〔週刊 本の発見〕『近代日本一五〇年―科学技術総力戦体制の破綻』 | |
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毎木曜掲載・第48回(2018/3/15) 鋭い問題提起と自由で批判的な思考●『近代日本一五〇年―科学技術総力戦体制の破綻』(山本義隆、岩波新書、940円)/評者 : 志真秀弘明治以来の近代日本の150年をとらえた本書は、たいへんな労作であるだけではない。明治以後の科学技術の発展を歴史的に追いながら、それによって日本資本主義の発達の特徴を明らかにしている。しかも概論的にではない。定説にとらわれない鋭い問題提起と自由で批判的な思考に溢れている。科学技術の分野に疎い評者だが、引き込まれるようにして読んだ。 本書の冒頭で、幕末から明治にかけ、日本はいかにして欧米の科学技術に出会ったかが語られる。1860年(万延元年)蒸気船ポーハタン号で幕府使節団が渡米する。目的は日米修好通商条約の批准書交換だったが、同時に米国国力の視察でもあった。この視察の詳細な記録がのこされている。『航米日録』(玉虫佐太夫)がそれである。身分制社会の視野から近代社会のそれへと玉虫が変化していく様子は興味深い。このポーハタン号に随行した咸臨丸で福沢諭吉も渡米する。彼は、オランダ語と英語をすでにマスターしていて、蒸気(熱)の動力使用と電気の通信への使用に示される欧米のエネルギー革命を正確に捉えていた。 冒頭10ページ足らずで、明治の日本が「窮理学ブーム」といった流行現象まで伴いながら欧米の「科学技術」にどのように出会うかが、エピソード豊かに描かれる。その中に著者の「十六世紀文化革命」あるいは「十七世紀科学革命」論に裏打ちされたヨーロッパの「科学技術」をめぐる説明も織り込まれていく。しかも「少し脱線して」と武谷三男の技術の規定と著者の規定は異なることに触れられる(29ページ)。『福島の原発事故をめぐって』(みすず書房)でも書いたが「読み取ってもらえなかった」とある。評者も読み取れなかった一人だが、技術論あるいは科学論に関心のある読者は、ここから考える楽しみをそそられるに違いない。と、こんな調子で紹介すると紙数がいくらあっても足りない。新書版300ページという体裁だが、これは大作である。といって堅苦しくなく、密度は濃いが、けして難解ではない。 明治期の急速な資本主義化の成功の所以をあげながら、同時にそれは農村労働力の過酷な収奪(女工哀史)、農村共同体の無残な破壊(足尾鉱毒事件)の上に成り立ったものであることが指摘される。著者の立場が民衆の、人民のそれであることは、改めていうまでもない。それは全編を貫いている。 「第6章 そして戦後社会」で科学者の戦争責任を著者は問う(109ページ)。1946年結成の民主主義科学者協会(民科)は戦争責任を追及したが、「政治、経済、歴史、地理、哲学、農業」の分野に限られた。そして「文学は新日本文学会が、教育は日本教職員組合が追及したのだが、自然科学者と技術者だけは誰からも責任を問われなかった」。無傷で残ったのは科学だけではない。官僚機構も同じである。朝鮮戦争の特需、さらにベトナム戦争に乗じて軍需産業も復活する。官軍産そして学の複合体は日清・日露戦争をへて成立したそれを母型として、変容しつつ生き延びて今に至る。著者はそれをえぐりだす。 著者は奥付に「元東大全共闘代表」と記している。昨年秋、国立歴史民俗博物館で「『1968年』無数の問いの噴出の時代」が企画展示された。その時求めた図録にコラム「山本義隆と秋田明大」(黒川伊織)が載っていて、そこに最近京都での展示「ベトナム戦争とその時代」に来て、主催のひとりとして細々とした雑用をこなしながら雑談に応ずる気軽な山本の様子が描かれている。別の本、たしか『私の1960年代』だったかと思うが、山本義隆自身が、日大全共闘の人たちは運動の果てしない雑用を、てきぱきとしかも何気なくこなしていたと敬愛込めて語っていたのを読んだ。全共闘運動が全国各地に広がったのは、日大全共闘あってだったと私も思う。 本書は、その全共闘運動のはしくれだった私をいろいろに励ましてもくれた。 *「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・佐藤灯・金塚荒夫ほかです。 Created by staff01. Last modified on 2018-03-15 15:18:32 Copyright: Default |