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木下昌明の映画批評〜楠山忠之監督『陸軍登戸研究所』
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●楠山忠之監督『陸軍登戸研究所』
「風船爆弾」と「ニセ札」の記憶――戦争の知られざる暗黒「登研」

 今年も8月15日がやってくる。“戦争神社”とよばれる靖国神社も人々でにぎわおう。あの戦争は何だったのか? それを知る上で重要なのが「陸軍登戸研究所」の存在である――と知ったのは、楠山忠之監督の同名のドキュメンタリーによってだった。

 この映画は2006年、日本映画学校の講師だった楠山監督が授業の一環として学生たちに学校から近い「登研」の調査・取材を提案したのがきっかけだった。以来、6年の歳月をかけて完成した。

「登研」は戦時中、神奈川の多摩丘陵にあり、武力戦とは異なる、もう一つの戦争ともいうべき謀略戦研究、秘密兵器開発を手がけていた。スパイ用兵器、細菌兵器などの実験場だったのだ。要人暗殺のために中国人の生体実験も行った。映画は風船爆弾とニセ札造りに焦点をあて、当時の多くの関係者に取材している。彼らは半世紀以上前の体験を昨日のことのように事細かに語るのだから、見ていて興趣はつきない。

“最終兵器”と呼ばれた風船爆弾は直径10メートルの巨大な風船に水素ガスを注入、偏西風に乗せて米国まで飛ばす。これがなんと9000個以上も作られ、米国のどこかに1000個は落ちた、と。原料は和紙とこんにゃく糊というから、いかにも日本的ではないか。

 風船は千葉の一宮海岸などから早朝飛ばされた。その光景を目撃した老婦人は「毎日空いっぱい揚げんだから、こんなに揚げたっていくつ届くんだかと思ってた。クラゲのようにぶわりぶわり流れていくんだよ」と話す。

 映画で最も興味深かったのは、ニセ札造りの証言だ。一人が「ニセ札って簡単に出来んですよ」と、その工程を明かす。ニセ紙幣を中国に持ちこんで経済撹乱した特務機関の将校は、それでいかに物資を買いあさったか面白おかしく語る。

 戦後、「登研」の関係者は米軍に技術提供することで誰も「戦犯」に問われなかった。こうして「登研」の仕事は形を変えて戦後に引きつがれていった(海軍の特務機関にいた児玉誉士夫は、ニセ札で買い占めた金塊などを、戦後、鳩山一郎の自民党に全部政治献金し、政界の黒幕としてふるまったという話も出てくる)。(『サンデー毎日』 2013年8月18・25日号)

*8月17日より東京・渋谷ユーロスペースほか全国順次公開

〔追 記〕 このドキュメンタリーは、伴繁雄著『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房出版)を基につくられている。「登研」の正式名称は「陸軍第9技術研究所」で、いまの明治大学の生田キャンパスにあった。その資料館が同地に建てられているが、当時1000人が働いていたという。所長は工学博士の篠田鐐中将で、伴はその第2科第1班に軍人技術者として所属した少佐である。彼は細菌戦で有名な731部隊の石川四郎部隊支配の南京で、中国人捕虜の人体実験を多数行った。戦後、深い悔悟と自責の念にかられ、したためたのが、この手記といわれる。なお、日本映画学校は今年の3月閉校になった。そんななかで、これは貴重な仕事といえよう。

*本文は転載にあたって若干加筆した。


Created by staff01. Last modified on 2013-08-13 20:47:20 Copyright: Default

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