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女性の地位が進歩〜憲法草案に関わったベアテさんのスピーチ
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*以下、転載情報。

ベアテ・シロタ・ゴードンさんは、ご存知のように、元GHQで日本国憲法の草案
に関わり、人権条項を、特にアメリカ憲法にさえなかった24条(家族生活にお
ける個人の尊厳と両性の平等)を、日本国憲法に入れてくださった人です。

 
 ベアテ・シロタ・ゴードンさんのスピーチ
   (2008.5.6 舞洲アリーナ)
 *「もぐら@9条さん」による書き起し

〜〜〜〜スピーチ(ベアテ・シロタ・ゴードンさん)〜〜〜〜

 今日は、ここに平和のために活躍している多くの人たちが集まっている事は本
当に素晴らしいことです。(拍手)
私は「第9条」の専門家ではないです。
私は「男女平等」のことを憲法の草案に書きました。(拍手)
私はシロタといいますが、本当はシロウトです。(会場、笑い)
しかし私は、お母さんでもあるしおばあさんでもあるので、わたしはむしろ第9
条に興味をすごく持っています。

 マッカーサー元帥は、本当には日本の政府がちゃんと民主的な憲法を書けばそ
れが一番いいと思いました。
そしてマッカーサーは松本烝治に頼んで、松本さんはどうしても民主主義的憲法
を書く事ができませんでした。
二三回やって見たんですけれども、いつでも明治憲法と同じものが出て来たので
す。
(会場、笑い)
だから、マッカーサーは憲法を創ることを自分のスタッフに命令したのです。

 私はちょうどそのときに1945年の12月に日本にいました。
なぜならば、戦争中ずっとアメリカの大学で勉強していたので、お父さんとお母
さんは日本にいましたので、私は親に会いたかったのです。
占領されていた日本にはアメリカ人は行かれなかったのです。
アメリカ軍属の仕事を探してそれを見つけて日本へ飛んで行きました。
日本についてすぐ親を捜しに行きました。大変だったです。
ジープに乗って、破壊された東京の中で、乃木神社のそばの赤坂区檜町十番地に
あった私の家を探しに行きました。
残っていたのは一つの石の柱だけでした。隣の家も焼けていましたので、本当に
がっかりしました。
 パパとママが、戦争中ずっと軽井沢に住んでいたので、私は軽井沢に行って燃
料の不足、食料の不足、よく解りました。
軽井沢に冬に行った事がなかったので、十二月の寒さは恐ろしかったです。皆様
の戦争中の状態がよく解りました。

 私は仕事のために東京へすぐ帰らなければならなかったのでマッカーサー元帥
の司令部、第一生命ビルへ行きました。
そこには民政局という事務所がありました。
その民政局は日本の政府と一緒にいろんな占領規則を創りました。
私は、そこに入って最初の仕事は女性政治運動、そして小さい政党の運動のリサ
ーチだったのです。
その時には小さい政党がずいぶんあったのです。
だから朝から晩まで忙しかったです。そして一ヶ月そこで務めたあと1946年
の2月の4日の朝、十時に民政局部長ホイットニー大将が私と他のスタッフメン
バーを呼んで次の事を発表しました。
「あなたたちは、今日から憲法創案・制定会議のメンバーになりました。
これは極秘です。あなたたちはマッカーサー元帥の命令で新しい日本の憲法の草
案を創るのが任務です。」
 これを聞いたのは20人くらいだったです。もちろんみんなでずいぶんびっく
りしました。
発表が終わったあと、???代表者ケーディス大佐が憲法創案の仕事を振り分け
ました。
人権に関する草案は三人に与えられました。
男性2人女性1人、その女性が私だったのです。その時には私は22才だったの
です。(会場、ほぉ〜っ)

 その後3人で相談して、人権の草案については誰がどういうを権利を書けばい
いかとか、二人の男性が「ベアテさん、あなたは女性ですから、女性の権利を書
いたらどうでしょうか。」
私はすごく喜んでもちろん賛成しました。
女性の権利の他にも、学問の自由についても書きたいと言いました。
みんなで賛成して、わたしはジープに乗っていろんな図書館へ行って、いろんな
国の憲法を参考に集めました。
この仕事は極秘だったので、私は1カ所の図書館だけに行ったら、図書館司書が
なぜ司令部の代表者はこんなにいろんな憲法に興味があるのかを疑うといけない
から、私はいろんな図書館に行きました。
 事務所へ帰って来たら、みんながこの本を参考に見たかったので、私は引っ張
りだこになりました。
マッカーサー元帥の命令ではこの憲法を早く書かなければならなかったのです。
一週間、7日間で草案を創らなければならなかったのです。
それで、私は朝から晩までいろんな憲法を読んで、何が日本の国に合うか、また
は自分の経験で日本の女性にはどういう権利が必要であるかを、よく考えました。
 私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかったのです。
配偶者の選択から、妊婦が国から補助される権利まで、全部入れたかったのです。
そしてそれを具体的に詳しく強く憲法に含めたかったのです。

 民政局の他のメンバーはもちろん私と同じようにいろんな憲法を参考にしまし
た。
そしてまた、日本にあった憲法研究家、社会党、共産党と他の組織もGHQにいろ
んな草案を送りました。だからこの新しい憲法にはいろんな国の歴史的英知が入
って来ま
す。

 日本の国民は新しい憲法を喜んで受けました。しかしその時の政府は、あんま
り喜ばなかったようです。(会場、笑い)
保守的な政府だったので、デモクラシーに興味がなかったのです。
国民は日本の新しい憲法がマッカーサー元帥のスタッフによって書かれたという
ことを知りませんでした。
しかし、1952年に占領軍がアメリカに帰った時にある日本の保守的な学者と
新聞記者がそのことを知ってこの憲法が日本に押し付けられたのであるから、改
正すべき
だと主張しました。

 マッカーサー元帥が憲法を日本の政府に押し付けたということが、言えますで
しょうか。
普通、人が他の人に何かを押し付ける時に、自分のものよりいいものを押し付け
ませんでしょう?(会場、笑いと拍手喝采)
日本の憲法はアメリカの憲法より素晴らしい憲法ですから(拍手)押しつけとい
う言葉を使えないと思います。(拍手)

 特にこの憲法が日本の国民に押し付けられた言うのは正しくはありません。
日本の進歩的な男性と少数の目覚めた女性たちは、もう19世紀から国民の権利
を望んでいました。(拍手)
そして、女性は特別に投票権のために運動していました。
この新しい憲法は、国民の押さえつけられてきた意志を表したので国民に喜ばれ
ました。(拍手)
ある方は「この憲法は外から来た憲法であるから改正されなければいけない」と
言います。
日本は歴史的にいろんな国から、ずっと昔からよい物をいろんな国から日本に輸
入しました。(拍手)
漢字、仏教、陶器、雅楽、他の国からインポートしました。
そしてそれを自分のものにしました。
だから、他の国から憲法を受けても、それがいい憲法であればそれでいいではな
いですか。(拍手)

 憲法草案に参加したわれわれはこの仕事について永い間黙っていました。
一つの理由はこれが極秘の仕事だったからです。
もう一つの理由は次のような私の気持ちから出たものです。
憲法を改正したい人たちは、わたしの若さをたてにとって第24条の改正を進め
る事を恐れていました、私は。だから黙った方がよいと思って、私は日本の新聞
記者のインタビューを受けませんでした。
十年前まで親しいお友達にも何にも話しませんでした。

 本当は、デモクラシーの観点から見ると、誰が書いたかと詮索するのは意味が
ありません。(拍手)
いい条項であればそれでいいのです。(拍手)
しかしその時代の者の考え方は封建王権的だったので私は黙っているのがいいと
思いました。

 私は4年前からしょっちゅう日本へ来ました。
日本はどういう風に変わったか、そして女性はどういう風に変わったかを見て来
ました。
ま、今は日本の女性は私の目で見ると、昭和21年から憲法が公布された時から
ずいぶん進歩したと思います。(拍手)
60年は長い間ではないです。
皆様はまだまったく満足していないかも知れませんです。
けれども戦争前の女性の状態と比べると女性の地位がずいぶん上がりました。
(拍手)
大阪と東京といろんな街を歩くとそれがすぐ解ります。女性の顔と動き方に自信
があります。(場内、笑い)
前みたいに奥さんは夫に従っていません。(場内、拍手と笑い)
女性はいろんな職業を持っています。
会社の会長になった女性があります。新聞記者、TVアナウンサー、ドキュメンタ
リーフィルムを作る女性、議会の代表者、女性はそういう役割を今持っています。

 もう60前から憲法を改正したい政治家が現れました。
日本の多くの女性たちは最初から憲法の改正に反対しました。
そして、今まで60年の間に改正がなかったことは世界で初めてです。(拍手)
私は、この憲法が非常にいい憲法であるから改正されなかったと思います。(拍
手)
この憲法を改正しないで、他の国々に宣伝すれば、いろんな国に9条がモデルに
なる可能性がありますね。(拍手)
そして、平和をみんなで手をつないで作ることができると思います。(拍手)

Created by staff01. Last modified on 2008-05-08 15:44:51 Copyright: Default

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