*レイバーネットMLから
北穂さゆりです。
九州に旅行に出かけ、水俣病患者の支援センター「相思社」を訪問、若いスタッフガイド
にお願いして、市内を案内してもらいました。以下はその紀行文です。
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水俣病患者の支援センター「相思社」の青年ガイドに、4時間以上の時間をかけて、熊本
県水俣市の案内と、水俣病についてのレクチャーを受けた。彼は水俣病の運動の研究のた
め相思社に来て、大学院を出てから、ここに就職したそうだ。彼は電話でもしっかりした
受け答えで、まさかこんなに若い方とは思わず、お会いしてびっくりした。
「相思社」は施設こそ質素だが、充実した資料展示に、宿泊施設まであった。行ってみて
わかったが、水俣病についてしっかり知ろうと思えば一日では足りないから、泊まりがけ
で取り組めるのはありがたい。歴史的な社会問題の中でも水俣病は、研究や本、映画など
の記録作品が多いのは、こういった調査支援体制によるものだと実感した。
抗議行動のゼッケンたなびく館内資料は写真撮影可能。当時の漁師が使用していた網を見
ながら「現在の漁業網はプラスティック製。チッソはそのプラの原料を作っており、今で
もマイクロプラスティック問題の原因をつくっている」と説明を受けた。これは聞かなけ
ればわからないことだ。
猫小屋と呼ばれる展示では、チッソ側が800〜1000匹の猫を使い、水俣病の原因は水銀で
はないと証明しようとしたと聞いた。哀れなねこたち。こんな美しく食べ物の豊富な海に
生まれて、しあわせな時もあったのだろうか。苦しくつらい死に方をさせられたけど。
見学行程は、チッソ社工場から流された廃液の「百間排水口」を見るために、干潮時刻ま
で細かく計算されていた。漁師は排水口付近に船を停めると、船底に着いた貝が自然に落
ちてくるのを拾ったそうだ。排水口からはメチル水銀に限らず、高濃度の毒劇物が流れ出
ており、貝などは一瞬で死んでしまったのだが、漁師たちはそれを食べてしまっていた。
チッソ正門では、チッソ社内労働組合の分裂の話を聞いた。第二組合を会社が作ったこと
で、従業員が二分されたらしい。この従業員が地域公害患者でもあるという構造が、会社
側患者側とスッキリ分かれられない、複雑な人間関係を作ったのだ。
最初の患者が発見された坪谷は、エメラルド色の美しい海水の入江だった。岸壁の上には
むかし屠畜場があり、おそらく血液などをその海に流していたと思う。そのため当初は、
その血液で病気になったと噂されたそうだ。
この近くは家の庭に普通に豚が飼われており、豚たちにはイワシの頭を食べさせていた。
もともと水銀は頭部に溜まりやすい性質のため、それを食べた豚が泡を吹いて死ぬことが
よくあったそうた。豚と人間は体の構造が似ていると言われるが、その時に死因を調査す
れば、水俣病気因果関係の証拠になったのではないかと思う。
昔は差別されていたという天草から来た人たちの住居、水俣最大の漁村への、細くて急な
道を登りながら、この集落での患者の孤独感、疎外感を想像した。
家同士は意外と密接していて、隣家の噂話も聞こえてきそうだ。水銀中毒で過敏になった
五感に、心無い言葉がどれほど突き刺さっただろう。しかし噂する方も、悪気ある人ばか
りではなく、患者は「自分とは違う特別な存在」だと心の中で切り分けないと、水俣市の
地に生きて、不安でやりきれなかっただろう。
4時間の見学をとおして、水俣の地理的な特徴、病気について、そして何より、狭い人間
関係の複雑なもつれが、どれほど解決を難しくしているかを知った。
見学の終わりに、青年ガイドがどうしても見せたいものがあると言う。漁師村の山間部に
広がるミカン畑だ。
「すごいきれいだから、絶対見てほしいんです」
水俣の魚を諦めた漁師たちは、ミカン畑をはじめ、これが案外と好評なのだとか。
「オレンジ色がたくさん!きれいでしょう!」
彼はしきりに言うし、カメラ好きそうなわたしに写真を撮れというが、ミカン畑は遠方す
ぎてよく見えず、写真に写るわけもなかった。
しかしわたしは言われるまま、何回も何回もシャッターを切る。
資料館には「恨」と書かれたのぼりがあった。そのエネルギーはチッソ本社に向かうばか
りではなく、長く乱反射して今やっと、あの頂きにあるという…ミカン畑に昇華するのか。
そしていつかは消えていくのだろうか。
水俣の海ではなく、山に灯る人々の希望。
それはミカン色に灯り、
今は、見える人にだけ見えている。
<ガイドによる見学地>
・大崎鼻…水俣の桜並木が広がる道路の入り口にある岬。不知火海の島々が一望できる。
その島々すべてに水俣病患者がいる。また、水俣川の河口には百間排水口から排水口を変
更した八幡残渣プールの跡地を見ることができる。
・チッソ正門…水俣駅を降りて、すぐ正面にチッソ水俣工場が飛び込んでくる。1959年、
困窮の只中にあった漁民たちはチッソに排水を止めさせるべくデモを行い、血気盛んな漁
民たちはチッソに突入し乱入事件が起きる。1962年にはチッソの労働組合が2つに分裂し
、水俣病よりも市民の仲を裂き水俣の町、家族を二分したという安賃闘争が起きた。1969
年には水俣病患者たちが政府の公害認定を受けて、訴訟へと立ち上がる。告発する会が支
援する患者たち、支援者たちは工場正門前に座り込み、チッソへ謝罪と補償を求め続けた。
・百間排水口…1932年アセトアルデヒドの製造を開始したチッソは、この百間排水口から
有機水銀を1968年の公害認定まで垂れ流し続けた。この地まで続いていた水俣湾は、現在
埋めたてられている。
・坪谷…1956年5月1日水俣病患者が公式確認された場所。坪谷は目の前に海が広がり、住
民は貝や魚を捕り生活していた。患者たちは突然歩けなくなり、言葉も不明瞭となる。患
者たちは魚を食べる生活のなかで知らずしらずのうちに水俣病に侵されたことを「おれら
は米びつに毒ば流された」と語る。
・湯堂…袋湾は、内海である水俣湾の更に内にあり、嵐が近づくと近くの船舶が嵐から逃
れる避難港として使われるほど波が穏やかな湾である。湯堂は袋湾に面し、天草から来た
人々が住み着いた漁村であり、茂道と同じく初期の劇症型の患者が多発した村である。
・茂道…茂道は熊本の南端、鹿児島との県境に位置している水俣最大の漁村。茂道を最初
に開いたのは、江戸末期に水俣から国境の番人として派遣された武士だった。茂道の人々
はその江戸時代からの家系と天草から豊かな漁場を目当てに移住してきた家系がある。現
在の茂道ではみかん畑が広がっている。杉本家の先祖は茂道を見下ろしている矢筈山の麓
で山番をしていたが、明治の初めに茂道に移り、網元となった。
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staff01.
Last modified on 2022-01-29 21:04:37
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