木下昌明の映画批評 :マチェイ・ピェブシツア監督『幸せのありか』 | |
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●マチェイ・ピェブシツア監督『幸せのありか』 怒りの叫び「私・植物・違う」〜「人間の尊厳」勝ち取った実話(C) Trmway Sp.z.o.o Instytucja Filmowa “Silesia Film”, TVP S.A, Monternia.PL 2013 こんな人生もあるのか――。 昔、黛ジュンの「雲にのりたい」をよく口ずさんだ。それが障害者による作詞だと、本誌連載中の牧太郎さんのエッセーで知って感動したことがある。障害者の彼は、窓から、ゆっくり流れる雲に、その思いを託したのだろうか。 マチェイ・ピェブシツア監督『幸せのありか』の主人公・マテウシュは脳性マヒの障害をもっている。彼は夜空の星々を眺めるのが好きだ。幼いころ父親から、「星はケンカみたいに動き回っているんだ」と教えられて、天空のロマンに魅せられるようになった。 舞台はポーランドのどこか。時代は、社会主義体制が民主化されていく1987年から2000年代にかけて。実在の人物をドラマ化した。彼を演じた俳優の見事なこと。 主人公は言葉がしゃべれず、奇声を発するだけで、手足は縮かんだように、物を握ったり歩くことができず、背中を床につけてはいずる。子どものころ、医師からは残酷にも「植物状態」と診断される。 しかし、その内面には“知性”があふれている。窓から向かいのアパートの人間模様を観察し、その思いを彼自身がナレーションで語るのでよくわかる。観客も彼の視線を介して、健常者の(時には身勝手な)振る舞いを観察するようになる。 彼は早くから女性の胸に興味を抱き、胸の谷間をのぞき見たりする。ある時、施設にボランティアでやってきた若い女性が、「彼とは目をみると通じ合える」と、自分の乳房さえ握らせる。また彼は、父親に怒りの感情の大切さを教わり、ラスト近くで面接官の不当な発言に怒り、立てない足で立ち、握れない拳を握り、テーブルを叩くのだ――それらのシーンがとても印象深い。 やがて彼は、まばたきによって健常者との対話もできるようになり、人間としての尊厳を勝ち取る。その彼が最初に発した言葉は「私・植物・違う」だった。(木下昌明・『サンデー毎日』2014年12月21日号) *12月13日より東京・岩波ホールにて公開。 Created by staff01. Last modified on 2014-12-12 13:38:56 Copyright: Default |