パリの窓から(57) : ノートルダム大聖堂火災による鉛汚染 | |||||||
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ノートルダム大聖堂火災による鉛汚染9月末に起きたルーアンの化学工場火災について、パリ検察庁は10月29日、不特定の加害者に対する訴訟を開始した(市民からの訴えはすでに545件)。ルーアンの行政裁判所に急速審理を要請したNPO「レスピール」は、県庁と国の健康機関(ARS)の反対にもかかわらず、汚染状況を考査する独立した専門家の任命を獲得した。国は公衆健康管理局(Santé Publique France)による健康調査を汚染地域の215の自治体で行うと10月末に発表したが、その開始は2020年3月で「今のところ尿・血液検査はしない」というのだから、行政が環境汚染・健康被害をいかに軽視しているかがわかるだろう。 4月15日に起きたノートルダム大聖堂火災による鉛汚染についても、労働者や住民(そしてこの界隈に多い旅行者)の健康被害を予防するための的確な措置がとられず、情報の操作や隠蔽が行われている。火災後7か月の今、状況と問題点を述べたい。 ●火災直後の情報の欠如と隠蔽 ノートルダム大聖堂のような歴史的建造物をはじめ、欧米の古い建物には建材や導管に鉛が使用されていた。有鉛ガソリン、塗料やはんだなど、日常に存在する鉛含有物が引き起こす健康被害は医学的に証明され、この20年来は鉛使用の禁止措置がとられてきた。したがって近年、鉛を使った水道管の飲料水や鉛含有物の摂取による鉛中毒は少なくなった。鉛は口からや粉塵の吸入などによって人体に取り込まれると、とりわけ骨に長年蓄積され、腎臓や神経系統、心血管、生殖機能などに害を与え、発ガン性物質である。胎児、6歳以下の子ども、妊娠中の女性の場合は特に影響が大きく、長年を経て疾患が出るケースも多い。 フランスでは2014年から、血中鉛濃度50μg/リットル以上は国の健康機関に「鉛中毒」の届け出の義務、25μg/リットル以上は「注意観察」が定められている。しかし、1980年代の研究によって血中鉛濃度10μg/リットルから知能・行動学的影響があると判明し、米国疾患管理センター(CDC) では1988年から鉛濃度の削減目標をそれ以下にし、また近年は10μg/リットル以下でも認知機能への関連があり、閾値(それ以下なら安全といえる値)はないとする見解が広まっている。目に見えず匂いがなく、影響が長年を経た後に出て、妊娠すると胎児に影響するという点において、鉛汚染は放射能汚染と似ている。 さて、大聖堂の屋根や尖塔に含まれていた大量の鉛(約400トン)は、火事で拡散されてしまった。火災の夜、そのことはほとんど誰も気にかけず大勢の野次馬が現地に赴き(実は筆者も火災を見に行ってしまったのだが、友人のひとりは鉛を心配して行かなかった)、その後も立ち入り禁止地区以外の近隣を訪れた市民や旅行者は多い。しかし、鉛汚染の危険についての公式な警告は直ちに行われなかった。 パリの中心シテ島にあるノートルダム大聖堂は、宗教的な重要性を超えてフランスの歴史と文化の象徴的な遺産であり、現在も観光客だけでなく市民に親しまれている。そして、2024年のパリ・オリンピック(反対運動もある)に向けた商業効果のためか、火災後にマクロン大統領は直ちに「5年以内に再建する」と宣言し、フランスの大富豪が競って寄付を申し出た(こうした寄付は免税になるし、他の歴史建造物へは寄付しないのだから、売名行為だと批判された)。13世紀の屋根組みや19世紀の尖塔が燃えた歴史建造物の「復元」は技術的にも微妙だし、考古学調査を含む様々な手順が法律で定められており、5年間で復元するのは不可能だと建築家はじめ専門家は見ている。しかし、マクロンは誰の意見も聞かず、火災による被害の調査を開始する前から「5年」を主張し、歴史建造物に適用される多くの規定や環境調査を無視できる特別な法律をすぐさま国会で可決させた。特別法を作ることが火災直後の4月17日の閣議で決定されたのに対し(国会での最終的な可決は7月16日)、パリ警視庁、イルドフランス地域圏知事、地域圏健康局がノートルダムと周囲の「限られた地点」に鉛汚染があるというコミュニケを出したのは、火災後12日を経た4月27日だった。それも、危険の警告というより、鉛汚染は限られた場所のみであり、ごく近い場所に住む人は埃をウェットティッシュなどで洗浄せよという内容だ。鉛汚染とその危険を最初から小さく見積もったのには、「再建」を急ごうという国(大統領)の思惑が影響しているのではないだろうか。 というのも、歴史建造物の修復はフランス各地で常に行われており、鉛汚染の危険は関係者にとって周知の事実だからだ。文化省は火災後すぐ、ノートルダム修復工事現場の安全についてのレポートを専門業者に発注した。その業者は火災の10日後、大聖堂を覆い除染を行う計画案を提出したが、文化省に拒否されたことが、ウェブ新聞メディアパルトの調査によって後に判明した。一方、道を隔てて聖堂前広場の向かいにあるパリ警視庁は、鉛汚染の実態を知るために火災の翌日から大聖堂内外、付近(左岸のカルチエ・ラタンも含む)で大気、建造物の様々な場所、路上や地面の鉛の検査を行った。その結果、聖堂前広場をはじめ幾つかの場所では非常に高い汚染(除染の基準1000μg/ m2の400〜900倍)が発見されたが、5月6日に行われた会議(地域圏健康局、県庁、文化省、パリ市、労働検査局が参加)で結果の詳細を公表しないことが決められたという。5月9日のコミュニケでは、汚染はノートルダムのごく近隣に限られるが、幼児と妊娠中の女性に危険が大きい鉛中毒を「用心して」個人レベルの措置(住居を水で洗浄、手を洗う、幼児のおもちゃを頻繁に洗う)が奨励された。 また、前述の会議で汚染が風によってノートルダムの西南西(4区だけでなく左岸の5、6、7区)に広がったことがわかったため、パリ市は5月13日から保育園や小学校、家屋の鉛検査を実施した。そして校庭や砂場、園・校内でも鉛中毒予防に適用される基準(70μg/ m2)を超える場所があることがわかったので、汚染された施設の子どもの血中鉛濃度の検査を勧め始めた。しかし、すべての検査結果を待たずに5月20日、パリ市は全校長・園長に「鉛汚染はないので、親たちから質問されたら安心させて良い」というメールを送ったのである。内部告発から調査を始めたメディアパルトの記者によって、7月18日の朝にこれらの事実を述べる記事がアップされると、地域圏健康局はその日に記者会見を行った。そして、翌19日にはノートルダム火災後の状況と鉛汚染についての報告(血中鉛濃度の検査結果はなし)がプレスキットとしてようやく公表され、汚染地区の子どもたちの血中鉛濃度の検査が奨励された。 ●工事現場の一時停止と除染の開始 メディアパルトの記者によれば、火災後のノートルダムで働く人々についても、労働検査官が5月〜7月まで何度も警告(鉛汚染予防が十分でない)を発したが、無視されたという。また、環境団体、とりわけ鉛汚染の問題に関わる市民団体や研究者も、事故後直後から何度も警告を発した。環境団体「ロバン・デ・ボワ」は7月26日、住民や労働者の生命を危険に晒したこと、情報の欠如などの理由で不特定の加害者に対して訴訟を起こした。 7月25日、イルドフランス地域圏の知事は、ノートルダム工事現場(火災後の緊急安全措置)を一時停止するよう同地方の文化局(修復工事の施主)に命じた。7月23日の労働局の報告に書かれた鉛汚染対策の不備(規定の防護服・マスクなどをつけていない、除染措置の規模が小さすぎるなど)を解決するためという理由である。メディアパルトの記事や市民団体・労働組合からの批判に、対応しないわけにいかなくなったのかもしれない。一方、パリ市は7月18日(記事が出た日)に急遽、鉛検査の範囲を広げた。そして6区にある3校(幼稚園、小学校、中学校)の高汚染の結果が7月24日に出ると除染を決め、夏休み中の学童を行っていた2校(幼稚園と小学校)の閉鎖を発表した(7月25日)。除染は8月に2週間かけて行われた。ちなみに、高汚染された3校は作家の故マルグリット・デュラスが住んでいた通りにあり、旅行者も多いサン=ジェルマン地区である。 市民団体と労働組合は工事の停止を機に、大聖堂全体を覆ってさらなる鉛の発散を防ぐこと、事故直後から要求している正確で定期的にアップデートされる鉛汚染地図の公表、ノートルダム大聖堂の隣にあるオテル・デュー病院に、汚染を受けた可能性がある労働者や住民(7歳以下と妊娠中の女性に限らず)全員の健康を医療・心理・社会面にわたりフォローするセンターを設置することを求めた(7月末に要求、記者会見は8月5日)。 文化省は大聖堂全体を覆うことを拒否した。建物全体を覆う方法・技術は拡散を防ぐために、鉛やアスベスト除染に使われているが、国・市は聖堂前広場の地面の除染と労働者の防護装備の充実に措置を限ったのだ。鉛汚染地図については、7月19日のプレスキット中の地図に火災前の検査結果が(年を記さずに)つけ加えられており、混乱を招くと市民団体が指摘した。現在までに火災後の詳細な汚染地図が掲載されたのは、ニューヨークタイムズ紙の9月14日付の記事のみだ。 ニューヨークでは2001年の9.11テロの後に、救助などでツインタワー付近に赴いた人々と被災者の健康フォローセンターが近くの病院に設置された。オテル・デュー病院にフォローセンターを設置する要求に対しても、回答はない(無料の鉛濃度血液検査のみ可能)。 ●健康被害の矮小化と情報操作 さて、夏休み中に検査が続けられた後、9月にパリの学校は新学期を迎えたが、検査が十分でなかった幾つかの私立小学校の開校が遅れた。市民団体と労働組合は9月30日、鉛汚染への対応が不十分で要求が聞き入れられないことに抗議するため、集会を開いた。汚染された郊外急行RERのサン・ミシェル駅が除染後にも再汚染されたこと、除染や道路の清掃をする下請け企業では、労働者(ほとんど移民系)に対して何の警告もなく防備措置が取られなかったことなどが摘発された。 一方、地域圏県庁と健康局は10月14日に「ノートルダム大聖堂火災6か月後の総括」というプレスキットを公表した。鉛汚染に関しては以前と同様、汚染は一部に限られ、適切な対応をとったというスタンスで、危険を小さく見せるための情報操作が含まれている。 まず、5月9日の2つ目のコミュニケ(地域圏県庁、健康局)から「大気を吸い込むことによる健康被害の危険はない」と発表されたが、地域圏健康局が使った危険の基準0,25μg/m3 は年間の平均値(2010年の政令)であり、公衆衛生高等会議(HCSP)2014年の報告書で2012年のフランス都市部の大気の鉛含有率は0,03μg/m3だった事実を伏せている。警視庁が4月26日〜7月15日に大聖堂の西北の角で行った大気採取検査の結果では、この0,03μg/m3を超える値が51のうち31あり、5月24日には0,38μg/m3の値が出た。それに検査場所は地上2,5メートルであり、人間(特に背の低い子どもなど)が呼吸するより地面に近い位置では、値がさらに高いことが予想できる。聖堂前広場はいまだ閉鎖されているが、聖堂の北側は商店も多く、住民は普通に生活している。火災前に比べて鉛汚染はあるわけだから、「呼吸による健康被害の危険はない」という言い方は適切だろうか。 次に、学校・住居や路上の鉛汚染について、当局は5月までは1000μg/ m2を基準(除染の基準)としていたが、7月18日のプレスキットではすでに、以前に行われた調査で95%が5000μg/ m2以下だったという理由で「事故以前の基準」を5000μg/ m2に引き上げた。原発事故後に福島で、年間の追加被曝許容値が1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げられたことを思い出さずにはいられない。当局が参照した2017-18年の調査は、鉛汚染の影響がありそうな歴史建造物の近くのスポットが多く選ばれていて、パリの火災前の汚染の「標準値」をそこから出せるのか疑問だ。一般の除染基準である1000μg/ m2を踏襲すべきなのではないだろうか。 そして学校・住居など建物内部の検査結果の分析については、そもそも検査対象が少なすぎて(住居は最初16か所、学校・幼稚園・保育園は9か所のみ)、汚染を的確に追跡しようという意思が感じられないことが問題だ。7月後半から検査と除染の範囲は広げられ、これまでに子どもが通う場所約100か所が対象となった。しかし、大掛かりな除染がおこなれた2校以外でどのような除染・洗浄措置がとられたかの詳細はなく、予防のためのコミュニケ(公園については8月29日)が並べられているだけだ。また、鉛中毒予防に適用される基準(70μg/ m2)は引き上げられなかったが、学校、幼稚園などについて「平均70μg/ m2以下だから安全だ」という結論を7月から出している点も理解に苦しむ。これは「直ちに除染措置をとる」基準なのだから、平均値に用いて「安全」を証明することはできないのではないか。 子どもを対象にした血中鉛濃度検査についても、7月末の段階ですでに2人が50μg/リットルの鉛中毒届け出基準以上、16人が25μg/リットル以上50μg/リットル未満の「要注意」なのに、汚染地区(4区、5区、6区、7区)の未成年全員を対象にした検査は行わず、個人的に検査せよという姿勢が踏襲された。10月のプレスキットにまとめられた検査結果は877例(0〜18歳)で、この地区の学童(3〜17歳)約55000人の16%に満たない。また、704例が8〜9月の検査だから、鉛の吸引があっても既に体外に排出された割合があるだろう。 もっとも問題なのは、この限られたサンプルの結果について妙な表示・解説が展開されている点だ。877人のうち12人が50μg/リットル以上、78人が25μg/リットル以上50μg/リットル未満という結果が出た。解説では、鉛汚染の原因は多様であり、すべてをノートルダム火災が原因とは限定できないため、それらの子どもたちの住居や学校環境の検査を行ったと述べる。そして、値の高い子どもの住居の多くに、既に鉛汚染(バルコニー、壁の古いペンキなど)があったという書き方をしている。しかし、11月7日に行われた4区の説明会で発言した父親(子ども全員が25μg/リットル以上、一人は50μg/リットル以上)は、自宅の環境鉛検査で高い値が出た場所は子どもたちが足を踏み入れない場所だと抗議した。 報告書ではこの血中鉛濃度検査の結果を2008-2009年の全国調査と比較し、高濃度の子どもの割合は「近い」パーセンテージだと述べる。10月11日付公衆健康管理局のより詳しい中間報告でも同じ結論だが、比較するには件数が少なすぎるとつけ加えてある。区と年齢による分布などいくつも表が作られているが、肝心の鉛濃度値の詳細な分布表はなくて平均や幾何平均が計算されている。当局は「25μg/リットル以上要注意」のみを問題視しているが、最初に記したように10μg/リットルから知能・行動学的影響があり、閾値はないというのが国際的な医学界の見解であり、フランスの公衆衛生高等会議でも12μg/リットル以上で子どもに影響があると認識している(2014年)。それらに言及せず、時間を経た発ガンなどの影響も語らない姿勢には、危険をなるべく小さく見せようとする意思が感じられてならない。市民団体は、血中鉛濃度の検査結果全体の分布を公表せよと主張している。そもそも集団検診ではない任意で少数の検査結果の平均を、10年前に行われた調査(全国の入院中の子ども約3800人が対象になった)と比べても意味がないのではないかと。 11月7日に行われた4区の説明会では、報告書の文言以上に、鉛汚染がノートルダム火災によると限定できない可能性が強調された。また、報告書には記されている血中鉛濃度の2009年の調査を「最近」と表現するなど、「火災前に比べて鉛濃度の高い子が目立って増えたのではない」という印象を強める操作に苦心していた。「自分は42歳で当時16か月の子どもと同じ32μg/リットルという結果が出たが、二人とも同じ高い値なのはおかしくないか?」という父親の質問にも、「環境調査とフォローを進める」としか回答はなかった。 火災から7か月後、ノートルダム大聖堂前の広場(立ち入り禁止)は何度もの除染にもかかわらず鉛汚染の値が3万〜4万μg/m3(火災直後はその10倍)もあり、広場の3分の2を特別な樹脂で覆う措置がとられるという。これも、最初に鉛汚染の重大さを軽視した結果だろうか?(大聖堂全体を覆う提案は最初から却下され、今後も採用されそうにない。) 大聖堂の火災は近隣の商店など経済活動に多大な影響を与え、国家や市が象徴的建造物の「復元」を急ぐのは当然の論理だろうが、労働者や住民(とりわけ子ども)、旅行者の健康に対する配慮があまりに欠けているのはショッキングだ。「直ちに影響がない」金属や化学物質の被害を軽視してきた産業優先、市民の健康と環境軽視の行政の姿勢が、ノートルダム大聖堂火災でも露呈されたといえるだろう。「健康被害が5年、10年、20年以上先に出たとき、原因はわからないとされてしまう。責任を問われないだろうから、費用がかかることは避けるのが行政です」と、公衆衛生の研究者アニー・テボー=モニは述べる。彼女は国の健康研究機関(Inserm)と市民団体「アンリ・ペズナ」をとおして、アスベストや殺虫剤の被害者や原発の被爆労働者を長年サポートし、訴訟で闘ってきた稀な科学者だ。ノートルダム火災でもルーアン火災でも真っ先に警告を発し、行動を起こした。 なお、ノートルダムについては、聖堂前広場を含むこの地区の「再整備」計画にも批判が出ているが、それについてはここでは述べない。 2019年11月18日 飛幡祐規(たかはたゆうき) Created by staff01. Last modified on 2019-11-19 12:35:03 Copyright: Default |