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レイバーネット合宿―秩父事件・歴史巡検―参加記

森 健一(もと高校日本史教員)

〈秩父困民党とはコミューンの思想〉

 1884(明治17)年11月に秩父地方で武装蜂起した1万余の困民党が率いる軍勢は、西洋式のスピンドル銃をもつ薩長藩閥政府(内務卿・山県有朋)の憲兵隊の追撃に敗れたが、「革命本部」と名乗った困民党の思想は現代につながり、私たちの中に生きている。 神山征二郎監督『草の乱』(2004年)をDVDで事前学習した。ながく日本史を授業してきたが、困民とはコミューンのことだとレイバーネット合宿でやっと気付かされた。

〈江戸時代から続く一揆の作法〉

 高利貸しを襲撃、借金証文を破り、隣家には延焼させない、略奪行為をしない。私的な怨恨を晴らすことや、酒宴や女色を犯す者は斬(軍律5か条)。
 幕末・開港期から山間の農家で紡がれる生糸が横浜シルクとして欧米諸国に輸出されていたが、普仏戦争に敗れたフランスでの奢侈品である生糸価格が下落した。加えて松方正義・大蔵卿による緊縮財政によりデフレとなった。松方デフレは、日本銀行を発足させて貨幣制度を整えるべく、市中の不換紙幣の回収が急がれたことが主因である。これは1990年代後期から現在までの緊縮財政による「失われた30年」問題とも通じるものだ。
 結果、大宮郷(現・秩父市中心部)の高利貸しから、生糸を手掛ける農民は、明治政府への納税のため、土地証文と引き換えに翌年払いで借りたが、生糸の暴落で返済不能となり、元金分をはるかに超えた高利に苦しんだ。
 井上伝蔵らは、債務の繰り延べ、高利の軽減を申し入れたが、埼玉県大宮郡役所も新政府となって民間の金銭訴訟には立ち会わぬと全く聞き入れない。ついに侠客の田代栄助(林隆三が演じた)とも語らい、江戸時代の一揆の作法通りに高利貸しを襲撃する手配を整える。

〈吉田椋神社の龍勢――ロケット花火〉

 私たちは昼、井上伝蔵商店を模した龍勢会館を後にして吉田郷の椋神社を見学した。江戸時代以来、難しい黒色火薬の調製から打ち上げの当日まで、秩父地方の集落ごとに技と団結力を競いあった。これは困民党の蜂起の素地となった。この伝統技法は中国・雲南省やインドシナ半島に及ぶとのこと。山岳の狩猟民の生活様式が垣間見える。東大・航空工学科も協賛で参加するが伝統技法には及ばない時もあったと地元ボランティアの方から聞いた。

〈一揆の統領たる者――北海道に渡った井上伝蔵〉

 司令官に従わない者は斬(軍律)とある。秩父吉田の椋神社に集まった諸隊を前に「困民党総理・田代栄助、参謀長・菊池貫平・・」と読み上げられ、軍律と共に盟約しあった。会計長の井上伝蔵(緒方直人が演じる)は事件後、2年の間、地元の同志に匿われ、変名して北海道・野付牛村(現・北見市)に渡った。そこでも高浜商店として事業に成功している。逃亡先でも才覚と人望で慕われたに違いない。北見時代の妻・高浜ミキを田中好子が演じている。俳句を好んで詠んだ伝蔵は、郷里・秩父の甥と俳誌を通じて連絡を取っていた(乱鬼龍氏の説)。伝蔵は息を引き取る際、家族に写真を撮らせ、秩父の親族に引き合わせた。

〈自由党の解散――準備そろわぬまま秩父困民党のみが蜂起〉

 板垣退助らは、秩父困民党の一揆の企てを聞き、自由党解散を決める。政商である三井から洋行の費用を得、フランスに渡ってしまった。窮した困民党幹部は、信州・佐久地方や群馬・高崎、南多摩・町田の自由党員に使者を派して、信・武・上州の三国にまたがる広域連合で東京の藩閥政府に勝つとの軍略を建てた。しかし、革命本部の幹部の命に従わず、気負いから一部は先に高利貸しを襲撃してしまう。結果、秩父困民党だけの武装蜂起となった。
 一方、板垣の洋行で残された東京の大井憲太郎らは、秩父事件の追及から逃れた落合寅市(乙組副隊長)と語らい、翌1885年、朝鮮に渡って爆弾テロ事件を起こし、返す刀で日本国内の自由民権運動の再起を企てるが、事前に警察の密偵により下関で捕縛された(落合らは収監されたが、帝国議会開設の恩赦で出獄、のちにキリスト教・救世軍に入信した)。
 当時、自由党(今でいえば野党第一党の立憲民主党か)と秩父地方の困民党とが意志疎通出来ず、対外問題こと朝鮮問題をめぐって両極化した様は、米中対立、「台湾問題」で分岐する現代の政治状況とも似てないだろうか。歴史的に見ても対外問題にきわめて弱いのが、遠くは奈良、平安時代から続く、四方を海で護られた日本の為政者の特徴である。
 己なきまま大国には追従、小国へは傲慢という、福沢諭吉の「脱亜(入欧)論」(1885年6月)が、1884年の秩父事件の敗北後の日本国内の思想状況をつよく表している。一国としての理念、矜持が今に至るも高まらない。

まとめ

 1890(明治23)年、自由党や立憲改進党の流れをくむ民党が優勢な帝国議会が開設される直前、10月31日に発布された教育勅語がながく国民思想として内面を支配してきた。2022年9月27日の安倍元首相の「国葬儀」も日本国憲法が禁じる、内面、良心の自由への支配に他ならない。山本五十六を除けば、薩長出身者、公家などが「国葬儀」となった。
 薩長藩閥からなる為政者といえども天の理たる「法の支配」に服せよとの反政府、民の側からの叫びは、土佐・高知の山間に始まる自由民権運動や足尾鉱毒事件の田中正造、明治期の社会主義者を通じて、無産者の政治思想として現代の私たちが引き継いでいる。 それは、江戸時代からあった「一揆」の習わしの復権である。額に汗する労をせずしてカネが金を生むといった類の蓄財には、富裕税、財産税として「公」に吐き出せるべきである。薩長藩閥を継いだ岸信介や安倍晋三らにより、民衆の歴史が記憶から消されかけているが、危機の時代であるからこそ明治期の秩父事件の検証が現代的意義を持つのだ。
 この歴史巡検の企画をレイバーネット合宿とともに準備されたスタッフに感謝したい。


Created by staff01. Last modified on 2022-08-23 17:28:37 Copyright: Default

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