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〔週刊 本の発見〕『沖縄戦の子どもたち』
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毎木曜掲載・第222回(2021/9/16)

これはひとごとなのか

『沖縄戦の子どもたち』(川満 彰、吉川弘文館、2021年6月刊、1700円)評者:志真秀弘

 著者は、「なぜ、守らなければならない子どもたちが兵士となって戦場に立ち、あるいは『鉄の暴風』禍に放り出されねばならなかったのか」と問いかける。その問いには、切迫した感情がうかがえる。沖縄の緊迫した現状があり、しかもそれが伝わっていない状況が著者の眼の前にあるからだ。日本政府は辺野古埋め立てのために沖縄南部の激戦地の土砂を使おうとしている。沖縄の戦没者遺族はじめ各所で抗議が行われている。日本政府の傲慢な政策はこれまで沖縄に何をもたらしてきたか。抗議は当然のことだ。子どもたちを取り巻く社会はこれでいいのか。著者の気持ちの底には現状況への怒りがある。子どもたちを主人公にして沖縄戦を捉えかえす本書の視点はそこからきている。

 1945年3月、米軍は慶良間諸島に上陸した。座間味島では234人、慶留間島では53人、渡嘉敷島では329人がこのとき「集団自決」で犠牲になった。著者は調査のうえ座間味島234人のうち145人は子ども(18歳以下)だったとしている。大宜味村渡野喜屋集落では米軍上陸後の地上戦の中で、米軍に捕らえられ食料を支給された住民を見つけた日本軍が、食料をすべて奪い、「女子どもを浜に連れて行き、一カ所に集合させ『一、二、三』と言って後ろから手榴弾を投げ、皆殺しにしようとした。その時母のそばにいた人は内臓が飛び出したまま、母に寄り添いながら死んでいった」(当時7歳の兄と4歳の妹の証言『名護市史』)。恩納村安富祖の山中に避難していた当時15歳の女性は、子供を泣かすとここにいるみんな死ぬことになると言われた母親が「自分の子供をぶって、石にあてて殺した」(『とよむあうす』恩納村安富祖編集委員会編)場面を見る。沖縄各地の市町村史には実に丹念にこうした証言が収録されている。*写真=沖縄戦のこども

 本書で沖縄戦は「本土決戦の捨て石」だったと言われている。
 米軍が慶良間諸島に上陸する半年前、44年10月には那覇が空襲を受けた。すでに同年7月にはサイパン島の日本軍守備隊が、8月にはグァム・テニアン両島の守備隊が全滅。米軍はマリアナ諸島を完全に制圧し、すぐさま航空基地を整備して、新型爆撃機B29による日本本土ほぼ全域への空襲を可能にする。マリアナ諸島の陥落は日本の敗戦に決定的な意味を持ったことは明らかだった。ところが日本政府、軍部、さらに昭和天皇を中心とした宮中グループの戦争終結の決意は遅れ、それどころか無謀な「本土決戦」を命令・呼号する。沖縄を「捨て石」にすることを決めたのは彼らにほかならない。45年3月に始まる凄惨な地上戦はすべてそこから発している。が、その事実はけして身近ではない。それどころかますます遠くなっているのではないか。

 佐喜真美術館学芸員・上間かな恵さんの「家族の戦争」と美術館の仕事を紹介した「復帰50年の群像」『毎日新聞』9・2夕刊)は印象的な記事だった。上間さんは辿っていくと100人をこえる親族を戦争でなくしている。衝撃を受けたのはこのエピソードだ。「沖縄戦の図」(丸木位里・丸木俊)を語る上間さんに、ある来館者が「そんなに日本が嫌いなら、米国のままでよかったのに」と口走った。そのひとごとのような言葉が上間さんを慄然とさせる。

 本書は抑制された語りから戦争に遭遇した沖縄の子どもたちを浮かび上がらせる。その奥から、しかし著者の強い問いかけが響く。これは昔あった「ひとごと」ですか。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、ほかです。


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