飛幡祐規 パリの窓から「恐怖感を煽る政治からの解放ーフランス大統領選」 | |
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恐怖感を煽る政治からの解放ーフランス大統領選5月5日、日本で稼働中の原発がゼロになった歴史的な日につづいて、6日にフランスでもめでたい出来事が起きた。大統領選の第二次投票により、社会党候補のフランソワ・オランドがサルコジを破ったのだ。第五共和政憲法により大統領が公選になった1958年以来、左翼の候補が大統領に就くのは実に17年ぶりだ(1997〜2002年のジョスパン左翼連合政府はシラク大統領との保革共存)。6日の夜、左派の市民はバスティーユ広場に集まって勝利を祝った。移民系の人々も含む老若男女で広場は超満員となり、付近の路上にも大勢の人が溢れた。 わたしは1981年の5月、ミッテランが当選したときバスティーユに繰り出した若者のひとりだったが、そのときと今回では状況がかなり異なっている。まず今回、人々の歓びはオランドと左翼への期待・希望というより、サルコジを権力の座から追い出した安堵のほうが強い。また、ヨーロッパを覆う経済危機の状況で、オランドの政権が真の社会変革をもたらすだろうかと懐疑的な人も多い。それでも若者をはじめ多くの市民が街に繰り出したのは、サルコジに対する不満、嫌悪感、拒絶反応がつのっていたせいだろう。例年の3〜4倍も動員した5月1日のメーデーの際も、「サルコジを追い出せ!」とか、チュニジアのジャスミン革命でベンアリ政権に対して使われた「デガージュ!(とっとと失せろ!)」など、反サルコジのスローガンが目立っていた。 わたしはジスカール・デスタン以来4人6期にわたる大統領、数多くの首相による政府のもとで暮らしてきたが、正直なところ、サルコジ政権(首相の権限が感じられないほど大統領のひとり芝居だった)のこの5年間ほど、共和国が破損され堕落し、民主主義が後退したと感じたことはなかった。サルコジが再選されていたら、共和国も民主主義も重大な危機に陥ったのではないかと思う。 ごく一部の富裕層を優遇し福祉・公共サービスを解体するネオリベラル政策、低・中所得層ばかりに経済危機のしわ寄せを負担させる政策は、さらに推し進められたであろう(この傾向は抜本的ではないにせよ、総選挙で左派が勝てば是正されるだろう。国の機関を私有化したサルコジの数々の不正行為に終止符が打たれ、民主的な福祉国家が回復することを多くの市民が期待している)。 しかし、危機はそれだけではない。サルコジは極右政党の国民戦線が主張してきた反移民・排外主義をこの5年間ですっかり自らの言説にとりこんでいたが、2月に出馬を表明して以来、その傾向はさらにエスカレートした。今回の選挙キャンペーンで彼は、国民戦線の掲げる反移民・反イスラム主義と同様の言説を繰り返し、国粋主義を謳った。その結果、第一次投票で国民戦線の党首マリンヌ・ル・ペン(創始者ジャン=マリ・ル・ペンの娘)は、有効投票の17,9%(640万票)も得票したのである。2割近い国民戦線支持者の存在に加えて、彼らと同じ排外的な言説を弄する大統領、そして共和国の価値観から逸脱した大統領を批判できない保守政党が政権をとっていたら……と思うとぞっとする。いったい何が起きたのか、見極める必要があるだろう。 サルコジが大統領に選出された2007年まで、共和国連合(UMP)など従来の保守政党の政治家たちは、(まれな例外を除いて)国民戦線と選挙での協力関係を拒みつづけ、ジャン=マリ・ル・ペンの言説を人種差別的でファシズムに近いポピュリズムと位置づけていた。実際、ル・ペン(父)は人種差別、反ユダヤ主義の発言によって、これまで何度も訴えられて有罪になっている(人種や宗教、出身などによる差別を煽る発言や行為は、法律で罰せられる)。したがってル・ペンに投票することは「言うのが憚れる」行為であり、国民戦線の支持率が世論調査で過小評価される原因となった。2002年の大統領選の第一次投票で、社会党候補のジョスパン元首相をおさえてル・ペン(父)が2位に入ったとき、どの世論調査も17%近くにいたる国民戦線の高い得票率を予測できなかったのだ(今年の第一次投票でも、世論調査の予測を3ポイント以上も上回った)。 第二次投票では、ル・ペン(父)の躍進に衝撃を受けた左派の人々の票も得て、シラクが再選された。ル・ペン(父)は17,8%近く、550万票を得た。しかし、5年後の2007年の大統領選の第一次投票では、ル・ペン(父)の得票率は10,4%(380万票)におさえられた。それは、国民戦線支持者の票の一部がサルコジに流れたからだと分析された。というのも、2002年からのシラク政権下で内務大臣を務めたサルコジは、移民や郊外の移民系の若者たちを「犯罪者」扱いする言説を頻繁に弄したため、移民と移民系のフランス人、イスラム教徒を敵視する人々の人気を得たのだ。2005年の晩秋に起きた大都市郊外の「暴動」は、郊外の若者たちを「社会の屑」や「ごろつき」呼ばわりしたサルコジの言葉の暴力に対する回答であった面も強い。そして、連日テレビが派手に報道した「暴動」の映像に恐怖感をかられた人々(とりわけ農村部や高齢者層)が、当時のブッシュ大統領さながら「スーパー保安官」を演じるサルコジに期待を寄せたようだ。 大統領になったサルコジは、すぐさま最も裕福な層の減税を行うと共に、国民戦線支持者を与党支持にとりこむために、治安政策の偏重と同時に反移民・排外主義の政策を進めた。まず、「移民と国(民)のアイデンティティ省」を新設して「移民」の敵視を制度化し(この省は2010年11月に廃止、内務省内に統合された)、「国(民)のアイデンティティ」についての討論会を各県で強制した。移民系のフランス人や外国人と「フランス人」を分断しようとする国家主導の討論会に対して、大勢の有名無名の市民や政治家が抗議し、署名が行われた。また、2011年までの7年間に新たに5つも移民・外国人に関する法律がつくられ、外国人の入国・滞在規制はますます厳しくなった。非合法滞在者の国外追放の目標数が定められ、その数を増やすために移動生活者のロマを集団追放して、欧州議会と欧州評議会から「差別的で人間の尊厳を損なう措置」だと糾弾されたほどだ(ルーマニアとブルガリア国籍のロマはEUに属するため、原則的に追放できない)。2010年7月、移民と犯罪を結びつける演説をサルコジが行った後は、大統領以下、一部の大臣や与党UMPの議員によって、国民戦線と同様の反移民・反イスラムの言説が繰り返された。ごくごく少数(推定2000人以下)のイスラム教徒の女性が着用する「ブルカ」(全身と視界確保部分以外は顔も覆うヴェール)の公共の場での着用を禁止するために、新たな法律がつくられた。
このように大統領以下、国の要人が国民戦線の言説を正当化したらどうなるかといえば……マリンヌ・ル・ペンの支持率が上昇したのである。むろん、躍進の理由はそれだけではない。国民戦線の特徴は国粋主義・排外主義と共に、政治家や官僚、エリートに反発したポピュリズム、EUとユーロへの反感である。したがって、政治(すべての既成政党と政治家)に幻滅した人々、とりわけ没落した工業地帯など失業者が多い地区の不満票を集めていた。ル・ペン(娘)は父親流の露骨な差別発言を避けて「モダンな」ナショナリズムへの変身を狙い、社会政策(移民は対象外)を強調して弱者の味方というポーズをとった。その結果、富豪と親しい成金趣味のサルコジよりよほど「身近な」政治家として低所得者や失業者の層にくいこみ、ル・ペン(父)のスタイルにはなじめなかった女性の支持者も増やした。大都市とその郊外での票は減ったが、小・中都市や「周辺」とよばれる人口密度の低い地域、農村部で支持率をのばした。 サルコジ陣営は選挙キャンペーン中、この国民戦線支持者層をつかもうと必死になり、第一次投票後はさらに右傾化した。労働組合を敵視して、メーデーに対抗する「真の労働の祭典」(この表現は、ナチスに協力したヴィシー政府の長ペタンが使ったもの)を催すなど、国民戦線をしのぐほどの極右の言説を弄した。 さて、第二次投票の結果、オランドが有効票の51,62%を得て(サルコジ48,38%)当選した。投票率は80,34%で2007年より少し後退し、白紙投票が200万票以上あった。ル・ペン(娘)は「与党も左翼も同じ穴のムジナだ」という立場から白紙投票を呼びかけたが、第一次投票時の国民戦線支持者の半数強(54%)はサルコジに投票したと見られている。中道派バイルー候補(第一次投票で9,13%)は第二次投票寸前に、極右化するサルコジの言説は自分たちの価値観から逸するとして、オランドの経済政策を批判しながらも彼に投票すると発表した。しかし、バイルーの支持者の44%はサルコジに投票したとされる(オランドへは38%)。 地域分布では従来の政治地図がさらに強調された。オランドが優勢だったのは西部、南西部、中央部、北部、海外県。サルコジは東部、南東部、イルドフランス地方のまわりとコルシカ島。労働者、従業員、管理職、知的職業などの社会層、年齢別では60歳以下の過半数はオランドに投票した。(サルコジが優勢だったのは年金生活者、職人、商人、自由業、社長)「真の労働者」に労働組合、教員、公務員などを「特権エリート」として対立させようとしたサルコジの言葉に、多くの市民は(今度は)騙されなかったのだ。
何より残念だったのは、大統領選にあたってもっと大切な数々のテーマと社会のビジョンがじゅうぶんに討議されなかったことだ(これにはマスメディアの責任も大きい)。今年の選挙では、長年のネオリベ政策がもたらした貧富の差の増大と失業者の増加、ギリシアなどヨーロッパの経済危機に対する不安に対して、どんな政策を提案できるかが最も大きな争点だったはずだ。緊縮の続行を主張するサルコジ陣営に対して、オランドは緊縮策を緩和して成長を重視する転換を掲げ、最も富裕な層への増税、教員の増加や若者の雇用対策を提案した。また、司法や報道の独立を蹂躙し、さまざまな収賄・不正疑惑のあるサルコジの統治のやりかたに対して「公正」を掲げた。それらの争点を避けるためにも、サルコジは反移民・反イスラムのテーマで人々の関心を現実からそらそうとしたのだ。福島第一原発の事故以来ようやく意識の変化が始まった原子力とエネルギー政策のテーマ、教育や健康、高齢者問題などの重要なテーマも争点からはずされてしまった。 EUに対して緊縮だけでなく成長政策を提案するというオランドに対して、より左派の左翼戦線(第一次投票で11,1%、左翼党、共産党などの共闘戦線)や反資本主義新党(1,15%)はもっと抜本的なネオリベラル政策否定を掲げている。同じく5月6日に行われたギリシアの総選挙で二大政党が大きく後退し、再びユーロ危機が懸念される状況で、EUの他のパートナーに対してオランドがどれほど「転換」を説得できるか、懐疑的なむきも多い。しかし、「若者」と「公正」を最優先課題とし、選出後の最初のスピーチで「共和国の子どもは誰も、無視されたり見捨てられたり、おとしめられたり差別されたりすることはないだろう」と未来形で語った新大統領の言葉に、(それはなかなか実現できない目標だろうけれども)とにかく悪夢は終わったという安堵と歓びを感じずにはいられなかった。 2012.5.9 飛幡祐規(たかはたゆうき) *写真(上の3枚 5月6日の夜、バスティーユ (c) Didier Fontan 2012 Created by staff01. Last modified on 2012-05-11 17:04:29 Copyright: Default |