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〔週刊 本の発見〕『ニチボーとケンチャナヨ 私流 映画との出会い方2』
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毎木曜掲載・第203回(2021/5/8)

映画祭がつくる幸せな空間

『ニチボーとケンチャナヨ 私流 映画との出会い方2』(岸野令子、2021年、せせらぎ出版)2700円+税)評者:中村富美子

 著者は、映画の配給・宣伝会社「キノ・キネマ」の代表である岸野令子さん。『金子文子と朴烈』はじめ、これまでに配給してきた作品を一覧するだけで、歩んできた映画の道が見えるようだ。その原点には全大阪映画サークル協議会があるという。戦後まもなく「良い映画を安く」労働者に広めるために結成されたこの団体で、岸野さんは長く事務局を務め、近年では龍谷大学で多文化映像論も論じていた。その長い映画人生から、本書ではロシアと韓国の国際映画祭を中心に、そこで出会った人と作品を綴っている。30年に渡る私的な映画史ともいえるが、年代順に構成された記事やコラムを読むうち、時代や世界の変化もおのずと浮かび上がり、「私的」を越えた洞察に誘われる。

 そもそも映画には、知らない世界に開かれる喜びがある。国際映画祭は多様な映画作品とともに、様々な地域からやってくる人々と語り合い知り合う場でもある。その出会いこそが、映画を作る側にも見る側にも幸せな空間を作っていると岸野さんは言う。

 興行が難しく、陽が当たりにくいドキュメンタリーならことさらだ。見る機会の稀な、しかし世界を知るのに欠かせない作品を心待ちにする観客がいて、彼らの熱い反応が実感できるから監督たちも撮り続けられる。山形国際ドキュメンタリー映画祭はその好例として称えられている。(写真右=著者)

 逆に映画の作り手が、世界を見る眼差しの狭量をさらしてしまう場合もある。釜山国際映画祭で、日本のある若手監督がこんな発言をしたという。「自分も戦後生まれだし、お互いに過去にとらわれず交流したい」。岸野さんは困惑する。「韓国人が言うなら素直に喜ぼう。しかし日本人は過去を忘れてはいけない」。無邪気に見える無知と無自覚。岸野さんは、文化人としての見識のなさに苦言を呈している。

 その韓国で作られる映画は、社会性に富んだ娯楽作品の質の高さと層の厚さで日本をはるかに凌いでいると思うが、背景にある国の文化政策の違いも具体的に示される。国立の映画大学はじめ映画を専門に学べる高等教育機関の充実、映画制作への資金援助制度、等々。映画という芸術・文化を社会の共有財産とする考えに、あらためてわが足元の貧しさを思う。そして忘れてならないのが、女性の目を通して世界を見る視点だ。1997年に始まったソウル国際女性映画祭を通じて、女性監督の活躍が語られる。なかでもパターナリズムを巡るコラムが秀逸なので、少し紹介しておこう。

 「パターナリズムは大阪弁で言うと『私の方がエライんやから、あんたは心配せんと、私の言う通りしてたらエエねん。悪いようにはせえへんさかい』という考えである。『家父長的温情主義』とも訳されるらしい」。こうしてパターナリズムという鋭利なナイフを手にした著者は、巨匠たちの名作をまな板にのせていく。山田洋次監督の『学校』シリーズも、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』も、切れ味鋭くばっさり。「当分、このナイフ離せません」。痛快な著作である。


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