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原発事故から目を放せず、復興のめどさえ立たない被災地を見る
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↑ 市の中心部常磐線「原の町」駅前通りの夕刻(4/15)

↑ 「原の町」駅前通りの商店(4/15)

■ ゴーストタウンに暮らす2万6千の市民

 南相馬市は福島県の北部にあって、宮城県に近い。そして、福島原発から20キロ〜30キロ圏に入り、強制避難地域と屋内退避地域に指定された都市である。人口は72,000人だが、3分の2の市民は自主避難して、約3分の1の26、000名ほどが現にここで暮らしている。  出発前の4月10日前後に南相馬市に行くためにどんな準備をし、どのような手段・経路で行くのかを事前に調査した。主に南相馬市ボランティアセンターに電話で事情を聞いた。その説明によれば電気、ガス、水道などのライフラインはほぼ回復し、一時期枯渇したガソリン供給もほぼ復活したとのことであった。しかし、ボランティアは食事、宿泊、移動を自活し、そして放射能被爆の危険も自己責任だと告げられた。
 実際に来てみてそうであることを確認した。街中は商店が閉まり、通りに人影がない以外に被災の実態は外見では見えない。市の中心部の道路に数少ない自動車が通るくらいで、街はまさにゴーストタウンである。主要な交通手段である鉄道(常磐線)が不通で、南北を走る国道9号線も南部の小高区手前で遮断されている。海岸の港も壊れたままで、海上交通も復活していない。外部との流通は県道のみだが、関東への南部・中部の道は川俣町、浪江町、葛尾村と30キロ圏内の汚染地域を通らなくてはいけない。道は北側の相馬市を迂回する道路のみである。東京に戻る15日現在、食料、燃料その他物資の供給はかなり復旧している様子だが、福島原発の事故から目を放せず、復興のめども希望もまだ見えていない。

↑ 原発から20キロ圏内・避難区域手前への検問所(小高区 4/15)

↑ 避難区域(小高区)傍にある畜舎の中にコンテナがあった

■ 強制避難地区・小高区(南部)周辺:放射能の脅威が漂う危険地帯

 南相馬市の現状をもっと知りたいと、ボランティア活動の仕事前(早朝)や終わった後(夕刻)に市内の被害地域を車で回った。市の南部・小高地区は20キロ圏内の強制避難区域だ。15日の朝、20キロ圏内の小高地区を目指して車で走った。南相馬市の中心部(常磐線原ノ町駅・閉鎖中)から県道120号線を南下。道の両側には都市近郊でありふれたドライブインの商店やレストランなどが並んでいるが、大方閉鎖・休業している。
 20キロ圏内に入る手前の交差点で検問所があり、装甲車が止まり、数人警官が立っていた。何と彼らは警視庁(東京都)の警察官であった。マスクをしているが、野外にもかかわらず放射線の防護服など着けていない。屋内退避の例外なのか?警官に何時から来ているのかと聞くと、われわれと同じ3日前からと言う。放射能被害を抑えるため短期派遣の交代制なのか?
 われわれはそこから先への立ち入りは許されなかった。許可された者だけが立ち入りできる。放射能の危険と同時に避難区域内に空き巣が多発しているから警戒していると思われる。また、この地域の住民はこれほど長期の避難になると思わず、一度荷物を取りに自宅に戻りたいという要求を市役所の窓口で聞いた。
 20キロ圏内の阻止線を避けて120号線から海側に向けて進むと、すぐに津波の被害の跡が眼前に広がった。この辺りは畑と住宅と工場が混在している。海に近づくにつれて被害の程度が大きくなっていくのが分る。さまざまながれきが道の脇にうず高く積まれている。がれきが道路を通すために脇によけられたものだ。そして、放射能の汚染が広がり、何時強制退去地区に指定されるかも知れないので、完全な片付けられないのだ。道の両側は半壊した一部建物を除いて荒野のような土砂の原になっている。ところどころに電柱が倒れ、自動車やトラクターなど様々な残骸が泥まみれに散らばっている。

↑ 国道6号線の避難区域の交差点付近:1か月前には営業していた

↑ 津波の跡に残された大きな木の根っこ

↑ 泥の中に残されたトラクターに白い放射線防御服を着た作業員の姿があった

↑ 泥の海に多数の自動車が埋まっていた(小高区)

 

■ 北部・原町区(中部)真野川周辺:復興はストップしたまま

 南相馬市の中部・原町区の海岸沿いの県道74号線を走ると、海べりに東京電力原町発電所がある。一帯はところどころ残された船、自動車、建物残骸が浮かぶ泥の原になっていた。この周辺も田んぼや公園、リゾート施設などがあった地域だ。海岸に向かって歩くと高さ5mほどの防波堤が50mほど崩れた個所に行きついた。コンクリートやブロックが砂浜に崩れ落ち、防波堤も大きな裂け目をさらしていた。津波がいかに大きな力で人工物を破壊したのか、改めて驚かされた。数百m先の火力発電所の煙突や建屋は傷がなく、厳然と聳え立っていた。しかし、津波は発電所も襲い、発電能力を破壊し、運転は止まったままである。  見果たす限り広がる泥の原に残された数軒の建物は比較的丈夫なビルだけであった。そのビルも1階部分は破壊され、醜い残骸となっている。泥の原野を良く見るとさまざまな人間の道具が散らばっている。プラスチックの容器や布団、衣類などとともに「環境六法」と読める辞典も泥まみれで残されていた。多くの住民の生活が破壊された証拠であった。  この辺りの残された住宅や工場、設備などの廃墟は自衛隊の手で清掃されていた。大破され残った小さな家に「壊さないで」と書かれていた。持ち主が壊される前に残されたものを回収しようとしているのだ。また、ボランティアの「思いでお返し隊」が掃除している家族の大切そうな物を集めたプラスチックの箱も道端に積まれていた。  災害の爪痕を清掃し、道路を通行可能にする作業などをやっているのが自衛隊員であった。片付けの作業のピークは過ぎたと思われるが被災地のあちこちに自衛隊の車両や隊員が見られた。放射線の脅威の中での復興の土台となる作業を引き受けた自衛隊への住民の評価は高まったと想像される。無責任な言い方かもしれないが、住民自らが復興作業を担える体制が作られていなかったことが反省される。しかし、この歴史的大震災・原発事故を誰が想定出来たろうかとも思う。たぶん昔の言い伝えや教訓が住民たちに伝えられていたのであろうが、今回の災害はそれを上回る数百年に一度の災害だろう。あるいは、そんな大事故を想定した対策を講じてこなかった政府を含めて私たちの責任であろう。

↑ 中部(原町区)の海岸地域で海岸から1キロ近く離れたところに船が横たわっている

↑ 海岸近くの大きな住宅:1階が壊れたが、立っていた

↑ 壊れた堤防の向こうに見える停止した東電・原町火力発電所

↑ 津波の巨大な力で破壊された堤防

↑ 流された農業トラクタの残骸

↑ 「コワスナ」と書かれた廃屋が無残な姿をさらしている

↑ 津波で流された思い出の品が廃墟の上のケースに集められていた


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