〔週刊 本の発見〕『阿Q正伝・狂人日記他十二篇(吶喊)』 | |||||||
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毎木曜掲載・第110回(2019/5/23) 「小さな出来事」の大きさ『阿Q正伝・狂人日記他十二篇(吶喊)』(魯迅作 竹内好訳 岩波文庫)評者 : 佐々木有美「何時でも新しい本が出たと聞いたら古い本を読め」という文章を昔読んだ。長い年月読み継がれた本には、それだけの理由があるということ。この書評欄のメインは新刊だが、たまには古典もいいのではないかとこの本を選んだ。 魯迅(写真)というとまず『故郷』を思い出す人が多いのではないか。中学の教科書には、必ず載っている作品だ。わたしも多分、読んだはずなのだが、印象は薄い。その後、有名な『阿Q正伝』を読んだが、これもどうも好きになれなかった。それが、ある作品を読んだことをきっかけにわたしの魯迅への評価は180度変わった。それは、この本に載っている、たった4ページの掌編だ。タイトルは「小さな出来事」。 主人公は人力車に乗る。その車が、道を急に横切ろうとした貧しい老婆をひっかけてしまう。非は老婆にある。たいしたケガもしていないようだが、車夫は車を止め老婆を気遣う。急いでいる主人公は車夫にイライラをつのらせる。しかし車夫は「ケガをした」という老婆の一言を聞くと少しもためらわず、その腕を抱え、派出所へと歩きだした。「このときふと異様な感じが私をとらえた。埃まみれの車夫のうしろ姿が、急に大きくなった。しかも去るにしたがってますます大きくなり、仰がなければ見えないくらいになった」 魯迅は、最後に「ここ数年の政治も軍事も、…ひとつも記憶に残っていない。この小さな出来事だけが、いつも眼底をさりやらず、時には以前にまして鮮明にあらわれ、私に恥を教え、私に奮起をうながし、しかも勇気と希望を与えてくれるのである。」と書いている。 20世前半の中国で、儒教的倫理と封建的家族制度に反対し文学革命を起こした魯迅は、現実の暗さを徹底的に描きだした作家だ。それは非英雄の典型、阿Qを見ればわかる。ルンペン農民で、たえず自己欺瞞の中で生き、深く考えもせず革命騒ぎの中で死刑にされる阿Q。そこから魯迅は当時の救いのない中国、救いのない自分を剔抉している。「絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じだ」という彼の言葉のすごみは、ここから発している。 そうした魯迅だからこそ、この「小さな出来事」の車夫像は特別に思える。魯迅は「ノラは家出してからどうなったのか」かという講演で次のように語っている。世の中には、小さなことの方が大きなことより面倒なことがある。もし真冬に、自分が綿入れ一枚しか着ていないとき、凍死しそうな貧しい人を救わなければならない、さもなくば、菩提樹の下で、一切の人類を救う方法を瞑想しなければならないとなったら、自分は、瞑想の方を選ぶ。なぜなら、綿入れを脱いで凍死するのはいやだからと。
小さなことを行うにも、勇気がいる。時には、自分を犠牲にする覚悟がなければならない。車夫は、魯迅にはできなかった小さなことを成し遂げた。政治は変わるし、変えることができるが、人々の心を変えるのは難しい。小さなことでも他人を支えることができる人間こそ、新しいより良い社会を作っていけると魯迅は確信していたにちがいない。彼は、いわゆるヒューマニズムに対して懐疑的だったそうだが、ここに、彼のヒューマニズムの神髄があるように思えてならない。 *「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、ほかです。 Created by staff01. Last modified on 2019-05-23 12:27:19 Copyright: Default |