「下流社会」を読んで | |||||||
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T@名古屋です。
昨年話題を集めた「下流社会」という本について、新年を記念して(?)書評を書いてみましたので、興味のある方はお読みください。 ------------------------------------------------------------- 新年書評:「下流社会〜新たな階層社会の出現」(三浦展/光文社新書/2005年) 昨2005年後半から好調な売れ行きを記録した話題の本である。著者の三浦展は、消費・都市・文化研究シンクタンク「カルチャースタディーズ」の主宰者。日本国民を各世代に分けてその世代ごとの消費行動を分析しており、1970年代前半生まれを「エセ団塊ジュニア」世代、1975〜1980年生まれを「真性団塊ジュニア」世代と名付けたことでも知られる。 すでに、小泉政権になって2年目の2002年の段階で、上位25%の富裕層がこの国の75%の富を独占しているという格差社会の衝撃的実態が明らかにされている。本書は、ストレートなそのタイトルを見てもわかるとおり、この日本の格差社会の中における「下」の部分に注目してみようというものであり、その狙い自体は、新自由主義的な競争至上社会がもたらす負の部分を明らかにする上で有意義だといえる であろう。 この本は、今の下流社会が置かれている実態を明らかにする。下流社会に属する人々とりわけ若者がどのような階層意識を持っているか、どのような人生観・職業観を持っているか等々を、男女別に「ミリオネーゼ型女」「SPA!型男」などに類型化する三浦の分析は、コミカルな中にも鋭いものを持っており、飽きさせない。 三浦はさらに、下流社会に属する若者たちを「自民党とフジテレビが大好き」な層であると分析してみせる。フジテレビと言えば、低俗番組の代表格のような放送局であり、そのことがかの「ホリエモン」こと堀江貴文・ライブドア社長に「フジサンケイグループは報道からは撤退してバラエティー専門局に特化すればいい」と攻撃される根拠にもなった。 自民党を好む層とフジテレビを好む層が重複しているとは一見して荒唐無稽な主張のようにも思えるが、実はこのような分析は三浦が初めてではない。三浦よりも以前に、フリージャーナリストの安田浩一さんが、自ら集団で靖国神社に参拝したり「つくる会」教科書の採択を支援するために区役所前に集まったりしている「ぷちナショ」な若者たちのオフ会(普段インターネット上だけで交流している者が実際に会 う集まり)に潜入し、その様子を「反体制的なものに対する敵意に近いが、どこか暗い情念を帯びたナショナリズム」であると報告しているからである。私は、下流社会の若者が自民党とフジテレビを好むという三浦の分析に接したとき、そこに安田さんの報告との共通性を感じるのである。 誰もが幸せと認める幸せの形態を仮に「幸せらしさ」と呼ぶとして、そうした幸せらしさは価値観が多様化したといわれる現在でも昔とそれほど変わっていないという事実も、本書の様々なデータ分析から明らかにされる。正規職に就かずフリーターとして働いている理由として、若者の多くが「自分らしく生きるため」「夢を実現するため」を挙げていることは、既に小杉礼子などが行った別の調査によってわかっているが、三浦は、下流に属する人たちほど「自分らしさ」「自分らしい人生」というキーワードを多用することにも着目し、「自分らしさ」という言葉が、他人のような幸せを手に入れられないことに対する逃げの言葉として使用されているという注目すべき分析結果も披露している。 このように、分析者としての三浦の視点は斬新で鋭く、有能さをいかんなく発揮しているというべきだろう。自らの分析した結果をコミカルな表現に乗せて文章化する能力にも長けており、なるほど、その限りではこの本が売れているのもうなずける。 しかし、一方で本書は、労働者・民衆の立場から「階級的に」分析するならば、変革への展望も、方法論も全く持っていないという意味において残念ながら平凡なワンオブゼムの本であると断ぜざるを得ない。三浦は、格差社会の中で多くの若者が下流に置かれている理由についても一応分析を試みてはいる。しかし彼は、下流の若者たちの無気力さ、意欲のなさ、コミュニケーション力の不足などにその原因を求めようとしており、格差社会を若者たちの「自己責任」の中に解消してしまっているからである。格差社会は、現に下流に置かれている者たちの意思とは無関係に作り出されたものであり、それ故に作り出した者の責任を問うことなしには前進できないにもかかわらず、三浦はその点に全く言及していないのである。このあたりは「体制内分析者」としての三浦の限界を示していると言えよう。 しかし、彼自身をして変革の展望と方向性を明らかにさせることなく終わっているとしても、三浦の鋭い分析は私たちをたやすく変革への展望に到達させてくれる。下流に属する者ほど「自分らしさ」というキーワードを多用しているという三浦の分析は、自分らしく生きようとする者たちが現在のシステムでは下流に向かわざるを得ないという、資本主義制度の根本的な矛盾を鮮やかに示すものだからである。 私たちが目指すべき道は明らかである。格差社会の是正は当然として、若者たちが心酔している「ぷちナショ」で問題が解決しないこともはっきりしている。ナショナリズムに身をゆだねたところで自分が何物かに生まれ変わることなどあり得ないし、何か変化があるとしても、せいぜいお国のために寿命が縮まる程度のことであろう。私たちが目指すべきは、自分らしく生きようとする人間が下流ではなく上流として生きることのできる社会である。いや、この表現は誤りなので訂正しよう。上流も下流もなく、勝ち組も負け組もなく、全ての人間が自分らしく生きようと欲し、それが実現できる社会−−『朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判することが可能になり、しかも猟師、漁夫、牧夫、批評家にならなくてもよい』社会(「ドイツ・イデオロギー」マルクス・エンゲルス)−−これこそが私たちの目指すべき道である。 三浦展の「下流社会」は、社会変革を目指す者に対してその展望を示すという点を評価基準にするなら、残念ながら落第点と言わざるを得ない。しかし、格差社会とその中における下流社会の現状分析論としてならば、積極的に合格点を与えてよいと思う。 Created by staff01. Last modified on 2006-01-09 21:00:09 Copyright: Default |