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読書会『忘却の野に春を想う』報告/パワフルな二人から飛び出す石の飛礫
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●レイバーブッククラブ読書会『忘却の野に春を想う』(6/4)報告

パワフルな二人から飛び出す石の飛礫

内藤洋子

w今回の本は、『忘却の野に春を想う』(白水社、2022年)で、先ずこの魅力的なタイトルに惹きつけられた。著者は、姜信子(きょう・のぶこ)と山内明美(やまうち・あけみ)。2018年12月から2年間に渡る二人の往復書簡である。女性二人の往復書簡と聞くと、日々の暮らしのなかでの思いを随筆風に綴ったものかと思われる向きもあろうが、これがどうしてどうして、パワフルな二人から飛び出す石の飛礫が、明治以来150年の日本の近代の歩みに大きな穴を穿とうとする野心的な告発の書なのである。

「奪われた野にも春は来るのだろうか」と題する姜の第一信から始まる。姜は、コメ難民として植民地朝鮮から日本に渡ってきた祖父母をもつ在日3世であり、自らを「近代日本最初の難民の一族の子であり、奪われたままの存在なのだ」と位置づける。一方の山内は、『こども東北学』などの著書もある歴史社会学の研究者で、宮城教育大学で教鞭をとる。南三陸のコメ農家に生まれ育ち、東北の農村のフィールドワークを続けるなかで、3.11.も体験し、「東北は内なる植民地なのだ」との思いを深める。そうか、二人は、「コメ」と「植民地」をめぐる問題意識で深く共鳴し、共に闘う同志なのだ、と納得する。土に根ざし、命の源を育んできた民の土地を、近代化の大波が襲い、収奪し、自然環境もろとも破壊してゆく。*写真右=「週刊読書人」に座談会が掲載されている

二人の視点は当然ながら東北に留まらず、アイヌ民族の暮らした土地へ、足尾鉱毒事件、そして水俣、辺野古へと連なり、150年の時空を行き交う。「近代社会は、勝者と敗者、加害者と被害者を生む、しかし両者は二項対立でなく、敗者も、勝者を真ん中に置いた仕組みの中に再配置されて、抗いようもなく近代社会の無力な共犯者となる。」と姜は語る。この痛切な認識が、姜に、「国家とか民族とか、強力な求心力で人を括っていくすべての共同体から逃れること。(…)周縁から無数の想像力で無数の穴(=中心)を穿ち、中心という概念を無化していく闘い。(…)近代を越えてゆく私なりの<もうひとつの世>を呼び出したい」と語らせる。

一方、山内は「近代を包み込んでも余りある世界」を考えたいという。その道程で二人は、縁(よすが)としてさまざまな人物に言及し、その世界観を探る。宮沢賢治、安藤昌益、アナキストの金子文子などなど。そして何よりも誰よりも、その存在に導かれるように繰り返し登場するのは、石牟礼道子である。「近代の業と罰」を一身に引き受けてしまったような水俣病患者の悲惨を、そして言葉を失った彼らの魂の内なる声を、石牟礼は『苦海浄土』に描き切った、と私は思う。「水俣病事件では、日本資本主義がさらなる苛酷度をもって繁栄の名のもとに食い尽くすものは、もはや直接個人のいのちそのものであることを、わたしたちは知る。」と石牟礼は語った。(『苦海浄土』あとがき)

この2年間に私たちは、コロナパンデミックの襲来があり、その最中に、復興五輪と銘打った東京オリンピックも強行されるというトンチンカンも味わされた。この日本社会はどこまで頽廃と自滅の道を歩み続けるのだろうか。福島の原発事故から10年目の春が巡って来た。山内は、福島の原発事故を「もう一つの敗戦」と呼んだ。奪われた福島の野に春は来るのだろうかという問いは、忘却にゆだねることなく、未来への警告としても反芻し続けねばならないだろう。   ブッククラブでは、バックグラウンドもさまざまな人たちが集い、一冊の本を肴に自由闊達な意見交換ができるのが楽しい。今回は土曜の午後という他のイベントも多いなかで参加者は6名と少なめだったが、次回はまたどんな本が俎上に載るか、多くの参加者との出会いも楽しみである。

「レイバーブッククラブ」HP


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