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松任谷由実氏の無責任な天皇・裕仁賛美

2024年09月06日 | 天皇制とメディア・「文化人」
  

 東京都立川市にある「昭和天皇記念館」が大規模改修の費用を募るため実施しているクラウドファンディングに、シンガーソングライターの松任谷由実氏(70)が、「知っておかなくてはならない時代」と題したメッセージを寄せた、という記事が朝日新聞デジタル(5日付)に載りました。

 その内容は天皇・裕仁(昭和天皇)に対する賛美に溢れています。個人(私人)がどのような歴史観を持とうと基本的に自由ですが、松任谷氏は著名な「文化人」として、自らの発言が影響力を持つことを承知の上で、公にメッセージを発したものです。聞き流すことができない問題に絞って最小限の批判をします(在日米軍基地への無批判憧憬はここでは省きます)(写真左は23年11月2日の「園遊会」に招かれ天皇と言葉をかわす松任谷氏)。

 1,「平成元年冬、昭和天皇の大喪の礼をTVを通して見ていました。…ゆっくり進む葬列のなんと美しいことか。この国にしか現れないしめやかな深い墨色の光景に、私は日本人に生まれて本当に良かったと思いました」

 1989年2月24日に行われた「大喪の礼」は「国の行事」として行われました。しかしその内容は神道儀式と一体化し、「ここでも憲法の政教分離原則との関係がマスコミなどでも問題にされた」(吉田裕一橋大名誉教授『岩波 天皇・皇室辞典』)ものでした。

 裕仁の死の前後にはメディアはもちろん市民の歌舞音曲も規制され、日本中が喪に服することを強要されました。日本の自由・民主主義の脆弱さ、国家権力にとっての天皇制の意味(元首化)が露呈したのが「大喪の礼」でした。
 
 「なんと美しいことか」という感想とはあまりにもかけ離れた実態でした。「この国にしか現れない…」「日本人に生まれて…」という発言(天皇賛美)は多文化共生が求められている社会との違和感を禁じ得ません。

 2,「私の生まれた頃以降の昭和の平和と繁栄は、昭和天皇の言い尽くし難いご苦労とご尽力があってのことと承知しております。私は激動の頃を知りません。それだけに、今だから見える戦後、今の世界情勢の中で知っておかなくてはならない時代です」

 ここには2重の重大な過ちがあります。

 第1に、「私は激動の頃を知りません…今だから見える戦後」の言葉には、敗戦以前の歴史には目を向けないという意思がうかがえます。歴史に対するそうした姿勢は根本的に誤りです。戦争の歴史、とりわけアジアの人びとに対する加害の歴史に目を向けなければ裕仁の戦争責任は見えてきません。自ら(天皇制)の延命のために降伏を引き延ばし、東京などへの空襲、沖縄戦、原爆投下を招いておきながら、「戦争責任は言葉のアヤ」(75年10月31日の記者会見)と切り捨てた裕仁の非人間性は見えてきません。
 それとも、松任谷氏はそうした裕仁の戦争責任をあえて見ないために、「今だから見える戦後」に視野を限定しているのでしょうか。

 第2に、「昭和の平和と繁栄は、昭和天皇の言い尽くし難いご苦労とご尽力があってのこと」とはとんでもない発言です。「昭和」はけっして「平和」な時代ではありませんでした。松任谷氏は「メッセージ」の中で「朝鮮戦争」や「ベトナム戦争」にふれていますが、それは決して他国の戦争ではありません。日本も深く関与していました。その根源には日米安保条約がありますが、安保条約の調印(51年9月8日)に深く関与したのが裕仁でした。

 「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」のいずれにも米軍の出撃基地となったのが沖縄です。そして沖縄は今もアメリカの軍事植民地となっています。その沖縄を自らの延命(東京裁判での不起訴)のためにアメリカに引き渡したのも裕仁でした(47年9月19日「天皇メッセージ」)。
 松任谷氏の脳裏には、過去そして現在の沖縄の苦難の姿が一片でもあるのでしょうか。

 松任谷氏は「私は戦争を直接知りませんが、振り返ると戦争はいつもすぐ隣りにあったような気がします」と言っています。私も同世代で、その感覚は分かります。戦争(アジア・太平洋戦争)を直接知らない。だけど、親や祖父母の体験や話から、戦争はけっして遠いところにあったわけではない。
 そんな「時代」に生まれた私たちは、戦争を起こさない知恵を、子や孫の世代に引き継いでいく責任があります。

 だからこそ、歴史を学ぶこと、とりわけ日本の侵略戦争・植民地支配の加害の歴史を学ぶことが、なによりも必要なのではないでしょうか。

 裕仁賛美・天皇制賛美は、そうした私たちの責任に真っ向から反します。

< 「知っておかなくてはならない時代」 メッセージ全文
 シンガー・ソングライターの松任谷由実さんが寄せた賛同者メッセージ(全文。原文のまま)

 私は当時の天皇陛下(現 上皇陛下)の「御即位三十年奉祝感謝の集い」で美智子皇后の御歌を奉祝曲「御旅」として歌い、皇室との御縁を頂きました。

 昭和天皇は私の出身地東京八王子市の武蔵野陵にお眠りになっています。昔は多摩御陵といって、近くに住む祖父の家を訪ねると、何度か御陵の奥まで一緒に歩いたことを思い出します。大杉の列にいざなわれるように玉砂利を踏んでたどり着くその場所は、昭和天皇のご両親である大正天皇と貞明皇后の御陵。広々として森閑として、いつも時が止まっているような得も言われぬ安らぎを与えてくれました。

 その祖父が3歳の母を負(お)ぶって逃れた関東大震災のはなし。母がモガだった戦前の良き女学生時代。そして戦時下、父の出征中、まだ生まれたばかりの長男を栄養失調で亡くしたという悲しみの記憶。私が生まれる前の昭和の出来事です。

 私が子供の頃、もう町はとても賑やかでした。近くにあるいくつかの米軍基地から、休日になると外国人がたくさんやって来ました。日本で買い物をする最寄りの町だったからです。朝鮮戦争が始まっていました。そして10代になった私は、立川基地の近くに住む幼馴染の日系人家族の車で、毎週末のように基地の中まで連れて行ってもらいました。

 広く長い滑走路、映画館、フットボールコート、ボウリング場、プール、デパートのようなPXはどの売り場もカラフルな商品で溢れ、私はまだ日本で手に入らないロックのレコードに夢中になりました。豊かなアメリカ文化と同時に、カウンターカルチャーの影響も多分に受けたと思います。いつしかベトナム戦争の終焉(しゅうえん)とともにフェンスの向こうのアメリカは姿を消し、あるときから立派な公園になりました。

 私は戦争を直接知りませんが、振り返ると戦争はいつもすぐ隣りにあったような気がします。

 昭和天皇記念館のある、国営昭和記念公園の西立川口には、私の歌碑も置いていただいています。もう殆ど知るひとのいない、あの幻のような基地の風景と匂いが漂う歌です。バブル経済真っ盛りの平成元年冬、昭和天皇の大喪の礼をTVを通して見ていました。大喪の礼というものがあることを初めて知りました。おそらくこの先一生見ることのない歴史のひとこまがそこにありました。

 私にとってはとても懐かしい甲州街道の銀杏並木を武蔵野陵へと、氷雨に煙りながらゆっくり進む葬列のなんと美しいことか。この国にしか現れないしめやかな深い墨色の光景に、私は日本人に生まれて本当に良かったと思いました。

 私の生まれた頃以降の昭和の平和と繁栄は、昭和天皇の言い尽くし難いご苦労とご尽力があってのことと承知しております。私は激動の頃を知りません。それだけに、今だから見える戦後、今の世界情勢の中で知っておかなくてはならない時代です。

 私は今回の昭和天皇記念館を永続発展させる試みを心から応援いたします。>(5日付朝日新聞デジタル)

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