反原発小説の先駆者「井上光晴」を現代に問う
牧子嘉丸
秋沢陽吉「井上光晴ー虚構のありか」は、井上の反原発小説の先駆性を鋭く論じた
力作評論である。かつて、「地の群れ」などでアクチュアルな問題を前衛的な手法で
描いて状況を厳しく問うてきた井上も、高橋和巳などと同様、時代の「軽小短薄」化
とともに忘れさられつつある作家だった。(写真=井上光晴)
しかし、2011年3月11日の福島原発事故の大惨事が、その忘却された作品を
よみがえらせたのである。著者の秋沢自身が福島県海岸通りの北に位置する地方都市
でこの震災に遭遇し、被爆もしている。同時に著者はかつて井上が主催した山形文学
伝習所で学び、亡くなるまで教えを受けてきた文学生でもあった。
その秋沢をして、井上の反原発小説の神髄に触れ得たのは、3.11の被災以後だ
ったと告白する。これは実際恐ろしいことである。人間は自分が体験しないことはつ
いに理解できないのか、という問いかけでもある。この評論は自身の被災体験をもと
に井上作品が現実をしのぐ勢いでせまってくる創作の秘密を明らかにしている。
井上の核文学の金字塔は、反核小説「明日ー一九四五年八月八日長崎」であり、反
原発小説は「西海原子力発電所」である。前者は10年、後者に至っては20年以上
も埋もれていた作品だが、震災事故を契機に再刊されたのである。秋沢はこれらの作
品の驚くべきリアリティーと想像力を内容に則して論じているが、井上独特のねじれ
た作品構造がていねいに説明されていて、はじめての読者にも手がかりになるだろう。
かつて、『全身小説家』で「ウソつきみっちゃん」と呼ばれ、その自伝の多くに虚
偽があると、死後非難された井上だが、秋沢はそこからも目をそらしていない。
それは悲しいコンプレックスからくる悲しいウソからはじまって、やがてそれを創作
としての虚構にかえていったのではないか、と秋沢は指摘する。不思議な本物の想像力
を井上が手にした所以である。そして、生涯、疎外され虐げられ踏みにじられてきた人々
への共感が、その文学の根本にあったと論を結んでいる。
3.11以後、あれだけ多くの被害者の悲劇と悲嘆を目の当たりにしながら、原発反対
などサルなみの知能と非難した、あの伝説の「痴の虚人」となんという違いだろうか。真
に
人民に依拠した井上文学再興のきっかけになってほしい評論である。
なお、この作品は「2015年労働者文学賞」を評論部門で受賞した。また著者の秋沢
氏
はレイバーネットの会員でもあり、現在福島の現状を痛憤をこめて取材してい
る
ことも付け加えておきたい。
(本書の入方法は「労働者文学会」のホームページで)
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Last modified on 2015-07-11 15:35:14
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