「汚染水を海に流すな!」3・11郡山集会に参加して | |
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「汚染水を海に流すな!」3・11郡山集会に参加して堀切さとみ(『原発の町を追われて』制作者) 原発事故後、3月11日を私は初めて福島で過ごした。郡山市で開催された『原発いらない・ふくしま集会』に参加するためだった。 新地町の漁師、小野春雄さんのビデオメッセージが強烈だった。小野さんは七十一歳。福島第一原発から北に50キロの新地町に生まれ、15歳の時から漁師ひとすじだ。「待ったなしにタンクに貯まったトリチウムを流すっていうけど、絶対おかしい。安全っていうならカネかけてトンネル作る必要なんてないでしょって。すぐそこで流せばいい。本当に政治家って何考えてんだかわかんない」。自分の船をバックに、全身を震わせ、まくしたてるように話した。 スクリーンに映し出された小野さん 「震災当時はどんな魚も100円でしか売れなかった。12年たってようやく値が落ち着いてきた。なのにトリチウム流したら一からやり直し。誰も買いませんよ。政治家の人たち、ここで暮らしてください。孫連れて、毎日魚食べさせてください」「福島をバカにしてんのか。福島県って我慢強いんだぞ。体力ねえぞ、もう。12年ガマンしたんだから」「福島の漁業者、農民、県民、何も悪いことしてないんだよ。守るべきは漁業者、農業者、県民。なのになぜ企業を優先するんだ」「売れなかったら魚を買い上げるっていうけど、おいしい魚を消費者に食べさせるっていう、われわれのプライドはどうなるの」「海は人間のものではない。みんなのものです。汚染水、海に流しちゃダメ。海は大きな生き物だから。神聖なものだから。それを政治家はわかってない」 漁師の放つ言葉は、何と筋が通っていて、何と眩いことか。皆、圧倒されていた。ここに岸田首相がいればと、誰もがそう思っただろう。 続いて原発被災者のパネルディスカッションが行われた。双葉町の鵜沼久江さん、田中信一さん、そして浪江町の吉沢正巳さんが登壇し、私が司会をつとめた。 パネルディスカッション 集会が行われた郡山市は、放射線量の高いスポットがあるにもかかわらず、一度も国から避難指示が出されたことはない。自分で除染をし、自力で避難するしかなかった。避難したくても出来なかった人は沢山いる。そうした地域の人達にとって、原発が立地し強制避難区域になった地域の人達の話が、どう受け止められるか、内心不安だった。 双葉町は町民の二割が、埼玉県の旧騎西高校に避難した。「小さい孫が四人いたから、少しでも遠くへ行けたらという思いだった」と田中さん。そんな彼も、数か月後には福島県内にもどり、今は郡山市に終の棲家を構えている。「福島が恋しくて。少しでも故郷の近くにいたかったんだ」と語る田中さんに、頷く人は多かった。 牛飼いだった鵜沼さんは、餌をやるために家に帰ろうとしたが、町は立ち入り禁止になってしまった。避難先の埼玉で牛を飼うことはかなわず、かわりに野菜作りを始めた。埼玉に避難した子どもたちは、学校の先生に「放射能を持ってきたんだから土下座しろ」と言われた。これが原発避難の現実だと訴えた。 今も200頭の被ばく牛を飼う吉沢さんは「長い反対運動によって原発を作らせなかった浪江町が、帰れない町になった。今、避難解除になったといっても帰還したのは7%。これで汚染水を流されたら、浪江の漁業なんて成り立たないだろう」と力をこめる。 ばらまかれるのは汚染水だけではない。汚染土壌もだ。鵜沼さんと田中さんは中間貯蔵施設に土地を提供したが、そこに集められた土が全国で再生利用されようとしている。このことについて田中さんは「原発のおかげで我々は確かに恩恵を受けた。でも、東電の電気を使ってたのは関東の人達。それを棚にあげて、ちょっと土を持ってこられただけで反対するって何なのか。他人事じゃなく自分の事として考えて欲しい」。鵜沼さんは「私は汚染土を拡散しないでほしいと思う。受け入れたら、いじめや分断がまた起きる」と反論した。 鵜沼さんと田中さんは、同じ町の同じ集落出身だが、意見が違う二人が堂々と話をしているのがよかった。三人の話を聞きながら、ずっと泣いている人もいた。避難した人、福島にとどまる人、誰にとっても復興道半ばだ。 歌や詩の朗読で思いを伝える それから二本松市の関久雄さんによる詩の朗読と歌があり、子ども脱被ばく裁判原告団の今野寿美雄さん、飯舘村の伊藤延由さんらがアピール。福島市在住の佐藤幸子さんが、中島みゆきの『時代』の歌詞を朗読し、原発のない世界を願って、全員で黙とうをした。 三春町の写真家・飛田晋秀さんのパネル展示も 集会の後は「海はみんなのものだ!」「漁業者の声をきけ!」と声を限りに叫びながらデモ行進。何度も東京に足を運び、福島の思いを届けてきた黒田節子さんのコールが、郡山の街中に響き渡った。思えば福島県内をデモするのも、私にとって初めての経験だった。 郡山駅近くのライブハウスで、福島で暮らす人達の話を聞いた。自分の気持ちを言葉にすれば誤解され、揶揄され、否定されて、家族もバラバラにされた。避難するも地獄、残るも地獄だったのだ。自分の人生を取り戻すことが、どれだけ大変だったか。 Created by staff01. Last modified on 2023-03-16 20:46:32 Copyright: Default |