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【報告】松川事件元被告講演会
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特急たから@福島です。
11月3日、福島大学で開催された「元被告が語る松川事件の真実」〜松川事件元被告講演会に行ってきたので報告します。

まず報告に入る前に、半世紀以上前の事件なので、松川事件の概略からご説明します。

1906年の鉄道国有法制定により、既存の民営鉄道を買収して官営となった日本の鉄道は、その後、帝国鉄道庁〜鉄道院〜鉄道省〜運輸通信省〜運輸省と組織を変えながらも一貫して官営で経営されており、鉄道は「省線」、路線バスは「省営自動車」と呼ばれていました(省営自動車はその後、国鉄発足に伴って国鉄バスに名称を変える)。
戦後、官営鉄道には日本最強の労働運動が生まれましたが、占領軍・マッカーサー元帥の意を受けたポツダム政令201号(注)によって官公労働者のスト権が奪われる中、日本政府・占領軍当局は行政機関職員定員法(総定員法)を制定。国鉄は9万5千人の削減が義務づけられ、大量首切りが避けられない情勢でした。
1949年、このような緊迫した情勢の中で運輸省の現業部門が公共企業体として独立し、日本国有鉄道が発足。初代総裁の下山定則が轢死体で発見される下山事件、三鷹駅で列車が暴走する三鷹事件(7月)が発生した1949年夏は、血塗られた謀略の夏の様相を帯びていました。松川事件はこの1ヶ月後の8月17日に発生。東北本線・金谷川〜松川間で列車が転覆し、乗務員3人が死亡しました。

この事件では国労福島支部、東芝松川工場労組の共産党員を中心に20人が逮捕・起訴され、第1審(福島地裁)は死刑5人を含む全員有罪の判決。第2審(仙台高裁)は3人が無罪となったものの、死刑4人を含む17人が有罪。17人が上告して最高裁で争われる頃には国内はもとより、ソ連からを含む国際的支援活動も活発となりました。最高裁は、7対5の僅差で1・2審を破棄して仙台高裁へ審理を差し戻し。差し戻し審となった仙台高裁で61年、ついに17人全員が無罪判決となりました。懲りない検察側はそれでも最高裁へ上告しますが、1963年9月12日、検察側の上告棄却。第2審で無罪となった3人を含め、これで被告20名全員の無罪が確定しました。

下山、三鷹と合わせた「戦後国鉄三大怪事件」は、労働運動と共産党に打撃を与えるために占領軍当局が仕組んだ謀略との説も未だに根強く、松川事件でも、事件現場で直後に大柄の外国人を見たという証言も寄せられました。占領時代、存在は公式に確認されなかったものの、今では存在した可能性が高いと考えられている占領軍当局の秘密諜報組織(通称「キャノン機関」)の関与が噂された時期もありました。結局、占領下という特殊条件で治外法権の壁は厚く、真犯人はわからないまま松川事件は迷宮入りしましたが、事件の経過と裁判を見る限り、仕組まれた戦後最大のえん罪事件だったと言えます。

講演会は3日午後1時半から、福島大学の学園祭イベントのひとつとして開催され、いずれも国労福島支部組合員だった阿部市次さん(84歳)と鈴木信(まこと)さん(87歳)の元被告おふたりをお迎えしました。
阿部さんは、8月22日に逮捕され、8月1日から31日までの行動を警察で執拗に聴かれた際に、確実に記憶に残っていることだけを供述したところ、「自分も忘れていた当日の行動を警察が自分に教えてくれた」といいます。東芝松川工場労組の事務所に電話してもいないのに自分が電話したことにされていたり、事件現場を目撃した人が誰もいない中で、事件現場に近い踏切で警手をしていた職員が執拗に「現場で被疑者らを見たと言え」と自白を強要されるなど、凄まじいでっち上げ攻勢が続いたと証言。しかし、この踏切警手は「当日、風邪を引いて出勤せず官舎で寝ていた」と供述し、結局警察の脅しに屈しませんでした。事件現場付近の農民も警察の事情聴取を受けましたが、警察の思惑通りに被告らを見たと証言する者は現れなかったといいます。阿部さんは「何を言われても知らぬ存ぜぬを貫いたのは、民衆の抵抗として評価すべきである」とその意義を積極的に認めました。

阿部さんはさらに、起訴後の裁判の過程でも、被告らに有利な証拠が数多くあったのに、それらはことごとく法廷に提出されず、被告らに有利な鑑定も採用されないまま1,2審で有罪となったことに対し、「事実を簡単に踏みにじる」裁判官への怒りを露わにしました。その上で、「今、裁判員制度導入に向けて準備が続いているが、裁判員がえん罪を生んだらどう責任を取るのか。元特高官僚と戦犯裁判官が反省しないまま支配し続けたのが日本の戦後の司法である。真に必要なのは裁判員制度などではなく司法の民主化であり、国民の力で司法を変えなければならない」と訴えました。また、自分自身がえん罪裁判を闘う中から得た教訓として「被告に有利な証拠をどう提出させていくかが課題」「国民に真実を伝えることが重要であり、本当の闘いは法廷の外にあるのだと実感した」と述べました。

阿部さんの話は、実際に無実の被告として10年近くも拘留された経験の中から得た話であるだけに、薄っぺらな評論家が訳知り顔でのたまうテレビの「法律相談所」よりずっと迫力があり、重いものだと思います。バラエティ番組に出演するのが自分たちの仕事だと勘違いしている「なんちゃって弁護士」にこそ、この話を聞いてもらいたいと思います。

阿部さんのお話が、いわゆるこの手の政治的な集会としてはもっともオーソドックスな部類のものであるとするならば、鈴木さんのお話は一風変わったもので、さながらみずからの「獄中体験記」といった感じのものでした。
鈴木さんは、ポツダム政令201号(前述)反対闘争で組合員から不信任を受け、職場に戻ったものの、首切り問題が発生したために「請われて組合活動に戻った」という経歴の持ち主。逮捕の朝は、すぐに戻れると思い、ラフな格好のまま警察に行ったといいます。「自分の取り調べを担当したのは元特高だった。元特高が配置されていたのは当時、東京と福島だけ。(下山、三鷹事件の東京と松川事件の福島だけに特高が配置されていたのは偶然ではなく)仕組まれていたのではないかという気がする」と謀略の疑いを指摘しました。「当時、人員整理の対象となった者の中には新規採用の職員も含まれていた」という証言も謀略をうかがわせるものだと思います。人員整理が国鉄での計画的なものであれば、その前夜に新規採用など考えられないからです。

結局、松川事件の1審判決公判は突然日程が延期されました。有罪判決を書いた長尾裁判長はその後、「功績」が認められ名古屋高裁判事に「栄転」しますが、その直後うつ病にかかってしまいます。長尾裁判長の家族は、今でも裁判長がしたためていた判決文の「原案」を家宝にして保管しているそうで、研究者たちは「家族が保管している判決文の原案は無罪だったに違いない」と指摘しています。突然延期された判決公判、家族が家宝にしている判決原文、そして、抗うことのできない巨大な力によって“不本意”な判決を書かされた結果、心を患うことになった裁判長…すべてが謀略をうかがわせる傍証だと思います。

「宮城刑務所に移送後は、裸にさせられ、肛門にまで手をかけられ身体検査をされた。ここで耐えなければと思って耐えた」と警察でのひどい人権侵害の実態も証言しました。しかし、ここからが鈴木さんの真骨頂。死刑判決後の留置生活の中で、看守が毎日朝9時に処刑対象者を呼びに来る当時の拘置所のあり方に疑問を抱いた鈴木さんは、「今日こそは自分の番ではないかという恐怖を収容者は毎日味わっている。毎日毎日いたずらに死の恐怖と極限の緊張感を強いるとはどういうことだ」と拘置所長を呼び出し交渉、制度を改めさせたばかりでなく、テニス好きの隣の死刑囚が「死ぬ前にもう一度でいいからテニスをしたい」というのを聞き、また拘置所長を呼び出して交渉、ついに拘置所内にテニスコートを造らせることに成功したそうです。囚人だからあきらめてしまうのではなく、囚われの身にあっても権利を主張し、意思を貫く鈴木さん。腐らず、折れず、飄々と闘うその姿に人柄がにじみ出ています。
鈴木さんの話を聞き、改めて思いました。権利は闘い取るものである、ということを。新自由主義と格差社会が広がる中、塀の外でも囚人のような人ばかりの現代にあって、塀の中でも堂々と、それも自分のことは後回しにして他人のために闘う鈴木さんの体験談はとても新鮮な響きを持つものでした。

侵略戦争と敗戦から、民主化と東西冷戦を背景とした「逆コース」という複雑な時代。その時代に翻弄されながら、えん罪の中を生きた20人の被告たち。単に時代と片付けてはいけない。戦後史の闇は解明されなければならないし、えん罪が生まれた背景を検証し、政治的思惑で動いた者たちの巨悪は断罪しなければならない。それこそが、無実の罪で呻吟する人々たちを2度とつくらないようにするために私たちがなすべきことではないでしょうか。半世紀前のえん罪事件の被告たちが語る声は歴史の1ページではなく、いまだにえん罪事件が絶えることのない現在へ打ち鳴らされる警鐘なのだと思います。

この講演会を開催した福島大学は、松川事件発生地にほど近いJR金谷川駅のそばにキャンパスがあります。「松川事件資料室」を学内に設け、定年退職した福島大学OBを研究員に任命し、収集してきた事件関係の資料の管理に当たっています。資料室は現在、NPO法人としての認証を申請しており、認証されれば大学から独立したNPO法人として松川事件の資料収集・研究に当たっていくことになります。資料室の今後の発展を期待したいと思います。
なお、余談ですが、国鉄闘争共闘会議とJR20年の検証運動が2007年春に発行したパンフレット「民営化20年の検証」が私の手元に2部あったので、資料室への寄贈を申し出たところ快諾していただきました。戦後労働運動のリーダー的存在だった国労に仕掛けられた最初の攻撃が「国鉄戦後三大怪事件」であるとすれば、1987年の国鉄解体、1047名解雇はそれに劣らない巨大な敵の攻撃です。2つの国労攻撃を連続する歴史としてしっかりつないでいくことは、国鉄闘争にとっても大きな力になるに違いありません。


(注)ポツダム政令…敗戦によって、日本政府は「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」と題した勅令を制定した。旧帝国憲法の下でも、国民の権利を制限したり、新たに義務を課する場合は法律によらなければならなかったが、この勅令は、占領軍当局からの要求があった場合には、政府が勅令(日本国憲法施行後は政令)によって権利を制限したり、義務を課する内容を定めることができるとするものだった。「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づいて制定された勅令・政令はポツダム勅令・ポツダム政令と呼ばれるが、官公労働者のスト権を奪った昭和23年政令201号(正式名称は「1948(昭和23)年7月22日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」)もこのポツダム政令のひとつである。占領下という特殊事情にあったとはいえ、官公労働者の労働基本権のひとつであるスト権を、国会の議決によらず政令1本で奪い去ったことはもちろん違法であり批判は免れないものである。
なお、ポツダム政令は、サンフランシスコ講和条約の効力発生の日(1952年4月28日)から180日以内に法律としての存続または廃止のいずれかの措置をとらなければならないこととされており、存続・廃止のいずれの措置も行われないものはその後全て失効することになっていた。政令第201号はその後廃止されたが、ほぼ同じ内容(公務員のスト禁止)が国家公務員法、地方公務員法、国営企業労働関係法(その後の公共企業体等労働関係法)、地方公営企業労働関係法に盛り込まれ現在に至っている。ちなみに、このとき存続が国会で議決され、法律として生まれ変わったポツダム政令のうち、もっとも有名なものが出入国管理令(現在の出入国管理及び難民認定法)である。

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