太田昌国のコラム : 政治家の言動と、私たちの恥ずかしさ | |
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政治家の言動と、私たちの恥ずかしさあるところで、「ロシア革命百年講座」を全6回で行なっている。ソ連体制崩壊から早や4半世紀が過ぎて、党と政府の下で厳格に管理されてきた秘密文書の公開も進み、ロシア革命は新たな視点で解釈・分析されるべき時期を経つつある。刺激的だ。前回は、最高権力者(独裁者)と文学者の関係の問題を考えた。スターリンも、一筋縄ではいかぬ人物だ。ボリシェヴィキに批判的な劇作家が書いた戯曲の舞台を観に、何度も足を運んでいる。「敵」を知り、その利用方法を考え抜くのだ。独裁者とはいえ、文学や舞台の世界にも浸る政治家がいた事実を思うと、日本の現在の政治家の文化的な「貧しさ」はどうしたものだろうと、と慨嘆する質問が出た。 確かに、と誰もが嘆息をつくだろう。若いころ、武田泰淳の『政治家の文章』を読んだ(岩波新書、1960年)。中身をよくは覚えてもいないが、政治家が書く文章の拙さをあげつらったものではない。政治的立場はどうあれ、深みがあり、読みでのある文章を残した政治家を扱ったものだった。1910年代から40年代にかけての政治家だったろう。 いきなり現代に戻るが、もっとも政治家になってはいけない人物が、奇怪な政治・社会状況の下で保守党の総裁になり、したがって首相の座が約束されたころ、彼は『美しい国へ』と題する本を出版した(文春新書、2006年)。仕方なく読んで、およそ政治の本質からかけ離れ、文化の「香り」がかけらもない中身に一驚した。その時も泰淳の本のことを、懐かしく思い出した。同時に思った。当然の末路だ、これは――と。 私は、1980年代後半、『諸君!』や『正論』などの右派雑誌に歴史的・実証的検証に堪えられない文章が(左翼への罵倒用語と共に)載り始めたとき、暗澹となった。こんな水準の文章が大手をふるって罷り通るなら、これはとんでもないことになるぞ、と思った。保守派言論の「劣化」をありありと感じ取ったのだ。それから30数年が経ち、あの時の水準が社会全体に行き渡って、今日がある。『新潮45』をめぐる今回の事態は、私からすれば、何を今さら、という思いしかない。民族的差別と排外を煽動する文章や言葉は、ずっと以前から、『週刊新潮』を持つ新潮社に限らず、文藝春秋や小学館はもちろん、ときに、ケント・ギルバートの本を出す講談社などの、大手の出版社の雑誌や単行本に躍ってきているではないか。排外主義と民族的差別感情を「隠し持つ」首相の存在や、それを露わに表現する在特会の存在は、積み重ねられてきたこれらの現象によってこそ担保されているのだ。 「劣化」の一例をさらに挙げよう。他人が漢字の読み違いをしたことをあげつらうのは、あまりよい趣味とは思えない。だが、何事にも「限度」というものがあろう。とりわけ、学ぶ機会が保証された人生を送ってきて、それなりの年齢になった人間の場合には。故・宮沢喜一元首相が安倍晋三氏について書いたことがある。議員に成りたての安倍氏が会議で「がいちてき、がいちてき」としきりに言うので、なんのことかなと思ってメモを覗くと、「画一的」と書いてあった、と。国会答弁で「云々」が「でんでん」となり、先の国連演説で「背後」を「せご」と読んだのには、一事が万事の「背景」(「せけい」とお読みください)があったと言うべきだろう。 国会質疑を思い起こせば、対話能力にも深い疑問が湧き出よう。あの答弁をしている人間が、国際会議や二国間会議では「日本国を代表して」何事かをしゃべっているのである。先月末のトランプ大統領との会談でも、あの口で、二国間の経済・貿易の在り方に関して何事かの約束をしてきているのである。 私は、ひたすら恥ずかしい。随所で無知をさらけ出す安倍氏のことを恥ずかしく思うのではない。こんな人物を6年近くも首相の座に就けたまま、引きずりおろすことが出来ない私たち自身が恥ずかしいのである。 Created by staff01. Last modified on 2018-10-10 14:12:27 Copyright: Default |