ヘイトスピーチは命の問題〜在日ピアニスト崔善愛さん | |
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ヘイトスピーチは命の問題〜在日ピアニスト崔善愛さん林田英明*語りの合間にピアノを演奏する崔善愛さん=北九州市小倉北区で 2016年2月7日 たおやか――。ひと言で評するなら、そうなる。在日韓国人3世のピアニスト、崔善愛(チェ・ソンエ)さん(56)の語りと演奏は、心に真っすぐ入ってくる。だが、心の内奥は平穏ではなかった。2月7日、北九州市小倉北区で開かれた第21回崔昌華記念北九州人権集会に参加した40人は、善愛さんが昨夏発刊した『十字架のある風景』(いのちのことば社)も手にしながら聴き入った。 ●支配と管理の指紋押捺拒否 善愛さんにとって崔昌華(チォエ・チャンホァ)さんは父にあたる。朝鮮戦争の惨禍から逃れるべく日本に渡ってきた。だから善愛さんは、生まれも育ちも日本である。高校まで過ごした小倉が古里であり、原風景が著書にのぞく。父が牧師の傍ら、人権活動に没頭する姿に距離を置いて見ていたのは自然かもしれない。中学生の頃、父に「いつになったら帰化するのか」と問いかけてもいる。「帰化」つまり日本国籍を取得することに抵抗はなかった。14歳になって初めて外国人登録証を手にする際の指紋押捺も「当然」と思い、強く生きていこうと気持ちを切り替える。真面目に勉強し、働いて周囲に認められればいいと考えていた。 ところが、被差別部落の友人の告白に加え、六つ下の妹が初めての押捺に強い拒絶反応を見せたことで目覚める。「自分も本当はイヤだった」。差別を我慢することは、差別を繰り返すことにつながる。21歳の時、善愛さんは父や妹らと指紋押捺拒否を実行する。脅迫の手紙や電話が届いても、裁判での意見陳述に揺らぎはない。誰にでも分かる言葉で「私たちにできるのは、痛いといって表すだけです。その痛みに気づいてもらうために指紋押捺を拒否しました」「私は日本がどんな国であっても、私をどんなに苦しめても、日本は私が最も愛し、なつかしく思う国です」と訴えた。実のところは、父の闘いや在日の歴史を自分の中ではまだ消化できておらず、父の感情論にくみしえないままの決断だった。名前を常に朝鮮語読みすることと、日本人との結婚を許さないことの2点を厳命してきた父に対して「そんなに日本がイヤなら朝鮮に帰ったら」と、まるで脅迫状と同じような言葉を父に向けた、と振り返る善愛さんは、父や民族を理解できない負い目も意識しながら、とにかく一歩を踏み出した。支配と管理の差別を自ら打ち破るために。 結果は敗訴と再入国不許可。特別永住資格を剝奪される。ピアノの勉強のため渡米した善愛さんに法治国家は厳しい態度で臨んだが、全国に広がった押捺拒否の動きが2000年の制度撤廃に結びついたことを思えば、勝ち取った果実は小さくない。何よりも善愛さんにとって、無用な我慢に別れを告げて、自己の生き方をはっきり見いだした闘いだった。渡米と同時に起こした再入国不許可取り消し訴訟は一部勝訴を経て特別永住権を取り戻す。なお、指紋押捺拒否裁判のほうは、最終的には昭和天皇死去に伴う恩赦を拒否するも免訴となった。 ●朝鮮戦争とメモリアルクロス 「父が1世、母が2世。それで私が2.5世。四捨五入して3世と言ったりする」と軽く笑う。1世にも2世にも同化できない自分を持て余している冗談なのか。両親が亡くなった今は、こう言える。「1世が口を閉ざして語らなかったもの、語れなかったものは何かを探している」。朝鮮半島から渡ってきた人の、日本人に向けた形容しがたい視線。善愛さんはハルモニ(おばあさん)が言う「凍結された怒りと憎しみ」を肌で理解することはできない。それでも父が、牧師として神の愛を説きながらも在日の悲しみをにじませている様子が子ども心にも分かり煩悶した。愛知の大学生活で小倉から離れれば、その重さから逃げられるかと感じたものの、そうではなかった。ならば正面から見つめていくほうが精神的に楽だと気づく。 著書のタイトルである「十字架」は、小倉の小高い山にあるメモリアルクロスを指す。市街が見下ろせる絶好のロケーション。善愛さんが19歳の時、家族はそのそばに引っ越した。このメモリアルクロスが、実は朝鮮半島で戦死した国際連合軍の将兵の慰霊に建てられたものだと気づいた時、父の運命との不思議な交錯に驚きを禁じ得なかった。小倉から米軍の将兵が朝鮮戦争に向かい、無残な遺体で戻ってくる。その処理のアルバイト代は高額だったが、あまりの悪臭に2日と続かない。そんな経験を、会場に来ていた男性が口にしていた。その娘さんと善愛さんが中高時代の友人で、つながりを持てた縁である。小倉城そばの松本清張記念館が発行する「黒地の絵展」のパンフレットを手に入れた善愛さんは、男性の証言と符合する記述を読み上げた。 善愛さんの視点は、奇遇の驚きで終わらない。ここからが大事である。戦死者が国家の英雄として慰撫されることは、靖国神社と共通するのではないか。そして米国がやっていることを眺めると、戦地に送られる前に牧師が祈る「神様のご加護を」の下、兵士は戦場で何をしていったかを問わざるをえない。最近のイラク、アフガニスタンの惨状まで考えると、善愛さんはその祈りに疑問と怒りが湧いてしかたがないようだ。十字架が隠蔽に使われ、何も反省していない。朝鮮戦争で重要な地点だった小倉。憲法9条と米兵の遺体処理がなぜ共存できるのか、と頭の中は混乱を来すのだった。 ●内心の自由を求めたショパン 音楽は、善愛さんにとって何だろう。心を解放してくれる芸術であり、ピアノは掛けがえのないパートナーである。この日も、講演の合間にショパンを中心に6曲を披露した。なぜフレデリック・ショパンか。内心の自由を求めて20歳の時、祖国ポーランドを離れながらも自己を見失わなかった「ピアノの詩人」に、善愛さんは時代を超えて引かれている。それは、指紋押捺を拒否したため国家に再入国を許されなかった自分を投影しているようにも映る。「強制ではない」と言い繕って旧日本軍がさまざまな圧力をかけながら人間の良心や命をどのように奪ってきたかを善愛さんは語る。戦前と現在は途切れていない。君が代不起立で何度も懲戒処分を受けた元教員の根津公子さんの名前を出して、その抵抗に賛意を示した。善愛さんは、君が代が「愛国心」を美しく奏でる子守歌として押しつけられていると感じている。それを押しつけと思わないほどに感性がマヒしてしまえば、自発的な隷従が完成する。パリにいたショパンに、宮廷専属ピアニストとなるようロシア大使から求められても断った事例を挙げる善愛さんの視座は国境を突き抜けている。ポーランドがロシアに支配されても、ショパンは魂を売らなかった。 強いられる愛国心と排外主義は一体のものだ。それが在日である善愛さんには痛いほど分かる。「在日特権を許さない市民の会」(在特会)は、在日韓国朝鮮人ということだけで攻撃の対象にしてきた。ヘイトクライムは善愛さんの大学時代の友人にも及び、職場のネームプレートが切り刻まれてゴミ箱に捨てられ、娘は学校帰りに大人に取り囲まれて「朝鮮へ帰れ」と罵声を浴びる。腹蔵なく語り合えたその友人はカナダへの移住を決意したという。善愛さんの次女も数年前に怖い夢を見た。中学校で「この中に朝鮮人がいる。捜し出せ」と言う先生が友達とともに自分を追いかけてくる悪夢だ。娘の深層心理を探ると、どうやら最寄り駅の看板「在日韓国朝鮮人の参政権を許さない集会」に行きつく。毎日、登校時に目に飛び込んできたに違いない。 多数派の日本人には、その恐怖は実感できない。集会の質疑応答でも、押捺拒否時代から支援してきた日本人の男性が「ヘイトスピーチに対して身の危険を感じる在日とは根本的に違う」と自省していた。私自身も振り返ってみたい。昌華さんの人権活動を知ってはいた。善愛さんとは同い年。押捺拒否のニュースをテレビや新聞で見た記憶はある。しかし、そこで止まる。厄介な他人の荷物は誰かが持ってくれれば、と目をつぶっていた。善愛さんは『十字架のある風景』の中で、押捺拒否のきっかけの一つになった被差別部落出身者のおびえる日常について触れ、こう記している。「私は、『被差別部落』の存在を知っていながらも、そこに近づくことも、知ろうともしなかった。何もせずその前を通り過ぎていた」。やさしい言葉で私の胸を突く。 ●エルズニア、運命の4行詩 この日演奏した曲で異質だったのは「エルズニアの子守歌」だったろうか。両親を強制収容所で亡くした9歳の少女が、マイダネクで自らの運命も予期しながら生きた証しとして靴底に4行詩とメロディーのメモを残した。 むかしちいさなエルズニアがいた なぜ善愛さんはこの曲を選んだのか。詩を紹介した『記憶を和解のために――第二世代に託されたホロコーストの遺産』の著者、エヴァ・ホフマンさんに3年前、会って話を聞いているのだ。ユダヤ人の両親の下、ポーランドに生まれたホフマンさんは作家として現在イギリスに住む。ホロコーストを経験していない第2世代は、重い口から過去の悲惨な事実がこぼれ出る第1世代の言葉や思いを未来へつなげる使命がある。善愛さんはホフマンさんの話を同化するように紹介する。「体験していないから知らないとは言えない。経験していないからこそ、見えないからこそ恐ろしい。それを背負う痛みが第2世代にある。ドイツやロシアが殺したと考えがちだが、当時のユダヤ人にとってポーランド人への憎しみのほうが深い。同じ国の隣人から殺されるほうが怖い」。ナチスに協力した同胞への恐怖が心に強く刻まれるということか。「ポーランドにユダヤ人は恐怖のあまり行けない。行きたくても行けない。マイダネク収容所の入り口に立った時、このメロディーが聞こえた。虐殺の証言以上に衝撃を受けた」。そうホフマンさんは善愛さんに話したという。 戦時中、「上からの命令で仕方がなかった」という釈明は、虐殺する側に共通する。しかし、日本とドイツの違いを挙げるならば、「お父さんはあの時どこにいて何をやったのか」と若者が親を告発して世論を動かしてきた点である。1985年、ワイツゼッカー大統領(当時)が「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と歴史を直視して戦争責任を自覚するよう求めた有名な演説に比して、日本での動きはあまりにも弱い。善愛さんは、そこに天皇制の無責任体制を見いだす。責任は他人に転嫁され、拡散し、消えていく。国家が起こす戦争も、災厄に矮小化され、忘れ去られる。日本の近代化以降を振り返っても、その歴史の評価さえ心もとない。例に挙げたメモリアルクロスだけでなく、遺跡や屍は埋もれたままだ。善愛さんは「たった100年の歴史さえ分からないのに、簡単に未来を語れるのか」と語気を強める。安倍晋三首相がしきりに説く「戦後レジームからの脱却」も「戦前レジームへの回帰」と見抜いていた。 善愛さんは、殺される側の一人の人間として恐怖を覚えている。隣人を変容させてしまう純化政策がもたらす惨状。ポーランドと在日の歴史は別物とは思えない。だからこそ善愛さんは話したいのだ。それを乗り越える手段に、内奥の声や感情を一気に表現できるピアノがあった。世界各地の音楽祭や国内外での演奏活動は、善愛さんを善愛さんたらしめるのだろう。 ●日本に住む人の良心を信じて 昌華さんには「日本を愛したい、日本人の良心を信じたい」という強い願いがあったと善愛さんは振り返る。日本国籍を取得することなく一生を終えたが、その人生を少しずつ理解できる経験と年齢を重ねてきて思う。同様に日本国籍を申請しなかったのは、民族の誇りを取り戻そうと葛藤の日々を送った父の姿をそばで見てきたからだ、と。裁判を通して法務省や日本政府の朝鮮人蔑視の感情が総体として伝わってくる。晴れやかな気持ちで日本国籍を取得できない限りは、韓国語も話せない在日としてあるがままアイデンティティーを探し求めて生きていくしかない。『十字架のある風景』の冒頭で善愛さんは血を吐く思いでこう記す。 「日本社会に『在日』が存在することが、諸悪の根源であるかのような空気すら生まれた。いや、空気だけではない、『ヘイトスピーチ』が蔓延するこの国で、その矛先が自分に向かないようにと祈りながら生きている人が、どんなに多いことだろう。自分の家族のルーツを隠すことでしか生き延びられない。そして、隠してしまう自分の弱さを恥じ入る」 一方、在特会初代会長、桜井誠氏は『大嫌韓時代』で「在日という異常な反日国家の国民が、この日本に50万人以上も存在しているという現実に、ようやく日本人は向き合おうとしている」と高らかに闘争宣言を記している。観光マナー欠如や犯罪者、強硬な対日国家政策の一部をもって50万人の在日を丸ごと敵視してどうしようというのだろう。通名(日本名)使用が“特権”だと思い違いをする前に、葬儀ですら大半が本名を名乗れない現実を知ってほしい。ヘイトスピーチを命の問題と深刻に考える善愛さんだが、それでも希望を捨てずにこう語る。「自分の思いを受け止めてくれる人たちに何年もかかって出会えた」。この国に住む人たちの良心が、排外主義をきっと打ち破ると信じている。私は善愛さんの良き隣人となれるだろうか。 Created by staff01. 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