松本昌次のいま、読みつぎたいもの(第一回)〜竹内好「インテリ論」 | |
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竹内好「インテリ論」この論考の巻頭には、カルル・レヴィットの『ヨーロッパのニヒリズム』からの引用が、題辞(エピグラフ)として掲げてあります。要約すると、日本のインテリ(知識人)は、二階家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりしているが、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでヨーロッパの学問が、ずらりと並んでいる。しかし上下を行き来する梯子はない、疑問だというのです。二階には、むろんマルクスやレーニンも並んでいるでしょう。ここに、竹内好(1910〜77・写真)さんが、生涯をかけて苦闘した主題が示されているといっても過言ではないかも知れません。すなわち、竹内さんは、日本近代における西洋理論の物真似=外発教養主義ではなく、アジア・日本を基軸とした自力の健全なナショナリズムを、魯迅の翻訳や多くの著作をとおして考え抜いたのです。それは、竹内さんの研究者としても知られる、中国社会科学院の孫歌さんの言葉をもってすれば、まさに「火中に栗をひろう」ようなものでした。しかし、左翼陣営に属するインテリ集団からも、竹内さんは一介の「ナショナリスト」としてしか遇されませんでした。日本の戦後にとっては不幸なことでしたが、竹内さんにとっては光栄なことでした。 いうまでもなく、民衆は、一階を生活基盤としています。しかしほとんどのインテリは、一階で日々生きていながら、こころ(思想=生きる指針)は、もっぱら二階にあります。竹内さんは書いています。「日本のインテリは民衆と共通の生活の地盤に立たないで、浮き上がっているから、その知的能力を民衆の代弁に役立てることができない」と。しかも悪いことに、民衆から隔絶された日本のインテリは、かくして畸型化し分裂し、みずからの知的活動は、現実とかかわりなしに進行し、さらに借り物の外来思想や運動に流行に応じて飛びつくことになるのです。竹内さんの苦渋に満ちた指摘です。 この論考は、敗戦後間もない1951年、実に60数年も前に書かれたものです。そこには、日本ファシズムへの抵抗運動が何ひとつ組織化されなかったことへの、インテリの無力さへの自覚と、みずからへの自己批判がこめられています。そして「古いものが、古いもののなかから生まれる力によって、みずからを倒すのでなければ、真の改革は実現されない」(「ノラと中国」)ことを信じたのです。それにかかわるインテリの役割を考え抜いたのです。上からや外からの思想やイデオロギーではなく、この日本の内から底から「生まれる力」とは何か。それらとインテリはどう生きねばならないか。 竹内さんは、インテリに、つぎのように要望します。「インテリは、個人としても全体としても、まず自己の分裂状態を自覚し、統一を心掛けるべきだと思う。それには、失われている生産への信仰を回復することが必要だ。一切の寄食を能うかぎり努力して止めていくことが大切だ。自主的になること、自分自身になること、それが第一歩だ」と。そして、ハーバート・ノーマン氏によって正当に評価された、二百年前の独創的思想家・安藤昌益をこそ、インテリの模範として論じ稿を閉じています。 孫歌さんがいうように、失敗や“負”の制約を恐れず、「概念から出発しない勇気と能力」をもって、「同時代史の状況性から真の思想課題」を引き出し論じた竹内さんを、あらためて読み直すべきときではないでしょうか。竹内さんが生きていたら、先頃来の安保法制反対の国会前の新たなデモの動向に、どんな感想を持たれたか、お聞きしたい思いやしきりです。 <引用文献> Created by staff01. Last modified on 2015-10-01 14:44:22 Copyright: Default |