太田昌国のコラム : カタログ『AINU ART』から広がりゆく思い | |
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カタログ『AINU ART』から広がりゆく思い北海道に住む友人から『AINU ART ――モレウのうた』が送られてきた。札幌の北海道近代美術館でいま開かれている展覧会(2024年1月13日〜3月10日)のカタログだ。モレウというアイヌ語は、アイヌ文様の特徴というべき渦巻き文様のことだ。織りや刺繍ではもちろん、木彫の小刀・盆・儀礼具・置き物でも、彫金の指輪でも、木版画でも、アイヌの芸術家が制作するあらゆる品々の中に、渦巻き文様が現れる。この企画の責任者・五十嵐聡美(同美術館学芸部長)によれば、「アイヌ文様のモレウは、渦巻き文様といっても、二重三重に強く巻きつくものではない。中心点から出発して、ゆるやかに曲線を描くのがモレウの特徴。ただしその姿は一様ではない」。 *写真=藤戸康平《ぐるぐるモレウ》2022年、作家蔵 確かに、どの作品を見ても、そこに描かれているモレウは、中央部に収斂していく強引さが微塵もなく、中心点から出発しても、限りなく周縁へと広がり、伸びてゆく。ゆるやかな曲線も、見る目に心地よい。私は思わず、フランスの人類学者、ピエール・クラストル(1934〜77)が、南米パラグアイの森の奥深く住む先住民族集団グアラニーの社会を研究して、行き着いた考えを思い出した。グアラニーは、集団それ自体が権威を根底から拒否し、権力の絶対的否定を表明していること、さらにヨーロッパの知を貫く「同一性原理」に対する能動的な抵抗として「一なるものを拒否」する社会関係を構築していることを、ピエール・クラストルは見抜いた。アイヌ文様モレウを見ながら、「一なるもの」に収斂して行かない表現の極意に触れたような感じがした。 このカタログで紹介されているのは9人のアーティストの作品だ。私が知っているひともいるが、多くは知らない。北海道で仕事をしているひとが多いから、私には知る機会も少ない。でも、A4判のカタログの仕上がり、色の出方も美しく、見飽きない。巻末の2頁にわたって掲載されている「参考文献」を見ながら、感慨が湧く。80点近く挙げられている図書資料と展覧会図録の中には、戦前に刊行され戦後になって復刻版が出たものも数点あるが、ほとんどは1990年代以降のもの、半数以上が2000年代に入ってからのものである。これは、私の個人的な記憶と合致する。北海道に生まれながら、18歳以降はずっと関東圏に住む私は、そこでのさまざまな社会運動と関わりをもってきたが、「植民者の末裔」である自分たちと「先住民族」という視点で、何らかの具体的な取り組みを始めたのは1991年前後のことだった。日ごろから民族間の関係性の在り方に関心を抱いている仲間が集まって、「アイヌ民族に関する人権啓発写真パネル展」を東京で開催したのである。地味な催し物であったには違いないが、いま思い出しても、大きな反響があった。来場者は予想を遥かに越え、円形に並んだシンポジウムも熱心な聴衆に取り囲まれて、議論も活発だった。 翌年は1992年――コロンブスの大航海(1492年)から500年目の年に当たった。従来の歴史観からすれば「コロンブスがアメリカを発見」したこの年に始まる出来事が、今日まで続く、ヨーロッパによる異世界の征服と植民地化の起源となった、と私たちは考えた。そこで、それ以降のヨーロッパ近代を問い直すために「500年後のコロンブス裁判」を開廷した。海外に植民地を獲得することで繁栄の道に就くことができたヨーロッパを再審に付した、と言える。アジア規模で言えば、アジア唯一の植民地帝国になった日本を。 もちろん、アイヌの人びとも参加して、先住民族の立場からの発言を行なった。この年には、世界各地で同時多発的に同じ趣旨での討論会・集会・デモ行進が行われたことを後で知った。民族・植民地問題を軸に据えて、世界史・世界像を見直す契機となったという意味で、今から振り返ってみてもとても重要な年――それが1992年だった。 これもきっかけとなったか、関東圏に住むアイヌの女性たちから、自由に集うことができる場所がほしい、という要望が私たち=和人に寄せられた。一緒に考え、討議し、アイヌの人びとが働く場と寄り合いの場を兼ね添えたものとしてアイヌ料理店をつくることにした。金はない。カンパを募ることにした。半年とかからず目標額は集まった。1994年5月、東京・西早稲田に「アイヌ料理店 レラ・チセ」(風の家、の意)は誕生した。30年前のことである。ここが果たし得た役割をここで書く余裕はないから、関心をお持ちの方は、レラの会=編『レラ・チセへの道――こうして東京にアイヌ料理店ができた』(現代企画室、1997年)をお読みいただきたい。この頃から、ここを拠点にアイヌ語を勉強したり、うた・踊り・民族楽器演奏などに取り組んだりする若い人びとの動きが活発化した。自分たちの場所を持つということが(社会の多数派を構成しているわけではない民族の場合にはとりわけ)、大事な役割を果たすことを真底学んだ。 「レラ・チセ」はその後いくつかの変遷を経て、10数年で閉店を余儀なくされた。それは悔しい、なんとか継承したいと思うひとが現れた。レラ・チセ時代にはフロアで働いていたひとだ。彼女は新大久保に、北海道・アイヌ料理店「ハルコロ」(お腹いっぱい、の意)を開いたが、今年半ばには開店13周年を迎える。だから、この30年間、一時的な途絶えはあったが、東京にはアイヌ料理店がほぼ存在してきた。アイヌ民族の音楽、工芸、芸能、料理、つまりはアイヌ文化を広く表現しようとする動きが近年ここまで盛んになり、そこから当然にも、アイヌが辿ってきた歴史、アイヌと和人の関係史へと関心の高まりが見えるのは、発信する場ができて、発信者がいるからだ。 政治・社会の大状況を見れば、希望のかけらも見えない時代が続いている。だが、個別のテーマで振り返ると、こんなにも状況が「よい方向に」変わったと実感できることが、私たちがそれぞれ関わっている事柄の中にはあるのではないか。『AINU ART』のカタログは、そんな思いへと私を誘ってくれた。 ●ピエール・クラストルの著書には、以下のものがある。 Created by staff01. Last modified on 2024-02-11 15:01:50 Copyright: Default |