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働きすぎと民主主義の危機(パリ・飛幡祐規)
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パリの飛幡祐規です。

10月22日の晩にフランスの国営テレビFrance2d放映される報道番組(「調査の補足」というタイトル)は「仕事」がテーマなのですが、その中で日本の「過労死」やフリーターのルポが紹介されます。実はこのルポの翻訳をこちらでしたのですが、最高裁で勝訴した電通社員の自殺訴訟の件、現在のサラリーマンの1日を追った映像、小児科医の過労死の件で闘う妻、高円寺の若いフリーターの新しい生き方(最低限働いて自分のやりたいことをする)、企業の「メンタルヘルス」対策の実態など、24分間で紹介されます。

ルポをしたフランス人のジャーナリストとモンタージュの女性といっしょにナレーションのための翻訳を進めたわけですが、彼らの反応がとても興味深かったです。とりわけ、連合の人が日本の労働基準法を説明し、「例外的に、1年のうち6か月あるいは6回、制限なく時間外労働できる(させられる)」と語ったときには、ぎょえーというか絶句というか、信じられないという反応でした。わざわざ隣の部屋の同僚たちに声をかけたほどです。それから、会社の管理職の人が最近では超過時間数の管理に気をつけているという説明の中で、「そうでないと、会社にずっと居続けてしまう人もいるんですよ。仕事が趣味みたいな人も多くて」と語ったり、メンタルヘルス管理では「そういう問題を抱えている社員さんたちの悩みをきいて、会社のほうでも助けたい」とか言うので、苦笑というか・・・

ところで外国に住んでいてたまに日本のことを読んだり聞いたりするときにいつも思うのですが、なぜここ15年〜20年くらいでしょうか、日本では政策や社会現象をあらわすのにやたらと英語を使うようになったのでしょう? この「メンタルヘルス」にしてもパワーハラスメントにしても、英語を使うことによって現象が曖昧な観念となってしまっているのではないでしょうか? 「タウンミーティング」のように、もともとアメリカの直接民主主義の形態を示した言葉を政府主導のごまかし公聴会(それもほとんどやらせだった)に使うのは事実を歪曲して国民をだましているわけだし、労働者の心理的・精神的な問題や障害に対して、英語を使うことは、それを直視しない政府や企業の態度のあらわれのように感じます。

漢語はかたくて今の日本人の心にひびかないのかもしれませんが、それなら「いじめ」や「いやがらせ」など人々の意識にとどく日本語をメディアや文章にかかわる人々はつくっていくべきで、安易に英語を使うことはその問題の焦点をぼかし徹底的に追求しない逃げ道のように感じます。ちなみに、「共謀罪」への抵抗が政府が思ったより強かったのも、この名称が問題だった(恐ろしい内容を直接的にあらわしてしまった)から、呼び方を変えようという話もあるそうですね。安倍の「美しい国」は、それぞれの人にとって「美しい」が思い入れの強い言葉だっただけに、多くの日本人に拒否反応をおこしたということでしょうか。

本題からそれましたが、わたしは「働き過ぎ」が日本の民主主義の危機をおし進めている大きな原因のひとつだと思います。他者と出会う時間、本を読む時間、人を愛したり美しいものに感動したりする時間と心、人間らしく生きる素質が失われるから・・・

Created by staff01. Last modified on 2007-10-22 14:14:59 Copyright: Default

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