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侵略者あるいは鬼の末裔として(3

――日本人は中国・朝鮮で何をしたのか<その2>――

小泉雅英

「日清戦争」(18941895)や、「台湾征服戦争」(1895)まで遡らなくとも、「盧溝橋事件」(1937/7/7)以来の「日中戦争」(19371945)に限っても、いったい日本人は、何人の中国人、朝鮮人を殺したのか。確かな数字は、どこにも見当たらない。当然である。殺された者の多くが、河に流されたり、焼却されたり、犬に食われたりしたのだから。土中に埋められた者は、まだしも骨が残された者もあった。確認すべきは、戦闘で殺された兵士よりも、農民など、非武装の民間人のほうが、はるかに多く殺されたということだ(*1)。日本軍兵士は、まったく無抵抗な農民、泣き叫ぶ幼児、哀願する妊婦や老婆など、多くの中国人、朝鮮人を殺したのだった。「中国の被害者の大部分は、戦場における戦闘による死者ではなくて、捕虜として殺害されたり、強姦のあげく殺されたり、家を焼かれたりという人々が大変多かった」のだ(*2)。

一人の日本軍兵士が、「日中戦争」で、何人の人間を殺したのか。辺見庸は、こんな試算をする。「中国側死者数をむりに低めにみつもって1,500万人とする。(略)死者を含む「皇軍」将兵数で割ってみる。1,500万人÷230万人(略)。対中侵略戦争で父たちニッポン将兵は、一人あたり約6.5人の中国人を殺したことになる」(*3)。ここで彼が依拠した日本兵の数字は、旧厚生省援護局が発表したものだ。中国側の数字は、「膨大にして計数不可能」で、上記数字は、辺見が「むりに低めにみつもっ」たものだ。彼がこんな試算をしたのは、結局、一人一人の人間、つまり自身に引き寄せて考えるためであろう。「中国人の犠牲者死者数はざっと二千万とも三千万とも」(同前)と言われても(*4)、その膨大な数字を具体的に了解できるものではないからだ。殺されたのは、一人一人異なる顔をした、別個の人間であり、固有の時間を生きていたはずだ。その人々が、日本軍によって、その後の生を暴力的に中断された、ということだ。こんな残酷で、無念なことがあるだろうか。

 

本多勝一 『中国の旅』を読む

本多勝一 『中国の旅』は、19718月末から12月まで、『朝日新聞』、『朝日ジャーナル』、『週刊朝日』に連載、翌年、加筆し単行本として出版、198112月に朝日文庫の一冊として刊行された。『朝日新聞』などの連載時には、「朝日国賊新聞ニ中国の旅トシテ日本軍ノ惨忍極マル事ヲ捏造シテ世界に紹介シテ居ルガ、中国カラ買収サレテノ売国為カ‼(略)覚悟ハヨイカ」など右翼からの脅しや、「日本人に対して好意を持っている中国人も、きっと多い筈です」という「引揚げ者」や、「いかにも自国を卑下し対象国に媚びての暴露記事を載せている(略)願わくばかかる自虐冒涜の記事は載せないで下さい」という投書、「虐殺、暴行、強姦、強奪と之でもか之でもかと傷口をタワシでこする様な文面に正視出来なくなりました」という元中国戦線での体験を持つ読者からの投書など、多くの反応があったという(*5)。

確かに、全編これ鬼畜と言う他ない所業が満載の証言集である。300頁ほどの小さな本だが、あまりにむごい事実の連続に、読み通すまでに何度も中断した。本多記者がこの取材で中国を訪れたのは、19716月から7月にかけての40日間だが、まだ「戦後」26年目でしかなく、被害体験者の多くが存命で、貴重な証言が残された。今となっては成しえぬ、ルポルタージュの傑作である。以下、同書から数例を抜粋する。(引用は頁数のみ記す。漢数字は、適宜アラビア数字に変えた)。

 

■瀋陽の工場にて

瀋陽は、東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)の一つ、遼寧省の省都であり、ヌルハチが女真族を統一、「後金」を建国(1616年)後、その都「盛京」が置かれた(1625年)歴史的な地域だ。ヌルハチの死後、息子ホンタイジが国号を「清」と改め、遷都した。日帝による「満州国」支配下では、「奉天」と改称されていたが、戦後、瀋陽に戻された。

瀋陽駅西側に広がる「鉄西区」は、かつては社会主義経済の推進役として、重工業とともに発展したが、1990年代以降、市場経済化の拡大とともに「重厚長大」な国営企業は廃れ、地盤沈下、旧式の工場や粗末な住居が取り残される街となった(*6)。この重工業地域は、1930年代に満鉄や住友財閥が建設・開発した鋼鉄精錬・鋳造・部品加工などの工場インフラが基になっていると言われるが、その開発の現実はどのようなものだったのか。下記の証言でその一端が確認できるだろう。

 

◆リンチされ犬に食われる労働者

「製鉄の高炉建築のために農民は土地を強奪されたうえ、労工にされてこき使われました。(略)未明からテントを出て、夜は暗くなって帰る強制労働の日々が続いた。あるとき、二人の労工が脱走したが、まもなくつかまって連れもどされた。二人は裸にされて後ろ手に縛られ、木の枝にぶらさげられた。日本人監督がやるリンチを「見せしめ」として公開するために、労工が集められた。木の棒や天秤棒で二人をたたきのめす。気絶すると水をぶっかけた。再び乱打。気絶。また冷水。ふらふらになって、しかしまだ生きている二人は、飢えた軍用犬のたむろする中へ放り込まれた。中国人を「餌」として食うことに慣れている軍用犬の群れは、たちまち二人にとびかかり、音をたてて食った」(p.19-20)

 

◆労働収奪と工場内リンチ

「李興筌という労働者がいた。病気になったが、ひまをとれない。工場をこっそり離れて、休んでいた。日本人にみつかって、人事課につれていかれた。(略)いろんな刑具があった。李さんは、ここでトウガラシを入れた水を飲まされた。飲めなくなると、鬼ども(日本人は鬼と呼ばれた)は漏斗で強引に流しこんで、カエルのような腹になるまで注いだ。こうしておいて、腹の上にのぼって踏んだ。李さんの口・鼻・目から、血のまじったトウガラシの水が噴出した。(略)李さんはそのまま死んだ」(p.27)。

 

◆過労と栄養失調で衰弱後、犬に食われて骨になる

「囚人同様の「見習工」約500人が、(略)機関車修理の強制労働をさせられていた。修理工場で一日13時間働いたのち、夜は(略)監視下で寝る。酷使に耐えきれず、500人のなかから毎日死者が出た。(略)だが、死んでしまうのならまだましだった。どんなに力強い青年も、ここへ来ればたちまちやせ衰えて栄養失調になる。病気も加わってまったく働けなくなり、それでも生きている者は悲惨だ。宿舎の近くに穴が掘られて、生きたまま放りこむ。夜になると軍用犬を放した。(略)朝になると骨だけになっている。(略)1945815日(略)毛さんとともに連れてこられた130人の「見習工」のなかで、生き残ったのは毛さんを含めて25人だった」(pp.28-30)。

 

◆奴隷化教育

教育による暴力も行われていた。例えば「瀋陽の占領後、中国人の学校はすべていったん閉鎖され、一斉に新教育制度のもとに発足した。公立学校の校長は日本人になり、私立も日本人の監督をうけ(略)新しい教科書は『皇道建国』 『同文同種』 『日満一体』といった内容で充満しました。(略)国語とは日本語と『満州語』のことであり(略)教科書はもちろん、会話もなにも、中国語は決して使ってはならない。(略)覚えない者は“反日的”とみなされ、体罰を加えられる」(p.33)のだった。さらに、「毎日の朝会、毎週の週会には、『君が代』と『満州国国歌』を歌わされ、天皇が作った「勅語」というものを強制的に暗記させられた」(p.34)という。しかも、「学校当局は特務機関と連絡をとっていましたから、生徒だって“反日”の罪でよく逮捕され、拷問されました(略)成績の良すぎたことで“思想犯”にとらわれて逮捕された例も」(p.35)あったという。

 

◆思想輔導矯正院(略称「矯正院」)

瀋陽市内にあった監獄で、「治安矯正法」と「思想矯正法」の公布直後、194310月に着工され、年末に完工した。監獄からの生還者によると、こんな所だ。「ある日、楊さんは隣家の人とちょっとした口論をした。日本人の巡査にみつかったが、そのときの楊さんの態度が悪いと、警察にひっぱられた。ぶんなぐられた末、この矯正院に送り込まれた。ひどい食事が毎日つづくので、病気にならないほうがふしぎだ。(略)病人用の部屋にまわされた。この「病室」というのが、およそ治療のための場所ではなかった。むしろ普通以上になぐったり蹴ったりされる。病気が重くなって絶望的となれば、身ぐるみはがせて着物を奪ったあと、庭の片隅の鉄条網のそばに運んで放りだした。冬ならすぐに凍死するが、夏でも長くない。死者も同じところへ放りだされるので、死体が積み重なった。(略)ひどい食事と環境による発病→病室→重病人→庭の片隅→死→穴という順序で、次々と「処理」されていった」(pp.50-51)。

 こんな矯正院から脱走を図り、連れ戻された場合、どうなるか。目撃者の農民の証言では、「庭の隅に枯れ木があった。男はこれにしばりつけられた。看守らが炊事場から熱湯を持ちだし、男の頭からぶっかけた。男は絶叫して気絶した。さらにボロ布を持ちだして、男の体を包んだ。石油をかけると点火した。(略)男は黒こげになって死んだ」(p.53)。

 もう一人、近在の王さんが見た光景は「鉄条網のそばの木に、中からひっぱりだされた男がしばりつけられている。(略)まず熱湯をかけられた。悲鳴をあげたが、彼の場合は意識がしっかりしていた。一人の職員が小型の短刀をもってきて、頭の頂点を切ってから、皮を下へ巻くようにしてはがし始めた。男は叫び声をあげていたが、まもなく気絶した。彼はさらに頭まではがされていった。王さんはそれ以上見ることに耐えがたくなって、家へ逃げ帰った」(p.53)という。

 

■平頂山事件(撫順)

1932年夏、撫順炭鉱の近くの平頂山の村では、「約400世帯3,000人余りが、800棟ほどの小さい家々に住んでいた」(pp.96-97)が、「匪賊と通じている」として、ほぼ全員が虐殺された。

奇跡的に生き残った3名の内、最年長の夏さんは、当時27歳の炭鉱内鉄道の転轍係だった。日本軍は夜明けとともに3台のトラックで現れ、村を包囲し、住民を西側の崖ぎわに追い立てた。その後、6台のトラックが来て、機関銃を据えつけると、「指揮官らしい日本兵が、なにか叫びをあげて軍刀を抜いた。機関銃が一斉に火をふいた。兄が立ち上がろうと頭をあげたとき、銃弾はその頭をぶち抜いた。(略)兄の抱いていた赤ん坊は地面に放りだされた。(略)夏さんは(略)赤ん坊を持ち上げ、右手に抱いた。南にある谷状の凹地めざして走った」(p.103)。

 韓さんの証言。「二度目の掃射が終わると、兵隊たちは(略)死体を蹴とばしたり、銃剣で刺したりしながら、折り重なった死者たちの上を歩いてくる。(略)韓さんから数メートル離れて、一人の赤ん坊が、死んだその母の乳房に抱きついて泣いたりしていた。兵隊はこの乳児を銃剣で突き刺すと、そのまま空中に放り投げて捨てた。そのすぐ近くに妊婦が死んでいた。別の兵隊が銃剣でお腹を切開し、何かをとりだした。他の兵隊たちの笑い声がきこえた。」(pp.105-106)。「虐殺のあった前日は十五夜だったので、中国の古くからの習慣どおり、一家そろってお月見をした」(p.102)のだった。

翌日「警備兵たちは、虐殺された人びとを、まだ呼吸のある者も含めて全部一ヵ所に積み上げ(略)死体の山にドラム缶から石油がぶっかけられた。点火され、黒煙が上がる。(略)火はその日の夜まで燃えつづけた。(略)56日後、またも日本人警備兵たちがトラックで現れた。(略)崖に穴をあけ(略)ダイナマイトを仕掛け(略)轟然たる地ひびきとともに、崖は大きく崩壊し、焼かれて骨の山となっていた虐殺死体の上にかぶさった。3,000余人の村人たちは、このようにして殺されたのであった」(p.110-111)。

 中国人性奴隷被害者を取材したドキュメンタリー 『太陽がほしい』などの監督・班忠義は、小学生の時、「平頂山事件」の生存者、夏さんの証言を学校で聞いたという。「夏おじさんは泣くような声で語ったが、彼の窪んだ目からはもう涙は出てこなかった。(略)もう涙はなくなったのだ」(*7)。班は、虐殺現場で指示を与えた井上中尉が、その後、「受けるべき処罰を受けず、かえって昇進の道をたどり続け(略)金鵄勲章が授与され(略)上司の仲介により再婚相手が決まり一時は金鵄に花嫁の両手の花と評判になり、(略)内地に帰って行った」と知り衝撃を受けた、と記している(*8)。

 

■コレラの流行と防疫惨殺事件(撫順)

撫順炭鉱には、山東省などから、多くの農民が「労工」として連行された。「食うや食わずの生活をしていた」(p.120)農民たちは、「東北地方はすばらしい。食い物は豊富だ」(同前)という宣伝にだまされ、「募集」に応じたのだった。「撫順に着くと、まっすぐ炭鉱に連行された」(同前)。ムシロで囲っただけの大型テントに収容され、そこを「宿舎」として詰め込まれた」(p.121)。

 ある日、「炭鉱側はテント群の周囲を鉄条網でかこんだ。武装した警備兵が警戒につき、出入不可能になった。こうしておいて、テント内で全員の「衛生検査」を始めた。日本人検査員の目前で、全員一斉に検便させられるのだ。(略)病人と認められると、どこかへ連行されていったまま帰らない。(略)伝染病退治の口実で何千人もの「病人」が殺された」(pp.122-123)のだった。

 「検便」とは何か。それは「全員一列に並べておいて尻をださせ、長さ30センチほどのガラス棒を肛門に突っ込む。棒の先が丸みを帯びたサジ状になっていて、これで強引に大便をこじり出すのだ。一日おきにこれをやる。そのたびに、大半の者は肛門が切れて血が出た。(略)これは極度の苦しみと侮辱であって、人間としての矜持を押しつぶすものだった」(p.124)。しかも、「食物は検便をした者だけに与える」(同前)のだという。

ある日、韓さんは検便をさぼった。夜中の3時ごろ、「検便を逃れた者ばかりが200300人集められ(略)庭をぐるぐる歩かされた。(略)列の中から、50歳くらいの婦人が呼びだされた。みんなの前で「ズボンを脱げ」と命ぜられた。(略)彼女は脱がなかった。数人の日本人が、彼女をなぐってから電柱に縄でしばりつけた。()さんざんなぐると、彼女は気絶した。縄をはずしてから、冷水をかけると気づいた。鞭を持った日本人が、二匹の軍用犬をつれていた。鞭で彼女を指すと同時に、犬を放した。とびかかった二匹は、すぐに彼女をかみ殺し、食いだした。行列の中国人たちは、大きな犬に音をたてて食われる婦人を、声をあげて泣きながら見た」(pp.124-125)のだった。

 コレラの流行が下火になり、新しく「病人」として収容される者も減り、ついに「動けない患者」だけのテントになった。「するとこのテントは、中に病人たちを入れたまま石油がぶっかけられ、テントごと全部焼き殺された」(p.129)。その時、万さんという労工の幼い子が外にいて、「父を求めて泣きながら気が狂ったように右往左往した。うるさく思った日本人の一人が、子供をつかむと、人焼き場の、燃えているカマドの中へ放り込んだ。男の子は絶叫を残して焼き殺された」(同前)。

     ☆☆☆

 以上、本多勝一『中国の旅』から、日本軍による暴力の数例を抜粋した。このような残虐行為は、戦争という特殊な状況でなされたことで、もう二度と起きないのだろうか。なぜ、「普通の人」が、こんなにも残虐なことができたのか。彼らは、いつ、どこで鬼に変身したのか。自分の家族や友人に、このようなことができたのだろうか。はっきりしていることは、日本人の中にアジア人蔑視、とりわけ中国人や朝鮮人に対する強い蔑視・差別意識があったことだ。それはいつ、どのように形成されたのか。「日本が帝国主義国となり、朝鮮や中国を植民地としていく過程で、朝鮮人や中国人にたいする差別意識、蔑視感が育てられていった。もともと(略)日本人は、朝鮮や中国にたいして尊敬と親愛の情を持っていたはずなのである」(*9)。

しかも日本陸軍には、「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」(軍人勅諭)といった思想や、銃剣だけの突撃万能主義、莫大な犠牲をものともしない、生命軽視の精神主義があった(*10)。「日本軍隊自体が自国民と兵士の人権を無視する構造を持っていた。兵士の人権を認めないぐらいだから、占領下の敵国民の人権など認めるはずがない(略)抑圧された兵士は、その抑圧の捌け口をより弱い者である捕虜や占領下の民衆に向けることになる。アジア人蔑視に抑圧移譲の原理が重なって、日本軍の中国民衆への暴行が多発した」(*11)のだ。

 さらに、日本陸軍が歩兵学校に配布した『対支那軍戦闘法ノ研究』(1933年)の中に、「捕虜ノ処置」という項目があり、それによれば、「支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮ニ之ヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」とあり、4年後の通牒(「陸支密第198号 交戦法規ノ適用ニ関スル件」)では、「現下ノ情勢ニ於イテ(略)「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規に関スル諸条約」ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」「例ヘバ、戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用」はなるべく避けるようにと指示している」(*12)。

つまり、「事変」には戦時関係法は適用せず、「俘虜」という言葉は」使うな。捕虜として残すと厄介なので、その場で「殺害」すべし。「仮ニ之ヲ殺害」しても、「世間的ニ問題トナルコト無シ」というのが、方針として出されていたということだ。差別意識の上に、このような軍の方針が重なり、「やりたい放題」に中国人や朝鮮人に残虐な行為を行ったのだ。

 このように多くの民を殺し、強姦した兵士たちは、ほぼ全員が日本に引き揚げた(*13)。その後、家族を営み、子や孫に恵まれて人生を終えた者も多かっただろう。彼らの多くは、日本に戻ってほどなく、妻など女を抱き、貪るようにセックスしたに違いない。そのおかげで、私を含む大量の子どもたち(「団塊世代」)が誕生したのだった。そんな彼らが、子や孫をあやしながら、かつて中国で、哀願する母親の手から乳呑み児を奪い取り、その児の両足を持って振り回し、その小さな頭を地面に叩きつけたことや、我が子に取りすがり、泣き叫ぶ母親の背中に銃剣を突き刺し、惨殺したことなどを、思い出しただろうか。またある夜、一日の終わりの平和な時間に、女房など女を抱きながら、かつて暴力で犯した何人もの女の身体の感触や、彼女たちの性器に銃剣を刺して引き裂いたことなどを、思い出すこともあったのだろうか。時には、不安と悪夢に目覚める夜もあっただろうか。それとも、すべてを忘却し、何もなかったかのように「戦後」を生き、過去の罪業を抱いたまま、生涯を終えたのだろうか。仮にそうであったとしても、彼らの残虐行為の結果は、決して消え去ることはないし、未だ償われていないのだ。まさに「血で書かれた歴史」は、中国・朝鮮(その他、日本軍が侵略したアジア・太平洋の全地域)において、人々の「記憶」として、今なお継承され続けているはずである。

 私たちがすべきことは何なのか。一つは、そうした父や祖父たちの負の歴史を、きちんと認識することだろう。その上で、それらを現在と未来に活かしていくことではないか。過去の愚行を直視し、その正しい認識と克服なしに、アジアの人々と未来を共有することなどできないのではないだろうか。

 なお、19481210日の国連総会(UNGA)で採択された「世界人権宣言」では、「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」(第3条)と明記された(了)。

 

(注)

*1) 「戦後すぐに国民政府の行政院賠償委員会が発表した被害調査資料では、中国東北や共産

党の解放区(抗日根拠地)を含まない中国軍民の死傷者1,2784,974人(うち民間人は913

4,569人。民間人の死者は4397,504人、軍人の死者1328,501人)」という(笠原十九司

『南京事件と三光作戦』 p.76

*2藤原 彰 『天皇の軍隊と日中戦争』 p.68

*3)辺見 庸 『完全版 1(イ)9(ク)3(ミ)7(ナ)(下)』 p.18。なお、兵士ではないが、奉天警察署特務課長だった筑古章造は、「在任中に直接自分の手で逮捕した中国人は530人、殺した中国人は99人」と供述している。(本多勝一『中国の旅』 p.22

*4) 1998年に江沢民が国家主席として来日し、早稲田大学で講演した。その際、「日中戦争で

「中国は3,500万人が死傷し、6,000 億ドル以上の経済的損失を受けた」と中国の公式見解を述

べた。」(「朝日新聞」1998/11/29)」(笠原前掲書 p.75)

*5)本多勝一・長沼節夫 『天皇の軍隊』(pp.419-426

*6)当時の状況は、映像作家王兵のドキュメンタリー『鉄西区』(「工場」・「街」・「鉄路」の三部作2003年)に記録されている。これは工場の風景、労働者、解体される街、そこに生きる人々の姿などを通し、現代中国のある時代(変貌過程)が描かれた傑作。全545分の大長編だが、画面に吸い込まれていく内に観終わるだろう。王兵監督と作品については、土屋昌明・鈴木一誌編著『ドキュメンタリー作家 王兵』が詳しい。綿密なフィルモグラフィや作品分析などを収録し、素晴らしい研究書となっている。

*7) 班忠義 『曽おばさんの海』p.75

*8) 同上書pp.88-89

*9藤原前掲書p.8

*10) 藤原前掲書p.10

*11)藤原前掲書p.9

*12)藤原前掲書pp.16-17

*13)中国の「戦犯裁判」で有罪判決を受け、服役していた者も、未決拘留期間をさしひかれ、殆ど全員が刑期満了前に釈放され、帰国している。(岡部他編 『中国侵略の証言者たち』p.10

 

参考文献

・家永三郎 『戦争責任』(岩波現代文庫2002年)

岡部牧夫他編 『中国侵略の証言者たち』(岩波新書2010年)

・笠原十九司 『南京事件と三光作戦―未来に生かす戦争の記憶』(大月書店1999年)

・土屋昌明・鈴木一誌編著 『ドキュメンタリー作家王兵―現代中国の叛史』(ポット出版プラス 2020年)

・班 忠義 『曽おばさんの海』(朝日新聞社1992年)

藤原 彰 『天皇の軍隊と日中戦争』(大月書店2006年)

辺見 庸 『完全版 1(イ)9(ク)3(ミ)7(ナ)(上・下)』(角川文庫2016年)

・本多勝一 『中国の旅』(朝日文庫1981年)

本多勝一・長沼節夫 『天皇の軍隊』(朝日文庫1991年)


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