第11話 これって天職?の巻 新戸育郎 (2008年5月25日掲載・連載の一覧はこちらへ。毎週日曜日更新)
教育にはまったくと言っていいほど関心がなかったはずの新戸先生。やむを得ず教壇に立っているうちに、ほとんどは懺悔や反省の日々でありながら、ときたま、この仕事をしていてよかったと思うことがある。そんなときふと錯覚するのだ。これってボクの天職かな?‥‥と。
《教える技術、ごまかす技術》
高校生相手のこの新進ゼミナール、以前の小中学生相手の授業と違うのは、生徒を一応大人扱いできること。相手を一人の人格とみなせるというのは、教える側の責任回避というわけではないが、余計な気を使うことがなくて非常に楽だ。
中学生レベルの知識しかない生徒たちについカリカリとなってしまうし疲れはするものの、それでも楽しく、充実した気分で授業ができる。
もうひとつ、以前の金福学園などとの違いは、夏休みなどの長期の休みの際、特別講習のプログラムが組まれることだ。
普段は夜の仕事なので、昼間に何をするにしても、仕事が始まる時間を常に気にしていなければならない。これはけっこう精神的に負担が大きく、遊んでいるときでも気持ちが解放されない。友人から「最近どうしてる?」などと聞かれるたびに「夜の商売をやってる」と答えて怪訝な顔をされたが、夜の商売をする人というのは、やはりみんなすっきりとは晴れない気分を抱えて1日を過ごしているのだろう。
それに対して夏期講習、冬期講習の時期になると昼間の仕事になる。1日6コマと結構きついときもあったが、昼間仕事が終ってあと自由というのは、実に気持ちのいいものだ。
英語は猛勉強の甲斐あって、何とか講師の知識不足を悟られないよううまくごまかしながら進めることができた。が、夏期講習などではちょっと勉学の意欲のある頭のいい子らも集まってくる。
「先生、それって仮定法過去完了ではないんですかぁ?」などと質問もある。
「あ、あそうだった、ごめんごめん‥‥」と、うっかり間違えたという振りをするのも技術のうちだ。もちろん帰ってから必死に勉強するのだが‥‥。
ところが必死に勉強してもわからない難物に出くわすこともある。例えば、塾から提供された、何度もコピーを繰り返したような粗悪なテキストの中に、こういう問題があった。
aとbの意味が等しくなるように( )内に適語を入れよ。
a:This is the finest cloth of her own wearing.
b:This is the finest cloth ( A ) she wore ( B ).
ちょっと考えてみていただきたい。意味が通じるだろうか? 「自分自身で着ている服」って‥‥? 私にはさっぱりわからなかった。
この頃、私には2種類の強力なサポート体制があった。ひとつは昔英会話を教えてもらっていたアメリカ人にたずねるという手段。もうひとつはネット上の翻訳の勉強グループで聞くという手。このときは考えあぐねて答えが出なかったため、ネットで質問してみた。主催者の英語の教授からすぐに返事が返って来た。
「奇妙な代物だと思います。of her own wearing は無理でしょう。多分、weaving/wove のミスプリをそのままにしてしまった結果ではないかと思います」。
な〜るほど、そういうことだったか。v を r とタイプし間違えて、「編む」の weave/wove が「着る」の wear/wore になってしまったのだ。「自分で編んだ服」なら意味が通る。だから正解は、
a:This is the finest cloth of her own weaving.
b:This is the finest cloth that she wove herself. ということだ。
こんなミスを含むテキストが何度もコピーされているということは、歴代の講師はみんな同じ苦労をしたか、あるいはごまかして通ったか。何しろ普通のテキストなら用意されているはずの講師用のアンチョコがないのだから、自力で解決する以外になかったのだ。
《子どもたちに罪はない》
2年余りのこの新進ゼミナールの教壇で苦労したのは、「難しい問題」ではなく、簡単な問題ですらわからない生徒たちにどう教えればよいかということだった。
普通に大学受験ができそうな3年生はほんの数人しかおらず、それ以外は平均的にはものすごくレベルが低い。
まともに高校生用の教材が使えないので、かなりの部分は中学生用のものを元にアレンジして使ったりした。
疑問文をつくるということさえ怪しい生徒には、『英語の素朴な疑問に答える36章』(若林俊輔著)などを参考にして、カードを作って説明したりもした(ちなみにこの本は、素朴な疑問に答えきれない教師にとって大いに助けになる、ヒント満載の良書だ)。
レベルの低い子たちも、低能なのではない、ちゃんとした教え方をされていないだけなのだ。中学校で何を教わって来たか、それが問題だ。
あるとき、高2の女子生徒が「もっと前から先生に教わっていたら英語が好きになっていたかもしれないのに」と言ってくれた。その日は1日浮き浮きしてうれしかったが、特別素晴らしい授業を展開しているわけでもない私の教え方が良いということは、逆に言えばいかに今までひどい授業を受けて来たかということでもある。
英文を読ませ、日本語で意味を言わせるという授業をしていた時、その子を含め何人かは、文章を前から解釈しようとしない。必ずIを「私は」と言ってから、いちばん後ろにある副詞句などへ飛ぼうとして、わけがわからなくなってしまう。動詞も目的語もすっとばす。
「どうしてそんな風に後ろから読むんだよ? 前から読まないと」というと、「だってそう習ったもの」という。聞くと、彼らが中学生のときこの塾(中学部)で、ある教師が「英文は後ろから順に訳していくとわかりやすい」などと教えたらしいのだ。
確かに関係代名詞などの構文はそうやって訳すと日本語らしい文にはできる。しかしそれでは永遠に英語を英語のまま理解することなんてできない。読むだけならともかく、会話ができるようには絶対にならない。
生徒たちに「アメリカ人は英語を後ろからしゃべるの?」というと「ああ、確かにそうだね」と妙に感心している。
その、英語を読むということを日本語に翻訳することと勘違いしている教師が、他ならぬ新進ゼミナールの理事長で、予備校業界ではかなりの有名人。専門は数学なのだが、中学生に英語も教えていたらしい。
後ろから訳すというのは、その英文がよくわからなくてもある程度の点数がとれるノウハウなのかもしれないが、罪なノウハウだ。英文理解の芽を摘みとっているようなものだとしか言いようがない。
《魅惑の女子生徒たち》
3年生の最優秀な生徒に、一人の素晴らしい美人がいた。
すぐにでも芸能界デビューできそうな美形で、スタイルもよく、頭もよく、しかも真面目で努力家で勉強はきちんとしてくるし遅刻もしない。
よくできる子というのは教える方としてはきわめて楽チン。答えはほとんど正解だし、ほんのちょっとした修正を加えさえすればOK。このまま順調に行けば大学合格は間違いがない。だから私は、この子の担当日が来るのをいつも密かに心待ちにしていた。
ただ1つ問題は、身体が弱かった。美人薄命‥‥なのかどうか、中国の美女、西施が病気の苦しみで顔をしかめたところから「ひそみに倣う」ということわざが生まれたそうだが、病気がちな美人というのはよけい美人の価値を高めるのかもしれない。
一方で、先の「前から先生に教わっていたら」と言った子はなんでもちゃらんぽらん。当ててもすぐに答えを言わず、
「ねね、センセ。さやかのこと愛してる?」
「はいはい、好きだよ。愛してるよ。はい、答えは?」
といった具合。
で、この子が妙に私になついて来た。なぜかよくわからない。特別に補習をしてほしいと言って来たり、プレゼントをくれたり‥‥。
その後その子は塾を辞めることになるのだが、あとからまた連絡をして来たりして、結果的に未成年に酒を飲ませるような事態にまで(うれしいことに)発展する。
が、その話はまたのちほどのお楽しみということに。
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Created on 2008-05-24 17:40:13 / Last modified on 2008-05-24 17:45:41 Copyright:
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