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〔週刊 本の発見〕『メディア不信−何が問われているか』
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毎木曜掲載・第78回(2018/10/11)

「普通の人」が抱く知的エリートへの怒り

●『メディア不信−何が問われているか』(林香里、岩波新書)/評者:渡辺照子

 「メディアが流す情報を鵜呑みにしてはいけない。情報を評価・識別する能力を身に付けるのだ。」というメディアリテラシーの必要性が訴えられて10年余り経っている。しかし、「フェイクニュース」「スピンコントロール」「ポストトゥルース」等の用語を日々、広くあまねく目にする昨今、メディアリテラシーの概念だけでは、玉石混交の情報の波に翻弄されるばかりで、太刀打ちできない。

 私の周辺では、権力の監視を怠ったマスコミを「マスゴミ」と呼び、「視聴、購読をやめるべき」と主張する人も少なくない。心ある人たちにそこまで言わせてしまうこの状況は、まさに本書のタイトル「メディア不信」に他ならない。

 著者は、このような状況で問われているのは「必ずしも個別の情報の正確性や真偽ではない」と言う。医師や弁護士のように業務遂行のために特権を付与される代わりに、高い水準の職業倫理が要求されるジャーナリストが、その倫理からはずれていることに対する批判的意味もあるというのだ。既に私たちは、日本のマスメディアが権力と対峙しているとは思っていない。だが、他国はどうか。著者は日本だけを考察の対象とはしていない。メディアがナチスのプロパガンダに悪用された過去を持つドイツ。階級性が根強く、購読紙がエリート層の読む「高級紙」と、労働者階級の読む「大衆紙」に二分されるイギリス。商業主義一辺倒のマスコミと相互依存、共犯関係にあることで大統領の座を得たトランプの国、アメリカ。それらの国のマスメディア、さらにはソーシャルメディアのあり方を日本のそれらと対比させる。だからといって、国ごとの成績比べではない「国際比較研究」という手法を駆使しての論を展開させている。そこで各国に共通するのは。「普通の人」が抱くリベラルエリートへの怒りが「メディア不信」につながった、という現象である。

 私の印象では、知的エリートと、「一般大衆」との知識・見識・情報の格差が日本でもあることが問題だと思う。数少ない総合雑誌は、労働者が仕事の疲れを抱えながらも読めるように、社会問題をわかりやすく、自分の問題だと思えるような編集をしていないのではないか。いくつもの専門用語を誰もが熟知していることを前提に書かれ、故に権威主義的に見える記事がいくつも掲載される。「学習に手を抜くな」と言うのは正論だが、その記事、雑誌で一定の理解が完結できないために、読まれなくなるのでは、「残念」ですまされる現象ではない。

 著者の日本のメディアの批判として卓抜しているのが次の点だ。産経新聞を核とする右派メディアは、日本では(皮肉なことに)珍しい欧米的「社会運動連動型」「イデオロギー主張型」であり、右派の市民運動やネット言論と近い距離にあるという。一方、左派の市民運動は、メディアが「客観的中立公正」にこだわるあまり、メディア右派のような「一体感」に欠けており、それが左派言論の受け皿となる政治勢力の衰退に結びつくとの分析は多くの人が共有化すべき指摘だろう。

 さらに重要なのは日本の「メディア不信」が、他の国のそれと比べて、「業界の凋落」という業界ネタに収れんされ、市民にとっては他人事になってしまうとの考察だろう。その克服には市民がメディアに参加する意欲と権利意識を持つ必要があるとしている。実は日本のネットにおける議論は世界最低のレベルだそうだ。しかし、市民たちが思想や信念でつながる共同体をつくり、排外主義や商業主義に抵抗し得る言論空間を制度化し、デザインすることが、正しい「メディア不信」を生むという。

 「メディア不信」は民主主義の不信に連鎖するとの主張は意義深い。安倍政権下になり、日本の報道の自由は凋落の一途だからだ。本書はメディアという市民の共有財産をテコに、今の政治状況の本質と市民の目指すべき方向性とを鮮やかに説いてみせた。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・佐藤灯・金塚荒夫ほかです。


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