受賞は手放しで喜べない。
核兵器禁止条約会議にオブザーバー参加すらしない日本政府や、アメリカとの「核共有」を公言する石破首相の問題は、ここでは触れない。
手放しで喜べない理由は3つある。
第1に、なぜ「ガザ・ウクライナ・世界の紛争」ではないのか。
今、世界の平和にとって最も緊急の課題はガザにおけるイスラエルのジェノサイドをやめさせること、ウクライナ戦争を一刻も早く停戦させること、世界の紛争を止めることだ。それらに関わった授賞ではなかったのはなぜだろう?
BBCの記者は「これら(ガザやウクライナ関連)は物議を醸す可能性がある」「(被団協の受賞は)議論の余地がなく、政治的に安全第一の選択肢だった」(12日付京都新聞=共同)と報じた。そうだとすればあまりにも政治的だ。
ガザやウクライナ、各地の紛争関連では授賞に値する活動がなかったからかもしれない。そうだとすればそれはそれで国際社会の無力を示すもので悲しい。
第2に、今回の授賞がウクライナ戦争におけるロシア(あるいはそれと関連して朝鮮民主主義人民共和国)批判の一方的強化と無関係とは言えないことだ。
核兵器の使用をほのめかすロシアの発言が容認できないことは言うまでもない。だがそれはウクライナ戦争におけるアメリカ・NATOとの対抗関係における戦略的発言だ。ロシアの核兵器発言を批判するのは当然だが、同様にアメリカ・NATOの膨大な軍事支援も批判しなければならない。
しかし、今回の授賞はその一方の側への批判のみを強めるおそれがある。現に、この授賞によって、広島・長崎に原爆を落とした張本人のアメリカの責任を問う論調はみられない。日本メディアの報道はここでも偏っている。
平和賞はノーベル賞の中でも最も政治的で、(西側の)政治力に左右されやすいいわくつきの賞だ。日本への核兵器持ち込みを密約した佐藤栄作や、広島の平和公園に「核のボタン」を持ち込んだオバマが「平和賞」を受賞したのはその典型だ。
第3に、「日本の反核・平和運動」の弱点が固定化されるおそれがあることだ。
「日本の反核・平和運動」の弱点は、核兵器廃絶と軍事同盟(軍事ブロック)解消を切り離し、後者を不問にしていることだ。言い換えれば、日米軍事同盟=安保条約の廃棄に言及しないことだ。
それは「反核運動」が、核兵器の被害のみを強調し、原爆投下を招いた根源でもある日本の侵略戦争・植民地支配の加害責任を棚上げしていることと通底している。
被爆者で詩人の栗原貞子(1913〜2005)はこう書いた。
<ヒロシマ>というとき
<ああ、ヒロシマ>と
やさしくこたえてくれるだろうか
<ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といえば 女や子供を
壕の中にとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが 返ってくるのだ(中略)
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といえば 女や子供を
壕の中にとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが 返ってくるのだ(中略)
<ヒロシマ>といえば
<ああ、ヒロシマ>と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない(後略) (「ヒロシマというとき」1974年)(2015年1月6日のブログ参照)
「平和賞」を機に、栗原貞子の言葉を改めてかみしめたい。