野村農水相「汚染水」発言は「言い間違い」などではない!/黒鉄好 | |
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野村哲郎農水相が、福島第1原発から海洋放出された、東電用語で「ALPS処理水」なるものを「汚染水」と正しく(?)発言したことに対し、「袋叩き」ともいうべき異様な状況になっている。原発事故を挟んで6年間を福島県で生活し、事故を身をもって体験するとともに、長く「霞ヶ関ウォッチング」を続けてきた1人として、私はこの発言を単なる「言い間違い」だとは思わない。あくまで推測に過ぎないが、野村氏の大臣就任までの経歴を考えると、彼が所管する農林水産業界隈に存在する「ある種の本音」を代弁したものではないか、という気がするのだ。
野村哲郎氏は岸田政権の閣僚の中では最高齢。農水省ホームページ(https://www.maff.go.jp/j/org/who/min.html)によると、1943年11月20日生まれで、まもなく80歳になる。地元・鹿児島県農協中央会常務理事を務め、農政の現場に明るいことは過去の記者会見を見れば明らかである。農水相を志して政治家になったと「解説」する事情通もいる。 自身が常務理事を務めた鹿児島県農協中央会や、傘下の県内各農協との間で、今でも頻繁に意見交換をしていることは、過去の記者会見をみれば明らかである。そうした地元農協との懇談の中で「あの福島の汚染水のことですが、大臣、何とかできませんか」「いや、気持ちはわかるんだけれども、政府方針としては、基準値以下に薄めて安全にして流すということになってるもんですから、今は内閣の一員という私の立場もちょっと考えていただかないと」というような会話が交わされているであろうことは想像に難くない。そうした「文脈」の中から、内輪の話の中で何気なく飛び交っている汚染水という用語を、記者会見が公の場だということを失念して、つい使ってしまった、というあたりが真相ではないだろうか。この推測が正しければ、農業者の中に汚染水という用語を使って先行きを心配するムードがかなりあるということの証左だろう。そしてその懸念は無理からぬものである。「心配ない」という人は、原発事故以降の12年、政府・東電がこの事故に対して一度でも「本当の情報」を率先して公表したことがあるかどうか調べてほしい。 こんな話をすると、私が頼んでもいないのに「汚染水ではない、処理水だ。言葉は正しく使え」などと「日の丸印」の帽子をかぶって偉そうに説教してくる連中が湧いてきそうだが、そもそも海は漁業者にとっては神聖な「職場」である。安全か安全でないかの議論以前の問題として「これ、何が入っているかわからない液体ですけど、危険はありませんので、ちょっとここに捨てさせてもらっていいでしょうか」などとのたまう人物が、明日あなたの職場に土足で踏み込んできたらどう思うかという話でもある。普通の感覚を持っている人だったら「失礼千万」だと追い返すだろう。そうした無礼が、なぜ原子力ムラに限って堂々と許されているのかというのは、どんなバッシングに遭おうと確認しておかなければならない重要なことである。 9月1日に放送された文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」で、ジャーナリスト神保哲生さん(ビデオ・ニュース・ドットコム)が興味深い指摘をしている。「12年間、政府は福島第1原発事故に関する重要な決定から逃げ続け、『不作為』『不決定』のまま12年間を過ごした。そうしているうちにタンクは一杯になり、本当に海洋放出するしかなくなってしまった。今さら国民に向けて『12年間、何も考えていませんでした』とは説明できないので、『何らかの形で処理』したことにしたいのだろう」。 さらに神保さんは、過去のBSE(狂牛病)問題などを引き合いに、こう付け加える。「その政策の所管省庁の記者クラブが決めた用語が『正式用語』となり、それ以外の用語は使えなくなる。従来、マスメディアしかなかった時代にはそうして記者クラブを抑え込めば『正式用語』で報道することができる一方、(政府には政府の立場があり、メディアも政府と申し合わせの上で『官製用語』を使うという一種の『やらせ』を)一般市民も理解していた。だがSNS時代の今は違う。政府が発信した情報を『信じたい』人たちがいて、それと異なる情報を発信する人々に対する憎しみの感情が生まれ、政府寄りの一般市民が自主的にヒートアップしている。政府による情報統制以上に怖いことで、時計の針がもう1周、2周、進んでしまったと思う」。 この神保さんの言葉には、全面的にではないが、頷ける点がいくつもある。福島原発事故以降の政府が当事者能力、適切な政策決定を行う能力を失っていて、解決ができないまま漂流し続け、追い詰められたらその場しのぎの場当たり的決定が繰り返される。その政府の場当たり的決定によって人災的に被害が拡大される−−私がこの12年あまり福島を見てきた実感と一致する。政府がジタバタするたびに、本来なら生まれないですむはずの二次被害が生まれ、次々と拡大していく。その最大のものが今回の汚染水放出なのだという神保さんの指摘には非常に説得力がある。品のないたとえで申し訳ないが、自分の欲望の赴くままに飲み物を摂り続け、尿意を催してきたのに、誰にも相談できないまま、子どもがついに我慢できなくなって放尿してしまう−−。私にはこの放出が、国力を衰退させる日本の末路に見えるのである。 メディアは中国から日本への「嫌がらせ電話」ばかり集中報道しているが、これには経済不振などで中国政府に不満を持つ若年層が、SNSなどで「電凸」(電話で突撃の略で、自分の主張を伝えたい関係機関に電話を集中させることを意味するネット用語)を煽り、政府もそれを黙認しているという側面もある。これらの報道が事実なら、日中両国の市民が政府の頭を越えて非難の応酬を続けていることになる。メディア、政府が振り上げた拳を下ろす機会を失い、このまま取り返しのつかない事態を招く恐れもある。原発事故を福島県内で経験した「元一県民」としては、海に流すくらいなら、ヒートアップした日中両国の市民の頭に、冷たい汚染水でもぶっかけて冷やしてやりたいという気持ちになる。 「中国人へ 当店の食材は全て福島産です」−−こんな看板を都内の飲食店で見つけた日本在住と思われる中国人がみずから110番通報、出動した警察が説得に当たる中、出勤してきた店主に猛烈に抗議、看板を書き換えさせる動画が「X」(旧ツイッター)で拡散するという騒ぎも起きた。店主は「ジョークのつもりだった」「中国人だけを対象にしたものではない」ことが後にメディアの取材で判明したが、「それなら『お客様へ』と書けばよい」というこの中国人男性の主張が正当過ぎて、ジョークではすまされない。 一方でこの店主は汚染水放出日が決定した8月22日には「福島県で処理水放尿」と書いた看板を店頭に掲出もしている。道徳、倫理のかけらもない汚染水海洋放出を「放尿」と揶揄するセンスは悪くなく、一見するとふざけているようにしか思えない飲食店主のこのような看板にこそ、事態の本質が現れている。 言葉とは「現に存在する何か」を表現する必要から生まれてくる。言葉狩りによって汚染水という言葉を消し去ることに成功したからといって、汚染水そのものが消えてなくなるわけではない。汚染水に代わる新しい単語は必ず登場してくるであろう。 奇しくも9月1日は関東大震災からちょうど100年の節目の日だった。行政、市民がそれぞれの立場から関東大震災100年を振り返る行事を開いた。ちょうど100年前の震災では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言飛語が拡散され、自警団によって多くの朝鮮人が虐殺されるという許すことも忘れることもできない事件も起きた。その100年後の今日、流言飛語を流した日本人自身が太平洋にみずから毒をまく日が来るとは何という皮肉だろうか。しかも100年前と異なり、今回は流言飛語ではなく事実として行われている。「過去に目を閉ざすものは未来にも盲目となる」(ワイツゼッカー・元西独大統領)という言葉があるが、この事態を招いたのも、結局は日本人が100年前の悲劇から学ばなかったからではないか。「汚染水」という言葉に対するバッシングだけが一人歩きする日本国内の現状を見ると、改めて私たち日本人全員が歴史の法廷で裁かれているのだと思う。 (文責:黒鉄好) Created by zad25714. Last modified on 2023-09-03 13:45:52 Copyright: Default |