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松本昌次のいま、言わねばならないこと〜小さな兆候こそ
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第16回 2014.7.1 松本昌次(編集者・影書房)

小さな兆候こそ

 いまから30年ほども前に書かれた木下順二さんのエッセイに、「小さな兆候こそ」というのがある。わずか数枚たらずの短いものだが、そこで木下さんは、丸山眞男さんの『現代政治の思想と行動』(未来社)のなかで紹介されている一つのエピソードを借りて、ほぼ次のように書いている。

 かの第2次世界大戦前夜、ナチスが政権を獲得した1933年のある日、ドイツ人の商店に「ドイツ人の商店」という札が張られた。そしてしばらくしたある日には、ユダヤ人の店先に、それを示す「黄色い星のマーク」がさりげなく張られたのである。しかしそれが一体何を意味するのか、日常の生活に忙しく追われている一般市民には、何ひとつわからなかった。しかしそれから7年、あのアウシュヴィッツなどでのユダヤ人大虐殺が始まったのである。すべては、はじめの「小さな兆候」が予告していたにも拘らず。そして、日本が、かつて太平洋戦争にまでのめりこんでいった全過程もまた、これと類似していることを木下さんは指摘してもいるのである。

 さてところで、いまわたしたちは、「小さな兆候」どころが、相次ぐ「大きな兆候」のかずかずに直面している。それらが「予告」するものは一体何か。さすがに、かつての戦時中の天皇制ファシズム国家体制下とは異なり、戦後の平和憲法を軸足とする民主主義運動の担い手たちによる抵抗運動が、日々、くりひろげられている。しかし、木下さんのいう一般市民は、相変わらず「日常の生活に忙しく追われている」のである。その間隙を縫って、政治支配者が数をたのみ思うように国家体制を牛耳るのは、ナチスのみではない。しかも狼は、いつも羊の皮をかぶってやってくるのである。

 これはかつてどこかでちらりとふれたことがあるが、もう40年ほども前、日本で公開されたライザ・ミネリ主演のアメリカ映画『キャバレー』の忘れられない一シーンがある。1930年代、まさにナチス台頭の前夜のベルリン。ある日、公園で「一般市民」が楽しく団欒していると、少年合唱団の美しい歌声が流れてくる。カメラははじめ、少年たちの可愛い表情をとらえているが、ゆっくりと少年たちの肩から腕にカメラがパンすると、そこには、ナチスの象徴であるハーケン・クロイツの腕章が巻かれている……。「一般市民」は歌声に耳傾け、誰一人、その「小さな兆候」には気づかない。毎日のように、誰かに向かって片手をかざし、にこやかな微笑を満面に浮かべ、颯爽とテレビに登場する安倍首相を見るたびに、わたしは、この映画を思いおこす。羊の皮の下には、何が隠されているだろうか。

 木下さんは、歴史(過去)をふりかえる時、そこに「もしも」(if)という仮定を立てるのは無意味だという一般的な常識に対し、そうではなく、歴史に「もしも」を持ちこむことの大事さを語ってもいる。――「あの時もしもこうしていさえしたらばと、痛恨の念を以て自分の過去をふり返ることは、現在の自分の姿勢と未来への自分の歩みとを点検し、反省し、それを推進させる力になるだろう」と。木下さんは、謙虚に「自分」と言っているが、それを「日本」と置き換えてみればどうだろうか。

 「小さな兆候」であれ「大きな兆候」であれ、わたしたちは、鋭く敏感でなければならない。「もしもあの時」と、再び「痛恨の念」で歴史をふり返らないように。ブレヒトが言うように歴史は必然ではないのである。

   


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