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太田昌国のコラム : たかが「閣議決定」と、「国民の決意と責任」
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 ●第74回 2022年12月21日(毎月10日)
  *今月は、筆者の都合により21日の発行になったことをお断りいたします

 たかが「閣議決定」と、「国民の決意と責任」


*安保「閣議決定」に抗議する人たち(2022.12.16)

 このコラムを書き始めたのは、2017年7月のことだった。第二次安倍政権が発足(2012年12月26日)してから4年半を過ぎた頃である。この政権は、私の意に反することには、2020年9月までさらに3年有余続くことになったから、このコラムでも彼の政治路線と言動を幾度となく批判した。

 安倍晋三なる人物が目立ち始めたのは、私の記憶では、〈世襲の〉議員として当選してわずか4年後の1997年、自民党内で結成された「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が編集して『歴史教科書への疑問』(展転社)を発行した頃である。同会の事務局長を務めたのが安倍で、故・中川昭一、下村博文らがその仲間であった。

 1997年度の中学歴史教科書(全7社)には、日本軍「慰安婦」の管理と慰安所の設置などに旧日本軍が関与し、強制的なものであったと認定し謝罪した河野官房長官談話(1993年)に基づいて、「慰安婦」に関する記述が掲載された。このことに「危機感」をおぼえた自民党「若手議員」たちが動き始めたのである。5年後の2012年度版の歴史教科書では、「慰安婦」に関して記述するものは1社にまで減った。極右政治家が動き、右翼メディアと草の根右翼がそれに加勢すると、こんな事態が簡単に生まれるような状況に、この社会はすでにしてなっていたのである。

 日本軍による南京虐殺事件の研究者・笠原十九司は、別な観点から、歴史教科書に対する安倍らの介入の過程に触れている(「南京事件から85年」、『しんぶん赤旗』2022年12月7日付)。家永三郎執筆の高校教科書『新日本史』に対する文部省(当時)の検定に異議を唱えた家永教科書裁判では、1997年8月の最高裁判決で家永側の勝訴が確定した。東京書籍が1984年版に記載していた、日本軍が殺害した中国人の数を「婦女子、子どもも含む一般市民だけで7〜8万人、武器を捨てた兵士を含めると10万人以上とも言われる」とする根拠が、司法判断でも認定されたのだと言える。

 自民党内においてすら極右少数派だと自認していた安倍は、その後「拉致問題」一色となった日本の異様な雰囲気の中で、対北朝鮮最強硬派の政治家となって立ち現われた。党員の支持を受けて、たちまち党総裁となった。そして、2006年9月に発足した第一次安倍政権が最初に手掛けたのは、教育基本法改悪だった。教科書議運は「南京問題小委員会」を発足させ、「南京攻略戦が通常の戦場以上でも以下でもない」と判断して虐殺の事実を否定し、これを安倍政権の「政府見解」とした。第二次安倍政権以降の歴史教科書は、虐殺の犠牲者数に触れず、政府見解をなぞる記述に変わった。笠原はこれを指して「大虐殺否定に執念」を燃やした「安倍政権によって失われた日本の10年」と呼んでいる。

 折りから現政権が閣議決定した「国家安全保障戦略(NSS)」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」の3文書を読むと、これが、去る7月に狙撃死した安倍晋三が遺した路線を忠実に引き継いだものであることがわかる。テレビ・新聞・ラジオでは、政府発表そのままに「敵基地をたたく」という表現が蔓延している。私は2年前の2020年8月、このコラムで「戦時体制下の軍事用語」をめぐる文章を書いた。→太田昌国のコラム : 戦時体制下の軍事用語と私たち

 安倍政権が7年半も続いていたこの段階では、すでに「敵基地攻撃能力」という言葉がメディア上に飛び交っていた。それでもこの表現への批判と警戒はまだしも強く、政府・与党は「自衛反撃能力」とか「積極的自衛能力」とかの代替表現も模索した挙げ句、「国民を守るための抑止力向上に関する」提言に落ち着いた。

 それから2年有余、「敵基地をたたく」という言葉を事もなげに政治家たちは口にし、それをそのまま引き写した表現がメディア上に溢れている。ウクライナの状況ひとつを思い起こしてみれば、ミサイルや砲弾で「たたかれたら」、どんな光景がそこにあるかを、私たちは日々学んでいるのだと言える。それでいてこの言葉を使うとは、感受性の、恐るべき頽落ではないのか。

 この政府方針を示した文書には「国家としての力の発揮は国民の決意から始まる」という、意味不明の文言がある。首相は、批判の大きさに慌てて取り消したとはいえ、防衛費拡大のための「増税は、今を生きる国民の責任」とまで言い放った。「議会制民主主義」の最低限の基準すら守る意志を持たない政権が、たかが「閣議決定」で強行しようとしている事柄について、「国民の決意」や「国民の責任」という言葉を使って、責任を「国民」に擦り付けている。押し付けられた「国民」の枠組みを取り払って、主権者としてどう抵抗するか――それを考え抜いて、主権者としての「責任」を全うしたい。


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