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意見陳述書(木村まき) : 横浜事件被告の名誉回復を実現したい
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*以下は、横浜事件国賠訴訟第一回口頭弁論で元被告木村亨さんの妻である木村まきさんの意見陳述です。写真は、木村まきさん。

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2013年2月21日
東京地方裁判所民事30部御中
横浜国賠第1回口頭弁論 意見陳述
        横浜事件国家賠償請求原告 木村まき

 私の心と身体に触れてほしい。夫であり横浜事件元被告木村亨の心と身体に触れてほしい。そう強く願います。胸や背中に聴診器を当て聴き取り、触診し、打診し、問診し、心と身体の声を聞いてほしいのです。

 私も木村亨も、長年月に亘り横浜事件の裁判を行ってきました。いろいろな経過を辿りましたが、判決などで、私や木村亨の身体の中に分け入り、私どもの心に触れたものが果たしてあったでしょうか。私も木村も、赤い血が音立てて流れている一人の人間です。

 裁判の経過を、ここで詳細に述べることはできませんが、いまだ司法から謝罪もされず、名誉回復もなされていません。そこで昨年12月21日に、国家賠償請求を提訴しました。

 この裁判の中で、横浜事件とはどんな事件だったのかをあらためて明らかにして、木村亨達の名誉回復を実現させたいと願っています。

 敗戦直後の、5年間に及ぶ裁判。86年からの第一次再審請求。そして、第三次再審請求を、木村亨の死の1か月後に、私が再審請求人となり、8名で横浜地裁に提訴。2003年、横浜地裁で再審開始決定が出て、東京高裁が支持し、2005年、横浜地裁で再審公判が開かれました。実体審理は行われず、2006年、地裁は免訴判決。そして2008年、最高裁で免訴が確定しました。免訴とは、誰の罪も問わずに、うやむやにすること。理不尽きわまりのないことです。

 刑事補償請求を行い、2010年、金額的には請求通りの決定が出ました。しかし、私は気持ちが晴れるどころか、ますますどんよりと曇っていきました。こういう結末がどうしても腑に落ちないのです。心も身体も納得ができません。

 刑事補償決定文の「結論」部分には「・・大赦及び刑の廃止という事実がなく、再審公判において裁判所が実体判断をすることが可能であったならば、被告人4名とも無罪の裁判を受けたであろうことは明らかであり、刑事補償法25条1項の『無罪の判決を受けるべきものと認められる充分な事由』があったものということができる」と。

 大赦および刑の廃止があろうと、裁判所に実体判断をする気さえあれば、それができたはずですし、無罪判決が出せたはずです。

 そもそも、いわゆる横浜事件とは、どのような事件なのでしょうか。横浜で何か事件が発生したわけではなく、治安維持法1条・10条違反容疑にされた人々が、神奈川県警特高課により横浜市内の各署の代用監獄に入れられたので、そう名づけられたと聞いています。

 この国の侵略戦争をなんとか食い止めようと思っていたジャーナリストや研究者達60名ほどが、狙い撃ちされました。加害者は誰か、被害者は誰か。元被告の畑中繁雄さんは「犯人が被害者を裁いた事件」と、言い当てました。横浜事件のキーワードは戦争です。私は戦後生まれで、あの時代の空気を吸ったことすらありません。しかし、人殺しの戦争は二度と再び行ってはなりません。そのためにも司法はこの横浜事件に、まっさらな気持ちで向き合ってほしいと願います。司法の戦争責任を認め、反省して、出直してください。横浜事件は大昔に起こった過去の事件ではなく、きわめて今日的な「生きている事件」です。

 木村亨達の受けた被害を絞り込むと、拷問および国に保管義務のある判決文など裁判資料の湮滅です。本日の意見陳述では、拷問を中心に述べます。

 拷問とは、肉体的な痛みとともに、精神的な苦痛を与えるものです。人を辱め、生きる力を奪うものです。「この聖戦下に、よくもやりやがったな。小林多喜二の二の舞いを覚悟しろ」と口々に叫びながら、土間に座らせた半裸の木村亨に対して、特高は、竹刀、木刀、椅子のカケラ、荒縄などで襲いかかりました。失神すれば、バケツの水を掛けて。その繰り返しで、追い込まれ、虚偽の自白をせざるを得なくなりました。その痛みと屈辱は、木村亨の生涯から消えたことはなかったと思います。獄死者は4名。出獄直後1名死亡。

 私は木村亨の痛みを想像しようとしました。けれど、私の想像など、生ぬるいものだろうと思います。気持ちがわかるなどと安易に言えるものではないと思います。

 木村亨は、43年の不当逮捕時には家庭をもっていて、両親とともに埼玉県与野に住んでいました。妻は、弁当をつくり横浜拘置所まで届けましたが、特高は「細君が弁当を作ってきたけど、お前に食わせるわけにはいかないと、木村の目の前で平らげたそうです。 こういうことを平気で行えるのですね。元被告の森數男さんは、両手を後ろ手に縛られて、動物のように、口を食器に近づけて食うことを強いられたと聞きました。

 横浜大空襲の時は、独房の鍵を開けてほしいと頼んでも、聞き入れられず「お前たちはトンカツにしてやる(まる焼けにする)。どさくさに逃げる奴にはライフル銃だ」と。拷問の卑劣さは言うまでもないことですが、人間の尊厳を奪い尽くすいろいろなやり口も、忘れたくてもとうてい忘れることのできないことだと思います。

 木村亨は、糟糠の妻との生活の中で、横浜事件のことは、いっさい口にしなかったそうです。夫妻で被害に遭った川田寿さん、定子さんも、そうだったと。記憶を追い払おうとしても、脳裏に、身体じゅうにこびりついているからこそ、なのでしょう。木村亨と私との間でも、拷問については口に出すことはありませんでした。木村亨は、伝え残す責任を感じて講演や発表原稿では、拷問体験を語り、書いています。

 横浜事件の元被告が拘置所に入っていた期間は、それほど長いとは言えないかもしれません。木村亨の場合は833日です。ほかの方もほぼ同様です。

 しかし、横浜事件の元被告は、このくらいの日数だけ被害を受けたわけではありません。事件から43年も経った86年4月30日、拷問を受けた夢を見て目が覚めたと、木村亨は日記に書いています。

 91年8月、森川金寿弁護士、木村亨と私など横浜事件関係者、袴田巌死刑囚の支援者、甲山事件の被告と支援者30名ほどで「日本の代用監獄とえん罪を訴える会」を結成し、国連欧州本部に行きました。国連人権委員会の傍聴とロビー活動が主な目的であり、木村亨の受けた拷問場面を再現し、人権NGOに見ていただくことも、重要なことでした。ジュネーブのホテルには夜、到着しました。長旅でしたが、夕食のあと、すぐにホテルの一室に10人ほどが集まり、早速、拷問場面のリハーサルをしました。 

 日本から、竹刀、木刀、荒縄などを手分けして持参しました。特高役が数人で木村亨を取り囲み、怒鳴り声を上げながら、凶器を手に、襲いかかる仕草をしました。特高役は、気恥ずかしそうでした。木村は苛立ち「こんなもんじゃない!」と、叫びました。木村の一喝で空気が一変し、皆が本気になり、仕草に力を込めました。振り上げた荒縄の束が、木村の身体をかすめ、木村は「痛い!」と、悲鳴を上げました。息を飲んで立ち会っていたことが、昨日のことのようです。

 木村亨は98年7月14日に死去しました。その年の5月26日のデスクダイアリーには、26日の数字を、赤いマジックで大きな三角形で囲み、55年前 拷問 1943・5月 と書き込んでいます。どれほど心身を切り刻まれた出来事だったのかとあらためて思ったものです。

 今は、PTSDとかフラッシュバックという用語がありますが、大きな恐怖を味わった人が、そこから解放されるのは容易なことではありません。

 拘留または拘禁されていた日数だけが被害を受けた日数というわけではなく、死去するまで生涯にわたりそれは継続していたといえます。

 国に保管義務のある裁判資料の湮滅も、大きな犯罪です。それを棚に上げて、これらがないことを理由に、司法は再審請求を棄却し、裁判を長期化させました。

 「犯罪者として一生を終えるのは耐えられない」「汚名を背負っては死ねない」と言いながら、木村亨など元被告達は、有罪判決を受けたまま、再審開始決定が出されたことも知らないで、次々と鬼籍に入りました。刑事補償が出たからといって、解決したわけではありません。木村亨は、骨の姿となって、我が家にいます。横浜事件とは何だったのか、自分達はなぜ有罪判決が言い渡されなければならなかったのかを問い続けながら。

 この国賠裁判で初めて名誉回復を獲得した時、木村亨は、自分は主権者であり、誰の支配下にもなく、かけがえのない、冒されることのない人権を持った人間であることを証明できたことを宣言し、そして、ふんわりとした土の下で眠りにつくことができるだろうと、私は思います。


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