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LNJ Logo 太田昌国のコラム : 能登半島・環日本海をめぐる断章
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 ●第86回 2024年1月10日(毎月10日)

能登半島・環日本海をめぐる断章

 朝鮮の金正恩総書記が、1月5日、「日本国総理大臣 岸田文雄閣下」宛てに電報を送ってきた。「日本で不幸にも新年初めから地震により多くの人命被害と物質的な損失を被ったという知らせに接し、あなたと遺族、被害者に深い同情と見舞いの意を表する」。「(被災地住民が)一日も早く安定した生活を回復することを祈る」と表明しているという。1995年の阪神大震災で、当時の朝鮮の姜成山首相から村山富市首相宛てに見舞いのメッセージが送られたが、地震被害などについて朝鮮の最高指導者から日本の首相にメッセージが送られたケースは近年では把握していないと、官房長官は語っている。

 このニュースを聞いて、能登半島および環日本海をめぐって、いくつかのことが思い浮かぶ。そのことを3点にわたって書き留めておきたい。

1)「環日本海・東アジア諸国図」と題する地図がある(写真)。1994年、富山県が国土交通省国土地理院長の承認を得て刊行したもので、平面地図が慣行とする「上は北、下は南」とする発想を逆転させた地図で、ひと目見て、新鮮だ。私は富山県からこの地図を購入し、部屋にも貼り、講演時のテーマが重なる場合には、この地図を壁に掲示してきた。オーストラリアで発行された地図だったと思うが、やはり南北を平面地図上で逆転させると、オーストラリアが中央上部にくる。「われわれはついに世界を覆した」という文言が書いてあって、微苦笑を誘われる。

 さて、「日本海」という呼称は、この海に面する国々が複数あることから、将来においては関係各国の合意に基づいて、ヨリ適切で、中立的な呼称で呼ばれる日がくることを期待したいが、現状ではこの呼称を使う。「環日本海地図」は、この海が、海を隔てて異なる地域同士を、実は「海上の道」によって結びつけていたのだという網野善彦の論を、まさにその通りだと実感させるはたらきをすると思う。だが、史的現実は厳しい。日本では、明治維新後急がれた近代兵制の整備に伴い、新潟県新発田市には、大日本帝国陸軍歩兵第16連隊が編成された。そして、そこは、日清戦争・日露戦争・シベリア出兵・ノモンハン事件・日中戦争・第二次世界大戦の過程で、一貫して日本軍のために重要な軍事的役割を果たした。明治初期に建設された白壁兵舎は、現在は陸上自衛隊駐屯地内にあって史料館となっているが、そこには侵略戦争への反省は微塵もなく、大日本帝国軍の「赫々たる」戦果が今なお展示されていて、さながら靖国神社の遊就館を見学する時の苦々しさと恥ずかしさを覚えた。

2)今回の地震被災地、石川県能登半島に目をやると、思い起こさざるを得ないことがある。金正恩は1984年生まれと推定されているから、彼が生まれる以前、1977年9月の出来事である。今回大きな被害を受けている能登市の外れに宇出津(うしつ)という港がある。日本政府が朝鮮による拉致被害者と認定している久米裕はここから「工作船」に乗せられて姿を消した、とされている。その手引をした在日朝鮮人がこのとき同地で外国人登録証不携帯のために逮捕され、自供によって明かされたことである。「被害者」は姿を消し、どうしていなくなったのか、何が起こったのかも分からず、逮捕された人物は証拠不十分で起訴猶予となった。横田めぐみの「失踪」はその2ヶ月後の同年11月、蓮池薫・奥土祐木子の「失踪」は翌1978年7月である。宇出津で警察は「怪電波」をキャッチし、その内容を解析していたというから、事件の背後関係も理解したことだろう。もし、この事件の段階で、日本政府が朝鮮政府との交渉(もちろん、国交正常化を中心に据えた上で、それがないために両国間で起きている不正常な関係を是正するための重層的なもの)に就くための真剣な努力を開始していれば! と夢想することは許されよう。拉致の、不幸な被害者はこれ以上は生まれなかったかもしれず、朝鮮の若者たちも「人拐い」をするという重罪を犯さないでも済んだかもしれない。拉致それ自体は、当時の朝鮮国指導部が責任を有する国家犯罪だ。同時に、日本の敗戦、すなわち植民地・朝鮮の解放から32年後の1977年にあっても、加害国=日本が朝鮮への謝罪・賠償を経ての和解へと至っていなかったことが、いかに両国間の関係を歪めていたかということを痛感させられる。しかも、それからさらに47年を経た現在もなお、この「停滞」は続いているのだ。

 能登半島、とりわけ突端の奥能登の海岸を歩くと、複雑に入り組んだ入江があちらこちらにある。そこは、夜闇に乗じて動き回り、出入りするには格好の場所であるに違いない。かつて水軍の船が隠されていたことから、「船隠し」の異名をもつという。【宇出津の事件については、私は本コラムの第9回(2017年11月25日)ですでに触れているが、文脈が異なり、大事なことなので、重複を厭わずにここでも言及した。】

3)今回の地震・火事での、輪島の被害の大きさには、言葉もないが、輪島といえば、歴史家・網野善彦のこと(仕事)を思い出す。神奈川大学常民文化研究所に務めていた1980年代から、彼は奥能登と時国(ときくに)家の調査に携わった。際立った「豪農」と捉えられてきた時国家は、現在では、上(かみ)・下(しも)両家に分かれているが、先方の依頼で、両家の蔵に収められたままの古文書の調査を託された。それから10年間、網野らは江戸期以降の数万点に及ぶ文書整理を続けることになる。網野が、「百姓」は「農民」だとする常識を打ち破る契機になったのは、この研究を通してだった。時国家は、確かに土地を広大に持っていたが、同時に大きな船も2,3艘所有しており、江戸時代初期から松前まで行く廻船交易に従事している。塩浜を持ち大量の塩を生産している。炭焼き、鉛や銅の鉱山経営、果ては金融業まで行っている。奥能登に限らず、全国各地の事例を研究していくと、人口の80%は「百姓」=「農民」と考えられてきた江戸期にあっても、田畠で穀物生産に携わる厳密な意味での農業人口は全体の半分以下で、高度な商業と産業、流通・金融組織を発展させた経済社会だったのではないか、と推論するのである。 しかも、網野の本を読んでいると、次の文章に出会う。「時国家は同じころ(江戸初期のこと)、能登半島の内浦の宇出津という、静かでよい港に船入りの設備を持った屋敷を町から買い、預かっていた。また分立以前の時国家は、ほぼ300坪の巨大な家で、(輪島の北を流れる)町野川沿いにあり、この河口の大きな潟を港として見ていた。時国家は、このように、港と宇出津の両方を根拠地にして、大規模な廻船交易をやっていた」(網野著『続・日本の歴史をよみなおす』、筑摩書房、1996年、から要約)。遥か遠い時代、宇出津をこんなふうに利用する人びとがいたのだ。

 眼の前で起きている震災と火災の悲劇について、ここで言葉を書き連ねても虚しい。むしろ、能登が、広くは「環日本海」圏が歴史的・現在的に持っている地域としての重要性について考えるために、そしてそこが再び戦乱や侵略の場とならないための知恵を働かせるために、これを機に以上のことを振り返っておきたいと思った。(文中、敬称略)


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