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「あらしを呼ぶ少女」菱山南帆子さんが歩んだ道〜講演に笑いと共感

     佐々木有美

動画(菱山講演録 46分)

 国会前の「戦争法案反対」集会で、大活躍した菱山南帆子さん(26歳/写真)。元気一杯のコールや司会で、多くの人を魅了した。その菱山さんの講演会が11月28日、東京・八王子であった。主催は<河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会>。40人余りが集まった。2005年、「君が代」不起立で停職処分を受けた中学校教員の根津公子さんは、学校門前で抗議をしていた。このとき、根津さんの好物のおはぎを持って支援にかけつけたのが、当時高校1年生の菱山さんだった。この日は、菱山さんがなぜ市民運動にかかわるようになったのかを知る貴重な機会となった。講演で次々に飛び出すエピソードに会場は笑いと共感の渦に包まれた。

 1989年八王子市に生まれた菱山さんは、本や映画が好きな子どもだった。小学校3年のとき妹尾河童の『少年H』を読み衝撃を受ける。作中の戦争に染まってゆく社会が、現実と二重写しになった。また、登場人物の一人が思想を貫く姿に「ほれぼれ」したという。その彼女を大きく変える事件が小5のときに起きる。学級崩壊、そして担任教師の差別発言だ。座らない生徒を担任が「座らない障がい者」と呼んだ。怒った菱山さんは「差別を許さない」と、教室を出て廊下で「自分たちのクラス」を作った。24人のクラスメートのうち5人が参加した。

 混乱する事態に、担任への橋渡しをしてくれる先生が現れた。それが後々にも彼女に影響を与えた奥田先生だ。春にはクラスも落ちつき、卒業式に在校生として出席することになった。音楽の先生が「君が代」の意味を教えてくれた。親にも相談し、立たない選択をした。練習のとき、最初は足がふるえたが、本番でも座った。このとき学校で不起立をしたのは、奥田先生と菱山さん二人だった。小6のとき、アメリカで「9・11」テロが起こった。ハリウッド映画のような光景に父親は「これだけがすべてではない。この背景には貧困や差別がある」と言った。このときから「社会の正義は悪かもしれない」と思うようになった。

 リベラルな校風で知られる和光中学に入った菱山さんは、学校のすばらしさとともに、閉鎖性も感じる。「ほんとうの学びは自分の足にかかっている」と思い、イラク戦争反対の集会に参加し、ビラを作って、学校内外でまき始めた。当時のビラには「イラクの貧しい人々、赤ちゃんや私達と同じ年の子が同じ星に生まれながら、アメリカの爆弾によって死んで行くことを他人事のように見ていて良いのでしょうか」という一節がある。その一途な思いに胸をうたれる。米国大使館前に2ヶ月間座り込み、「スーパー中学生」と呼ばれた。高校時代には、反戦の高校生ネットワークを作り、反改憲・「君が代・日の丸」反対運動も行った。

 そんな菱山さんも運動を離れた時期がある。「おしゃれもしたい。カラオケにも行きたい」という歳相応の気持ちからだった。しかし、大学3年のときに3・11原発事故が起こり、黙っていてはダメだと再度立ち上げる。しかし今までのように「こうあるべき」という運動ではなく、今度は持続可能な運動を考えた。笑っても、おしゃれしてもいい運動。なぜなら生活の中に入っていかなければ、運動は広がらないからだ。

 菱山さんは、「あらしを呼ぶ少女」と呼ばれた自分がこのような道を歩めたのは、親と先生たちが自分を全力で受け止めてくれたからだと言う。彼女が座右の銘のように話す「一人ひとりが自分を見つめ、変わることが大事」と言ったのは奥田先生だった。彼女はまた、「闘う人を孤立させない」「小さな立ち上がりを見逃さない」ことがいかに大切か、繰り返し語った。そこには、26歳の菱山さんが精一杯闘ってきた経験が息づいている。「戦争法廃止の運動はいま中締めの時期。根を下にむかって生やすときだ。職場・地域で運動を作り出そう」と呼びかける彼女にたくさんのエネルギーをもらった。


Created by staff01. Last modified on 2015-11-30 16:39:06 Copyright: Default

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