大衆運動を裏切らなかった人生〜立山学さんを語る会
2月24日に75歳で亡くなった社会運動家・ジャーナリストの立山学さんを追悼し語る会が、5月14日、東京・飯田橋SKプラザ地下ホールで開催され、83名が集まった。呼びかけは、牛久保秀樹・鎌田慧・佐久間忠夫・高見圭司の各氏。会は呼びかけ人の挨拶のあと、参会者が次々にスピーチ。立山さんが狭い党派主義をこえて大衆運動に邁進し、けして裏切ることがなかった人生が浮き彫りになった。とくに国鉄闘争では、2000年国労本部の当事者(被解雇者)の声を無視して政府と妥協を計った「四党合意」という裏切り行為に対して、はっきりノーを言い、反対派闘争団を激励・鼓舞した意義が強調された。また発言者の多くは、原発問題に言及したが、反原発運動の大統一戦線をつくることが、立山さんの遺志を活かすことではないか、と期せずして一致した。(M)
↓呼びかけ人・佐久間忠夫さん
↓多くの人が集まった
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<立山学さんのことば 「変革の力は民衆の運動と闘争の中にしかない」>
支配の危機がふかまって、階級対立が、激化すると、「強い指導者」待望論が登場することは、歴史経験が示している。・・・しかし、時代遅れとなった体制を打破して、歴史を前に進める、「真の強いリーダーシップ」と変革力は、民衆の利益を表現する、民衆自身の運動と闘争の中にしかない。右でも左でも、「強い指導者」を待望し、強い指導者に「おまかせ」した結果が、巨大な破壊を社会にもたらした事例は多い。(レイバーネット「立山学の渾身レポート」緊急連載・その3より 2010.7.16)
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故・立山学略歴
1935年 熊本県菊池市に生まれる
1959年 九州大学経済学部卒業
(九州大学在学中から社会党青年部で活動)
1960年 安保闘争の最中、雑誌『社会主義』の編集者として着任。社青同(日本社会主義青年同盟=旧社会党系青年組織。1960年結成)港支部(東京)を組織化。浅沼社会党委員長刺殺抗議デモに参加。右翼のテロに危機感をつのらせる。三池無期限全面スト支援のため各労組をオルグ。
1961年 三池闘争支援のため「三池を守る会」を組織化。医療労働者の人権侵害、労働条件改悪に抗議する闘争支援(十仁・愛育・船員・慶応病院など)。
この頃、太田薫さんが「立山のオッサンは『社会主義』の編集より、赤旗を持って走るのが好きなんだよな!」と笑っていた。
1962年 「社青同結成のためには好きな歌で」と新宿の“ともしび”や“どん底”に出入りして楽しんだ。また、社青同の旗を担いで陣馬山、高尾山、相模湖などへのハイキングを組織。
1964年 社青同第4回大会、委員長空席のまま永田恒雄副委員長、立山学書記長を選出。社青同は中執入れ替えへ(結成以来の構造改革派系執行部から社会党左派・社会主義協会派を軸とする“左派系執行部”にイニシアティブが移る)。
1965年 反戦青年委員会「立ち上げ」に努力。改憲阻止青年会議は挫折。
1968年 社青同第8回大会で立山委員長を選出。
1969年 社青同第9回大会で立山執行部が総退陣。
(以降は執筆活動が中心となる)
1979年 太田薫氏の都知事選出馬表明とともに、太田後援会活動を行う。
1981年 労働戦線の「右翼的」再編に反対して、総評3顧問(太田薫、岩井章、市川誠)が総評防衛の「3顧問声明」を発表、後の労研センター(労働運動研究センター・82年)に発展。この時、太田事務所の事務局員を担う(当時の肩書は雑誌『社会主義』編集長)。
(1980年代中盤以降、雑誌『世界』、同『現代』などを中心にフリージャーナリストとして健筆をふるう)
1986年 「国鉄の分割民営化反対東京会議」(2月)結成で幹事に。国民会議結成(同年5月)から国労修善寺大会に至る過程で、ジャーナリストとしての分割民営化の本質暴露や運動家としての裏方を含めて八面六臂の活躍。
1987年 東京会議のつながりから新宿区長選挙の革新統一候補へ。3万3千票を獲得するも次点。
1989年 「新宿ウォッチング活動」で新宿区の運動との関係さらに深まる。
1990年代〜2000年代 国鉄の分割民営化問題の追及継続と同時に、日本育英会労組などと連携しつつ独立行政法人の民営化にはらまれる利権問題を暴露。
2011年 2月24日、口くうがんのため逝去。
『バキューム車奮戦記』(創林社)『国鉄民営分割の政治算術』(ヒューマン・ネットワーク)『JRの光と影』(岩波新書)、『JRのゆがんだ決算』(共著・教育史料出版会)『あゝ非情』(監修・教育史料出版会)『JR東海と東日本は何故戦うか』(カッパブックス)『野村証券スキャンダルの検証』(共著・健友館)『都庁新宿移転』(健友館)『「国鉄民営分割」五年目の決算』(健友館)など著書多数。
(注)1960年〜1979年までは松木岩雄執筆、それ以外の文責は江藤正修。2000年以降の国鉄闘争で立山さんは活躍していますが、この年表は準備不足のため、割愛されています。ご了承ください。
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Last modified on 2011-05-14 22:35:00
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